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http://ch.kitaguni.tv/u/5028/%c2%e7%c6%fc%cb%dc%c4%eb%b9%f1%a4%cf%b7%f9%a4%a4%a4%c0/0000168050.html
去年から、ある集まりでWさんと知り合った。この方は現在83才で、若かりし頃をカーキ色に囲まれ暮らした人だ。戦争中、美術学校で勉強した彼女にとって、国民服とモンペしか許されないカーキ色の社会は、相当な苦痛を伴うものであったでろう。
どんな人だって、楽しみや自己表現の1つである、自分の好きな服を着る、自分の好きな本を読む、自分の好きな音楽を聴く、という行為を禁止された生活なんて考えられないと思う。でも、ほんの60年前の日本ではそれが当たり前のことだったのだから。コイズミやイシハラを待望する人間がいることが恐い。この国は、ついそんな馬鹿なことを国民の支持の元に、大真面目にやってきた国なのだから。
そんなカーキ色の時代に、彼女は、不服従を貫いた。
彼女は、1939(昭和14)年に女子美術専門学校(現在の 女子美術大学 )
http://www.joshibi.ac.jp/index_fl.html
に入学する。既に日本は、中国との泥沼の戦争に陥っていた。経済は戦争にシフトしているため、生活物資は不足。食料も配給制になっていた。政府は、国民を戦争に仕向ける為に「国民精神総動員運動」を始めた。ありとあらゆる、国民の嗜好までもコントロールしようとした。町内には「隣組」という相互監視制度が機能した。あそこの家の御主人が軍隊を侮辱した、あっちの家の息子はアカらしい、あそこの家の奥さんは洋服を着ていた。人々は、従順な国家のシモベとなった。
そんな中で、彼女は不服従を貫いた。 興亜奉公日
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に全校生徒が行なう神社参拝をサボる。「こんなことをして、戦争に勝てるなら事は簡単だ。全くばかばかしい」と彼女は感じていた。サボることで何か不利なことが生じても構いやしないと思った。
防空演習もサボった。バケツリレーや、火叩き棒を振り回すより、素早く安全なところへ逃げる練習をした方が確かだ。そりゃそうだ。
学生時代の彼女の、最後で最大の不服従は「レポート不提出」だった。彼女らは、本来なら、1943(昭和18)年3月に卒業だったのだが、半年繰り上げとなり、42年9月卒業となった。実質的授業は4月から7月までとなった。
卒業制作は、夏休みの1ヶ月だけということになる。そんなところに卒業レポートとして、
「『国体の本義』について略述し、思うところを述べよ」
という宿題がでたそうだ。
『国体の本義』というのは、1937(昭和12)年に文部省が皇国史観を徹底させるために作って全国の学校に配布したものである。卒業のためだからと『国体の本義』なるものを開いたら、神話を歴史的事実であるかのごとく記述している。神社の神主さんが唱える祝詞のような文章が続く。彼女は10ページも読まないうちに気分が悪くなってくる。パラパラと先を読んでも、『肇国の精神』とか、『天壊無窮の皇位が万邦に比類がない』とかいうことを『感銘し奉る』だの『…ねばならぬ』という嫌な言葉を網羅して押しつけてくる。
「私は、どうにも我慢がならなくなった。国の目指すところは、こんな荒唐無稽な話を、ありがたいと思わせて、国民を戦場に向かわせ、死を賛美させることなんだ。私がめざすのは『美』を、この地上に生み出すことにある。国の目的と私の目的は相反する。私は国の目的に、自分を合わすことはできない」
と彼女は思った。レポートは書けない。卒業はできないと思うと、気持ちが楽になった。
卒業式が近づいても、レポート提出に関して呼び出しはなかった。卒業式が無事終わり、卒業証書を貰った。あとは文部省から、教員免許状がくるかどうか。卒業式が終わると、彼女は食糧難の東京を後にし、故郷の函館に戻った。2ヶ月くらいたって、『無試験検定教員免許状』が彼女のもとに届いた。
あとから判ったことだが、彼女と同期の女学生は、全員、『国体の本義』のレポートを提出しなかった。
「国全体が狂気になっていた、あの時代に、よくぞ1人1人が自分自身で有り得たと思う」
と彼女は驚嘆したという。
あのとき、一緒に卒業した、不服従の女学生は46名だったそうだ。
投稿者:死ぬのはやつらだ at 15:48