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旧約聖書の「創世記」に於ける「蛇の誘惑」の話には、幾つもの疑問を持たざるを得ない。
書かれていることに従って考えてみても、次のことが大きな疑問として浮かび上がってくる。
蛇からの誘惑があったとしても、何故、善悪の知識の木からは決して食べてはならない、との神の命令に背いたのか?
誘惑に応じた自分自身の責任をどの様に反省したのか?
アダムはイブが渡した木の実を、何の疑いも無く食べたのか?
神の問いと其れに対する返事を抜き出してみよう。
神「取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
アダム「あなたが私と共に居るようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
神(女に向って)「何ということをしたのか。」
イブ「蛇が騙したので、食べてしまいました。」
この後、神は蛇に対して非難の言葉を語られるのだが、蛇の返答は書いてない。
蛇の返答が無いと言うのもおかしいが、
アダムもイブも自分の「落ち度」を認めていないのが気にかかるところである。
神はエデンの園から彼らを追放されたのだが、
神は慈悲深いのであるから、
彼らが、「神の命に背いた事」を、「恥じて反省したのであるなら」ば神は追放をされなかったと考えられるのである。
しかし、蛇の誘惑によって木の実を食べたと言うのは「本当の事なのか?」。
蛇に被けてしまった話なのではないか?
自分達の判断で食べてしまったか、蛇の発言を自分達に都合よく解釈したのではないか。
神の怒りが余りに激しいではないか。
「蛇の言い分、弁明」が書かれていないのはおかしいではないか。
「蛇」は世界で「知恵の神」として崇められている。
日本でも、「御神体」として、また「神の使い」としての扱いを受けている。
この事から考えると、蛇と彼らとの関係には異様な印象を受けるのである。
この事と考え合わせると深刻な論理が浮かび上がってくる。
「蛇すなわち知恵」とアダム・イブとの敵対関係である。
両者は互いに許し合えない関係ではないか。
私は、この話から、「核兵器の開発と保有の問題」や「技術の飽く事なき経済への利用と地球破壊」を導き出すのである。
この話から見る限り、アダム・イブは神を裏切った事を反省していない。
エデンの園を追放されてからも其のままである。
先ず今やるべきことは、神に謝る事ではないのか。自分自身の責任を認めて謝るべきではないのか。
蛇の事はさておいて、先ず自分がけじめを付けるべきであろう。
しかし、話は昔のままで終わっている。
この話は、様々な意味を込めて書かれたものと考えられる。歴史的にも思想的にも意味は深い。
日本人には、このような「裏切り」とか「追放」とかの話は無い。
それ故に、この話には返って敏感に反応し得るのである。
エデンの園の話には、「チグリス川」も「ユーフラテス川」も出てくる。
中東戦争は仲間内の戦争である。思想的にも血縁的にもそうであろう。
真に救いがたい戦いだ。
ところで、「アダム・イブ」については、我が国にははるか昔からその名は伝わっているのである。
ヨイロバアダムイブヒ赤人女祖(メソ)氏──アフガカブ氏
アダムイブ民王
ヘルシヤケルマン氏
地球上の一地域の民の先祖として伝えられているのである。
中東の人達は、その子孫であろう。
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