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反戦運動の「断絶」の根拠と「継承」の可能性をさぐる  [JRC:かけはし]
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投稿者 あっしら 日時 2004 年 11 月 23 日 03:17:04:Mo7ApAlflbQ6s
 


討論のために                         かけはし2004.10.25号

反戦運動の「断絶」の根拠と「継承」の可能性をさぐる(上)

WORLD PEACE NOWをめぐる論争によせて


検証されるべき論点はなにか


 米ブッシュ政権のイラク侵略戦争と占領支配に対する二〇〇四年前半の反戦運動は、自衛隊のイラク派兵に反対し、即時撤退を求める闘い、四月に「人質」となった日本人の即時釈放を求める連日の行動、国民保護法制をはじめとする有事7法案・3条約に反対するキャンペーンなど、多様な形で精力的に展開された。
 昨年の全世界的なイラク反戦運動の高揚の中で、後退を重ねてきた一九八〇年代以後の反戦運動、市民運動の枠組みを超える平和運動の新しい結集の磁場としての役割を果たしてきたWORLD PEACE NOW実行委員会(WPN)は、今年三月二十日の「開戦一周年」世界同日反戦行動でも、「占領の中止・自衛隊のイラクからの撤退」を訴え、日比谷公園への三万人結集、全国百数十カ所の集会・デモを呼びかける上で大きな役割を果たした。また四月に起こったイラクでの日本人「人質」事件にあたっては、連日の国会・首相官邸行動、国際的な市民のネットワークを通じたイラクの人びとへの働きかけを通じて、五人の解放のために効果的な力を発揮した。
 小泉政権とマスメディアが「自己責任」論を垂れ流して、「人質」とその家族へのバッシング・キャンペーンを行い、市民たちの努力に敵対したのに対して、WPN実行委員会を構成するATTAC―Japan、ピースボートなどの各団体が独自の国際ネットワークを駆使して展開した「人質解放」の闘いは、まさに反戦・反グローバリゼーション運動が築き上げてきた国際的ネットワークの力を具体的に示す画期的行動であった、と言わなければならない。
 しかし、小泉政権の世界でも稀に見るほどの「イラク侵略戦争支持」の一貫した姿勢や、違法・違憲の積み重ねを詭弁で居直る自衛隊イラク派兵と占領軍=「多国籍軍」参加政策に対する批判の増大にもかかわらず、七月参院選に見られるように議会での「護憲・平和」勢力は大きな敗北を喫した。そして小泉内閣は憲法の全面的改悪に向けた攻勢を強めており、「戦争国家」体制に向けた社会の軍事化、「治安」優先政策は、着実にその勢いを増している。「日の丸・君が代」強制に反対する教員への大量処分と強権的国家主義イデオロギーの注入、立川での反戦ビラ入れへの逮捕・起訴は、思想・信条の自由、表現の自由に対する重大な侵害である。
 反戦・平和運動の新しい「社会現象」化をきわめて端著的に表現したWORLD PEACE NOW運動を「エピソード」に終わらせず、それをとりわけ新しい世代の社会的意識の中で継続、発展させるためには、この運動に関わったすべての人びとの間でのねばり強い努力が必要とされている。
 一方、WPN実行委員会をめぐっては、集会や「ピースパレード」の持ち方をめぐって、あるいはWPNを結成するにあたってのイニシアティブの一つだったCHANCE PONO2の「警察との会食」問題をめぐってさまざまな批判が投げかけられてきた。今年になってもおりにふれてWPNへの批判・違和感が表明された。
 こうした批判の中で検証されなければならない論点とは何かをつかみとっていくことは、今後の反戦運動にとって重要な意味を持つに違いない。資本の新自由主義的グローバリゼーションと表裏一体となったグローバルな軍事化と戦争が世界を覆いつくしている今日、とりわけ社会的・政治的な抵抗を表現する運動の周辺化と孤立が長期にわたって継続している日本において、現在の運動状況の評価とその総括、新しい反撃の糸口をどのようにともに見つけ出していくのかという共同の作業が避けて通れないからである。

辺見庸の「外部からの嘲笑」

 作家の辺見庸の「抵抗はなぜ壮大なる反動につりあわないのか――閾下のファシズムを撃て」と題する『世界』04年3月号の文章は、おそらく一月二十五日に日比谷野音で行われたWPNの「ピースパレード」を題材にしたものであろう(ただし、この辺見の文章は、曜日も参加人員も一月二十五日の行動とは異なっているし、そこで描かれている参加者の様子も、どう考えてもフィクションとしか思えない)。
 ここで辺見は、このパレードの様子について「なぜそんなに、平穏、従順、健全、秩序、陽気、慈しみ、無抵抗を衒(てら)わなくてはならないのだ。犬が仰向いて柔らかな腹を見せて、絶対に抗いません、どうぞご自由にしてください、と表明しているようではないか」と罵倒する。そして、この「パレード」がイラク派兵という「戦後最大級の反動の質量」という情勢の全景に「多少のクラック(裂け目)をを走らすどころか、全景とじつに予定的かつ補完的に調和しているように見える」とする絶望感に満ちた彼の独白は、「緊張感」と「憤懣」に満ちたかつてのデモとの対比でこの日の「パレード」をあげつらう、ノスタルジックな感傷と敗北感に満たされている。
 この辺見の文章に対しては、WPN実行委員会の高田健が『技術と人間』04年3月号の「反戦の闘いに内在するか、外部から嘲笑するか」で詳細な反論を行った。以前私は、「9・11」に関して「ビン・ラディンの表現力は傑出している」とまで賛美し、「ブッシュ対ビン・ラディン」の二項対立的図式で世界を切る辺見の見解について批判した(「辺見庸氏と『9・11』」、本紙02年9月16日号)。大衆運動の現在の構造についての辺見のごう慢な無理解と絶望は、国際的にも例外的な日本における大衆運動の低迷をもたらしたものが何かについての彼自身の省察と総括の欠如を浮き彫りにしている。
 しかし、WPNへの疑問と批判は、決して辺見のような「ラディカルさ」を装った「外部からの嘲笑」だけではなく、一九八〇年代から九〇年代にかけてのきわめて困難な時期に、反戦・平和の大衆運動・市民運動の足場を持続的に支えてきた人びとからも寄せられている。その批判のキーワードは運動経験の「継承と断絶」に関わるものであった。

若者の「やさしさ」と議論不在


 「市民の意見30の会・東京」の吉川勇一は、『現代思想』03年6月号に掲載されたインタピュー「ベトナムからイラクへ 平和運動の経験と思想の継承をめぐって」や、『市民の意見30の会・東京ニュース』79号(03年8月1日)の「秋の反戦共同行動に向けて――第1期WPNの成果と問題点」、『論座』04年3月号の「デモとパレードとピースウォーク――イラク反戦運動と今後の問題点」などで活発な問題提起を行ってきた。
 吉川は「若い人びとの間で『やさしさ』が最高の価値基準になってしまった」ためか「他人の意見に介入して議論するということがない」と指摘するとともに「今のイラク反戦は、まだ感性的レベルにとどまっていて、歴史意識や社会意識に十分裏打ちされていない」と述べている(「ベトナムからイラクへ」)。
 また吉川はWPNの掲げた「非暴力」の原理が「非暴力=無抵抗」「非暴力=合法主義」として誤解されたものである、と批判し、「ひたすら警察とことを構えず、デモの許可条件を遵守して歩けば、それによって広範な市民の参加が保証されるとする理解もまた浅薄である」と述べた(「秋の反戦共同行動に向けて」)。吉川によれば、こうした問題点は「以前の運動の経験が十分に継承されているとは言いがたい」ことに規定されていた。
 今年書かれた「デモとパレードとピースウォーク」の中で、吉川はこうした昨年の問題意識をより体系的に提起している。
 「新たな反戦運動のそれまでとは違う理念、あるいは新たな運動の思想は、いまだはっきりとした形では表明されるに至っていない。新しい皮袋に、まだ新しい酒は入っていない」。そのことは「反戦運動論」が論壇でほとんど登場していないことに表現されている。
 吉川は続ける。「最近の運動には、そういう議論の場がない。それまでの運動経験を豊かに持っている人やはっきりとした歴史観を持っている先輩知識人がほとんどいないからでもあるし、またもう一つは、『優しさ』ということへの理解が違ってきているからかとも思う。今の若い人びとには、相手の考えの奥にまで踏み込んで批判し議論することは、人間関係を悪くすることであり、一定の垣根を越えるべきではない、という自制が働いているようにも思える。だから、意見が違っても、それはそれなりに『尊重する』ということで、それ以上に議論を進めない。それがお互いに『理解しあう』ことだと思っているようだ」。
 吉川は、こうして「経験の継承の断絶」「議論の不在」を、その背景にある「運動現場での『知識人・学者』の不在状況」ともからめて、今日の新しい反戦・平和運動が克服すべき重要な課題として強調したのである。

「つながりようもない断絶」か


 反天皇制運動連絡会や派兵チェック編集委員会を通じて、海外派兵や「戦争ができる国家体制」に向けた日本帝国主義国家の歴史的転換過程に立ち向かう共同行動とその全国的結合を持続的に呼びかけ、その中心を担ってきた天野恵一も、またWPNのあり方への率直な批判を提起している。
 天野は述べている。イラク反戦運動の積極的な側面から言えば、「ある種のNGO文化みたいなところで培われてきた、外国の人々との関係を含めていろいろ付き合ってきた運動」が、これまで日本国内の反戦運動とは結びついてこなかったけれども「若者文化が中心になったことでどっと入ってきた」ということである。しかし「ある種NGO型で作られてきた若い人たちの構造が今までの文化と全然隔絶されていて、合流したときには、もうほとんど運動としてそれがうまく持続的な力になって合流できなかった体験」が、イラク反戦運動が総括すべき否定的教訓ではなかったか、と。
 そして旧来の反戦・平和運動を担ってきた自分たちの世代の総括点としては、そこに「利用主義的」に関わるのではなく、こうした若い世代の「運動経験の継承や歴史」の完全なまでの欠落を克服しうる共同の作業のための場を築き上げることができなかったことではないか、と(武藤一羊、弘田しずえとの座談会「イラク派兵と『改憲』――反戦運動の課題をめぐって」、『インパクション』139号、04年1月刊)。
 もちろん天野の「若い人たち」への違和感には、きわめて強烈なものがある。「メディア支配で洗脳」されている彼らとは、「討論する前提がないのに、どうやって討論するんだというぐらいの断絶」だと(『派兵チェック』136号、04年1月15日)。しかし天野の批判は、むしろこの「断絶」を、運動の歴史と経験の中での「継承」へと構造的に「合流」させられなかったこれまでの反戦・平和運動そのものに対して主要に向けられているのである。
 ここから彼は、この「運動文化の完全な世代断絶」「完璧なある種の亀裂と断絶」「つながりようもない断絶」の中で、「五〇代の僕たちぐらいが、ポスト新左翼ふうに運動をくぐってやってきたリーダーシップの時代は完全に終わった」ことを確認すべき、と結論づけている。

大衆運動の分化・衰退のプロセス

 私自身も、この「断絶」を主体的に意識しなければならない、という点では天野と同意見である。ある意味では、この「断絶」を思想的にも運動的にも徹底的に推進していかなければならない。自覚的な意味での「断絶」は、運動の成長にとっての必要不可欠なプロセスだからだ。しかし問題は、全共闘世代と「若い世代」の双方にとって、一九八〇年代から九〇年代の大衆運動の構造とその衰退・低迷の中で、この「断絶」がどのような性格のものであるのかを意識化し、「継承」が可能となる基盤がどのようにして築かれていくのかを追求していくことだろう。
 「若い世代」にとっては、「古い世代」との「断絶」を政治的に意識化するところにまで至ってはおらず、多くの場合それはきわめて「感覚的」なものにとどまっている。過去との「断絶」を意識的に自覚することによってこそ、過去の運動・政治経験の「否定的継承」を媒介にした、新しい時代に即したトータルな「継承」が可能となる。そこでは旧来の運動を担ってきた世代の「総括」が、重要な契機になる。
 「新しい世代」が集団的・個人的な運動の経験を通して「歴史的意識」をいかに獲得し、過去との「断絶」と「継承」をどのように主体的につかみとりうるのか。「イラク反戦」運動の経験を、そのささやかな出発点としうるのか。確かに、いまだ旧来の運動構造と「新しい」運動との「合流」は成立しえていない。WPNの「場」は、それが不可能ではないことを端著的な形で示したものの、「合流と継承」に向かう流れは形成されていない。しかし、われわれは「断絶」の自己確認にとどまってはならない。そのためには一九九〇年代の大衆運動の分化と衰退のプロセスを、あらためて総括していく作業を深化していく必要がある。
 私がここで一九九〇年代にこだわるのは、私自身が大衆運動での共同行動の組織化や調整に一定の責任をもってかかわるようになったのは、一九八四年の反トマホーク運動からであるが、一九九〇年代、とりわけ「冷戦の終結」と湾岸戦争以後の日本における大衆運動構造の激変こそが今日の反戦運動をめぐる「断絶」に直接に影響していると考えるからだ。
 一九九〇年代初頭は、後退を深めていたとはいえ、当時までなお相対的には一定の力を持っていた旧来の戦後「革新」運動が、一挙に瓦解していく転換点だった。それは戦後「革新」のあり方を批判し、それと対抗してきた広義の意味での「新左翼」的運動や市民運動にとっても、どこに向かうのかを独力で模索しなければならない時期であった。そこでは、「ソ連・東欧の崩壊」と社会主義への「信頼性」の急速な喪失、ポスト冷戦期における日本帝国主義国家の「普通の国家」への着実な移行と軌を一にしている。
 天野が吉川の主張への「違和感」を表明している点も、おもに今日の「断絶」をもたらしている一九九〇年代における主体の側の苦闘に、吉川がほとんど触れていないからである。天野は述べている。
 「吉川さんの文章を読んだ後の僕の印象は、ベ平連の時代からいきなり今日の時代にまで飛んでしまっている。これだと逆に、今新しく出てきた人たちに歴史があまり伝わらないんじゃないかと思ったんです。吉川さんの新しい運動についての批判は、つまり五〇年代の運動があって、六〇年代に五〇年代の意識が、ベ平連運動などの中で超えられた。それなのに、また五〇年代的なものに戻ってしまってるというものだと思うんです。……けれど、普通に考えても七〇年代があり、八〇年代があり、そして九〇年代の運動があって、その中で六〇年代の運動のいろんな遺産もいったんもみくちゃになって、それで今日がある。そのプロセス全体の論議で共有していかないと、今日起きている問題を共有する土台が出てこないと思った。そういう点で吉川さんの論文にはすごく違和感を持ったんです」(「栗原幸夫へのインタビュー ベ平連という運動〈経験〉」での「聞き手」としての天野の発言。反天皇制運動連絡会編:『季刊運動〈経験〉』12号 04年8月刊)。
 私たちもまた、「継承」のための総括を開始していかなければならない。
(つづく)(平井純一)

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討論のために                         かけはし2004.11.01号

反戦運動の「断絶」の根拠と「継承」の可能性をさぐる(中)

WORLD PEACE NOWをめぐる論争によせて


湾岸戦争と「国連平和協力法案」

 一九九〇年代の反戦運動は、言うまでもなく一九九〇年八月のイラクのクウェート侵攻と、それにともなうアメリカ・父ブッシュ政権の「砂漠の楯」作戦発動=サウジアラビア・クウェート国境地帯への二十万人の米軍配備によって引き起こされた「湾岸危機」を出発点としている。この時、海部政権の下で自民党の実権を握っていた小沢一郎幹事長らの自民党執行部は、自衛隊海外派兵のための「国連平和協力法案」を国会に提出した。だが結局九〇年秋の臨時国会で廃案となった。
 当時の国会内の力関係は、一九八九年七月の参院選での「与野党逆転」をもたらした土井・社会党の躍進によって、自民党政権の基盤は安定性を欠くものになっていた。しかし重要なことは、この湾岸危機と「国連平和協力法案」の上程を通じて、ポスト冷戦後の「国際貢献」論の土台が作られたことであった。
 当時、私は次のように述べた。
 「『平和協力法』の廃案は、社会党や共産党の言うように、『国民の勝利』であり自民党政権にとって重大な打撃であったのだろうか。外見上は確かに法案が廃案になったのだから海部政権の敗北である。/だが同時に見ておかなければならないことは、マルタ体制下における『国際的秩序維持』のために、日本がいかなる『国際的協力・貢献』を果たすべきなのか、という議論が野党・マスコミを含めて共通の土台に設定されたという事実そのものの中にある」(平井「国連平和協力法案反対闘争の中間総括――敵の弱点と人民の闘いの問題点」、本紙90年11月26日号)。
 実際、「国連平和協力法案」の廃案は、自・公・民社三党による「国際平和協力に関する合意覚書」とセットであった。同合意覚書は「今国会の審議の過程で各党が一致したことはわが国の国連に対する協力が資金や物資だけではなく人的な協力も必要であるということである」「そのため自衛隊とは別個に、国連の平和維持活動に協力する組織をつくることとする」「この組織は、国連の平和維持活動に対する協力及び国連決議に関連して人道的な救援活動に対する協力を行うものとする」とされていた。
 公明党は、この新しい組織が「自衛隊とは別個に」つくられるものなのだから、自衛隊海外派兵の可能性は排除されていると主張したが、自民党はこの新協力組織は「自衛隊の参加を排除するものではない」と解釈した。そして、まさにこの三党合意の線に沿って「新協力組織」ではなく自衛隊そのものの海外派兵がPKOの名で始まることになったのである。
 後に、民主党に移行することになる「ニューウエーブ」勢力の主張もあって社会党も「国連平和協力隊」構想を「国連平和協力法案」に対置したが、この「平和協力隊」も「国際秩序の維持」への「日本の貢献」という共通の土台に立っており、かつ「国連平和維持活動」への参加を前提としたものだったのだから、自・公・民社三党合意との本質的な相違はなかった。
 「社会党の反対運動は先述したように『国連中心の平和外交』と『国連の平和維持活動への協力隊の創設』を骨子としたものであって、現行の自衛隊がそのまま部隊として派遣されることのみに限定して反対するという限界を持つものだった。この論理は支配階級の側からする『それでは日本はどのように国際貢献を果たすのか』という主張に十全に対抗しえないものである。社会党が不断に『自公民合意』の線に取り込まれ、分解を余儀なくされる要因はそこにあり、『戦後平和憲法』のみを金科玉条として固守して抵抗の根拠とする論理の弱さもそこにある」(本紙前掲論文)。私はこのように批判した。
 一方、当時の共産党は「国連中心主義」の観点から、この湾岸危機に対してイラクのクウェート侵攻に対する「制裁」の徹底化を最も強力に主張し、「大国」が経済制裁に穴を開けている、と批判し続けた。この主張が、結局のところ「国連」の名によるイラクへの軍事的「制裁」=父ブッシュの湾岸戦争を正当化するものになっていったことは明らかだった(実際、日本共産党は湾岸戦争を「帝国主義の侵略戦争」と規定することに反対した)。

「中東にヒト・カネ・モノを送るな」


 他方、社会党・共産党から独立した左翼や市民運動の側はどうだったのか。たとえば一九九〇年六月に行われたシンポジウムを出発点として形成され、われわれも参加していた「反安保連絡会」について見ておこう。「反安保連絡会」は「中東にヒト・カネ・モノを送るな」というスローガンを掲げていた。このスローガンは支配的風潮としての「国際貢献」論への批判を意識したものだったが、サダム・フセイン政権によるクウェート侵攻への態度についてはいかなる評価もふくんではいなかった。
 また「ヒト・カネ・モノを送るな」というスローガンについてもその意味・内容が十分に深められたものではなかった。それは単純な「内政干渉」反対の論理を内包していた。「アラブのことはアラブの人びとにまかせよ」という提起も現れた。この主張は、イラクのサダム・フセイン独裁体制のクウェート侵攻についての批判的分析を放棄するものであり、アメリカ帝国主義の新たな世界秩序形成の論理と、その中で日米安保体制がどのように再編成されようとしているのかを捉えることを困難にさせるものであった。
 その弱点をついた形で、当時の新聞「連帯」(現代通信社、一九七〇年代に「人民の力」派から分裂した旧「レーニン主義学生同盟」グループ)は「ヒト・モノ・カネを出すことが問題なのではない。国際社会に依存して経済大国となっている日本は、むしろ最大限の還元をはかるべきである。問題は軍事力によっては平和の創造はできないということだ。憲法の平和主義の理念を、今改めて国民的な決意とし、国際社会に通用する護憲論として展開すべきである」と批判していた。一九九〇年代に全面的に開花することになったNGOの国際支援活動の論理が、ここで端的に表現されている。
 私は前掲論文で、この「連帯」紙の主張を「安易に`オルタナティブaを主張する傾向」として批判し、「古典的な反帝国主義と『祖国敗北主義』」を対置した上で「『ヒト・カネ・モノを送るな』とする論理を、アジア・『第三世界』民衆と共働した日本帝国主義の『国際化』に立ち向かう政治闘争の路線へと煮詰めていく」ことを訴えた。この一種「最後通牒的」とも言うべき私の主張は、「ヒト・カネ・モノを送るな」というスローガンが体現していた重大な弱点、すなわち米ソ冷戦終焉以後の新しい時代の特質と、その中での反戦・平和運動や国際連帯のあり方がどうあるべきなのか、についての理解が不十分だったことを示している。
 「ポスト冷戦期」における「唯一のスーパーパワー」=世界秩序形成者となったアメリカの単独覇権下での「新秩序」という言葉が最初に発せられたのは一九九〇年、アメリカが「砂漠の楯」作戦を発動してサウジアラビアに大量の軍を展開した直後の「九月十一日」、父ブッシュ大統領が行った米上下両院議員総会の演説においてである。
 当時の私たちが、資本の新自由主義的グローバリゼーションとセットになったアメリカ帝国主義のグローバルな軍事支配が持つ意味について自覚的でなかったことは、それがまだようやく姿を現しはじめた時代であったため「やむをえなかった」ということもできるだろう。しかし当時の反戦運動は、もはやかつてのソ連をはじめとする「労働者国家」に支持された進歩的民族運動の帝国主義に対する闘いという対決の構造が崩壊した時代の反戦運動が取るべき論理について、「支持すべき対象のない反戦運動」について論議を開始しつつも、それが突きつける課題を持続的に深めることはできなかったのである。
 新たな時代に対応した反戦運動の分解は、社会党ばかりでなく市民運動をも直撃した。それは一九九一年に京都の「反戦ドタバタ会議」の青木雅彦が提起した「ハーフオプション」論に典型的に示されることになった。「ハーフオプション」論の骨子は、反戦運動の側が自衛隊違憲論という「非現実的でかたくなな」姿勢を改め、自衛隊を「合憲」と認めた上で、段階的に自衛隊を半減して余った軍事費を「国際貢献」にあてるという内容であった。
 この「ハーフオプション」論は、ポスト冷戦期の「国際貢献」論に対応した市民運動からの、旧来の反戦運動路線転換を本格化する道を開いた。

反PKO法闘争の政治的枠組み


 湾岸戦争後、自民党政府は「国連平和協力法案」の失敗を受けた自・公・民社の「三党合意」を基礎に、PKO法案の成立を急いだ。それは「自・公・民社」を基軸にした小沢一郎自民党幹事長の政界再編構想とセットのものだった。他方、土井委員長の体制から一九九一年七月に田辺体制に移行した社会党は、民社党をはさんで「社民結集・一部リベラルとの連携」による政権構想をもって、小沢の「自・公・民社」基軸政界再編論に対抗した。そこでは自民党「リベラル派」と田辺の人脈的関係を基礎にして小沢構想をゆさぶろうとするものであった。
 その背景にあったのは、「護憲」とは明確に一線を画した連合・労組指導部の政界再編の思惑だった。連合と結びついた社会党内右派勢力、あるいは「ニューウエーブ」グループにとっては、PKO法案については「国際貢献」の観点から基本的に容認すべきことだったのである。
 ここで反PKO法闘争は、社会党田辺指導部をめぐる社会党内の「左右対立」と密接な関連をもって展開されることになった。それは一九九〇年から九一年にかけての運動過程とは大きく違っている。湾岸危機から湾岸戦争にいたるわれわれの反戦運動は、基本的に一九八〇年代の「六月共同行動」のブロック、すなわち「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連)などの旧ベ平連系市民運動や、反核・反原発の市民運動、反天皇制運動、そして三里塚の熱田派を支援する「非内ゲバ」政治党派を中心に組織され、最大約三千人を結集したが、既成「革新」ブロックとの接点は成立しなかった。それは広義の意味での「新左翼」的運動、あるいは既成の「革新政党」とは独立して展開された地域市民運動の流れの中に存在していた。
 私は、この社会党「護憲派」と市民運動とのブロックに関して一九九二年の反PKO法闘争の総括で次のように述べた。
 「昨年(一九九一年)九月、十一月の二度の日比谷集会を成功させ、今年もそれを引き継いで、四月二十三日、五月二十六日の二度の全国集会を成功させた市民運動、国労、都職労など全労協を中軸にした左派労組、そして社会党『護憲派』のブロックは、『憲法違反のPKO法案を廃案へ! 全国実行委員会』に結実し、社会党田辺執行部への圧力装置として党全体を『廃案』の立場に結集させていく大きな原動力となった。/とりわけ六月三日以後、十五日に至るまで衆参両院議員面会所前を埋めつくした全国実行委の闘いは、社会党の議会内的取り引きを一定程度、統制する役割を果たし、社会党の『戦術的転換』を引き起こすバネになった」。
 「ところで、国会前に結集した人々の闘いの中から、われわれはいかなる教訓をくみ取るべきであろうか。/田辺路線を批判する『護憲』派を含めて社会党議員が一様に主張していたことは、PKO法案の『違憲』性の強調であり、『ファッショ的・反民主的議会運営の暴挙』の批判であった。そして『全国実行委』を中心にした労学市民もまた、『憲法を守れ!』『平和を守れ!』『社会党議員団ガンバレ!』のシュプレヒコールに唱和した。そこでは客観的に見て、『護憲』を基盤にした社会党の議会内闘争と、国会を取り巻く市民のプロックが成立していたと言わなければならない。さらに言えば、社会党の議会内抵抗闘争を徹底的に『尻押し』する運動という位置を、この国会前の運動は持っていたのである」。
 私は、この社会党「尻押し」運動を高踏的に批判したわけではない。私はこの文章の中でさらに次のように述べた。
 「議会外的大衆闘争が後退し、労働組合の社会的・政治的抵抗機能が衰退し、むしろ『連合』に見られるようにそれが帝国主義政治を翼賛する『統合機関』へと変質している今日、われわれは、この間の国会闘争で表現された大衆の直接的政治意思をさらに発展させていく水路を模索する必要がある。それは憲法や議会や野党にそれ自体として幻想を抱いているわけではない民衆の行動が、有効な政治意思としては『議会主義的尻押し』としてしかありえなかったこの矛盾を、自覚的に克服課題として引き受けることである」(平井「総括のために――反PKO闘争をめぐる政治構造と当面する課題」、本紙92年6月29日号)。

現実主義的傾斜と「抵抗」運動


 PKO法案成立後、社会党は国会最終局面での「議員辞職」戦術などなかったかのように、急速に幕引きに入った。国会終了直後の七月参院選で社会党は、「社民結集と一部リベラルのブロック」の田辺路線の立場から、広島選挙区では一九九一年にペルシャ湾派遣掃海艇部隊の「激励」に真先にかけつけた民社党の小西を推薦し、また東京選挙区ではPKO・海外派兵推進論者である森田健作を「連合」統一候補として推薦した。
 これに対して、PKO派兵反対の「護憲派」ブロックは市民運動とともに、広島では栗原君子候補、東京では内田雅敏候補を擁立して独自に参院選挙を闘った。この国政選挙への運動としての挑戦は、一九九四年の村山自社連立政権成立と社会党の「安保・自衛隊容認」への大転換を経て、一九九五年の参院選での「平和・市民」選挙に引き継がれることになる。しかし、独立左翼政治グループと市民派の国政への挑戦は、ついに結実しえなかった。
 私が先の文章で指摘した「社会党への議会主義的尻押し」と独立した労働者・市民の政治意思との「矛盾」を「自覚的に克服」しようとする課題は、運動的基盤のいっそうの衰退の中でその突破口を見いだせず、左翼や市民運動の分解、「参加・提言」型路線への現実主義的傾斜が進行していくことになった。
 そうした後退は、『世界』93年4月号に掲載された和田春樹、前田哲男、山口二郎、山口定ら九人の学者・評論家による「共同提言・『平和基本法』をつくろう」と重なり合うものだった。同提言は日本国憲法は「個別的自衛権」を認めている、という理解に立って「国民生活をさまざまな主権侵害行為から防衛するための実力は保持しうる」とした。そして国連を中心とした「集団的安全保障機構の設立」「今日の世界に適合する『国連軍』(警察軍)を各国と協力しつつ具体的な形で提案する」ことを主張するものだった。
 われわれ、そして一九八〇年代の「六月共同行動ブロック」の多くは、「自衛隊合憲」論に立つ「平和基本法」路線を批判した。しかしそうした反安保・反戦運動の「原則的」立場がますます周辺化していく趨勢を逆転することはきわめて困難だった。われわれは、その中で現実の運動が「リベラル民主主義的要素」をふくんで展開せざるをえない現実を「理解」しつつ、「抵抗」の政治的・思想的・運動的連続性を体現する「拠点」の防衛と、新しい大衆運動との結びつきの可能性を持続的に模索しようとしてきたのである。
(つづく)(平井純一)


http://www.jrcl.net/web/frame041101b.html


討論のために                         かけはし2004.11.08号

反戦運動の「断絶」の根拠と「継承」の可能性をさぐる(下)

WORLD PEACE NOWをめぐる論争によせて


「派兵国家」化に対する運動

 一九九二年のPKO法成立と自衛隊のカンボジア派兵以来、日本の反戦・平和運動は、いっそう大きな後退を余儀なくされた。
 この間、一九九五年の米兵による少女への性暴力事件をきっかけに沖縄の反米軍基地「島ぐるみ闘争」が展開され、沖縄の闘いと連帯しつつ日米安保の再定義(一九九六年四月)、米軍用地特措法改悪(一九九七年四月)、新ガイドライン(一九九七年九月)に反対する闘いが、「本土」においても共産党、社民党、新社会党と市民運動との部分的な合流をふくんで作りだされた(一九九七年十一月以後、「超党派」国会議員が呼びかけ、六次にわたって行われた「戦争協力を許さないつどい」)。
 この闘いの中から、戦後日本国家の「派兵国家」への本格的転化に挑戦しようとする試みが、さまざまなレベルで重層的に模索された。われわれも、「新しい反安保行動をつくる実行委員会」などを通じて、このプロセスに積極的にかかわり、再定義された日米新ガイドライン安保と、PKO海外派兵の恒常化に反対する運動を掘り起こすことに全力を上げた。
 幾度も積み重ねられた、全国各地で反基地運動をねばり強く担ってきた市民運動との全国会議とそのネットワーク化、沖縄の反戦運動との持続的交流に触発された「民衆の安全保障論」などは、この間の成果として発展させるべき重要な内容をふくんでいる。しかし、この間の経験は、全体としての大衆運動、とりわけグローバル化の中での全体としての労働者・市民運動の分散化と「参加・提言型」運動への転換、青年・学生の意識の「保守化」と反戦運動の後退局面にくさびを打ち込む、新しい流れを築き上げることはできなかった。
 小渕内閣の下の第145通常国会に提出された一九九九年の「周辺事態措置法案」反対闘争は、法案採決直前に陸海空港湾労組20団体と宗教者が媒介となって明治公園で五万人集会を実現した。しかしそれは、必ずしも反戦運動の新たなイニシアティブを作りだすものにはならなかった。

法案阻止闘争の構造的な衰退


 私は、一九九九年の「周辺事態措置法」反対運動の総括(本紙99年6月21日号、平井「新ガイドライン関連法案反対闘争の総括のために――抵抗線を築き上げ、戦争国家体制と対決する政治闘争の再建を」)の中で次のように書いた。
 「反PKO闘争との対比で見たとき、われわれは労働者民衆の集団的意思表示としての政治的大衆運動のスタイルがギリギリにまで後退した現実を見ることができる。とりわけ、議会内的抵抗と結びついた国会に向けた大衆運動のダイナミズムという『伝統的』スタイルはついに形成されなかった」「対国会闘争において労組や旧社会党勢力のイニシアティブの完全な消滅にかわるものを、運動の側が作りだせなかったことは冷厳な現実である」。
 「もちろんわれわれは、かつての社会党に代わって日本共産党がガイドライン反対闘争において重要な役割を果たしたことを見ておくべきである。……共産党は一方では、『安保維持』の『暫定連合政権構想』を打ち上げつつ、とりわけ今年になってからガイドライン法案反対闘争に全力をそそいだ。共産党はその際、より柔軟な共同行動方式を採用し、従来ならば『反党分子』『ニセ左翼暴力集団』として当初から排除の対象にしてきた団体や個人に対しても取り込もうとする方針をとった」。
 「しかし、それはいまだ不安定な基盤の上に成立しているものであって、そのことによって共産党をふくんだ大衆運動の新しい政治構造が作られつつあるということはできない。われわれは共産党の市民運動への窓口を拡大する一定の戦術的転換と、共同行動へのセクト主義的姿勢の手直しのきざしを歓迎するが、市民運動や労働運動全体の力量の低下の中でそれが進められていることによる限界についても見据えておかなければならない。/すなわち大衆運動の側から共産党のセクト主義を統制するという関係は成立しておらず、それがともすれば共産党の力へのぶら下がりに容易に転化する可能性をもふくんでいるからである」。
 一九九九年の周辺事態措置法案反対運動において、反安保実は法案審議過程での「議面集会」などの「場」の設定にも大きなエネルギーを注いだが、われわれはその中で、戦争法案反対運動に取り組むにあたって、「野党の議会内抵抗」と結びついた大衆運動のダイナミズムの可能性が、戦後「革新」勢力の議会内での極小化ともあいまって決定的な困難におちいったことをあらためて実感せざるをえなかった。
 他方、周辺事態法案が打ち出した米軍への「後方支援」協力にとって重要な役割を果たす自治体への働きかけが各地において積極的に展開されたことは、戦争法の発動を阻止するために大きな意義を持っていた。自治体が攻防の「現場」として焦点化されたことは、一九八〇年代、九〇年代を通じた市民運動の重要な成果であった。しかしそれは、全国レベルでの大衆運動のダイナミズムの喪失を代替するものではない。
 もう一つ重大な問題は、この周辺事態措置法案をはじめとして「国歌・国旗法案」や「盗聴法案」など145国会の戦争国家・強権的監視・管理体制づくりの諸法案に反対する闘いの共同行動の中で、一九八〇年代以来の市民の共同行動の原則としてきた「意見の相違を暴力で解決したり、それを正当化するるグループを共同行動の対象としない」という「内ゲバ排除」の原則が、なし崩し的にあいまいにされていったことである。それは中核派や革マル派に代表される内ゲバ党派が、市民運動体の看板で党派色を消し、過去の「内ゲバ殺人」路線へのいかなる総括・反省もなく参加することを許容し、彼らとの共同行動の否定を逆に「排除の論理」として批判する傾向として現れた。われわれは「共同行動の原則と『内ゲバ』主義について」(本紙99年2月15日号)で、こうした動向に注意を促したが、その問題は今日にいたるまで決着がつけられていない。
 一九九九年の二〇労組、宗教者平和ネットなどの呼びかけで開催された「周辺事態法案」反対集会での「非暴力の行動」「他の参加団体を誹謗中傷しない」という参加原則は、今日のWORLD PEACE NOW実行委員会にまで継承されており、直接的な党派的暴力の行使を統制するものとなっているが、「内ゲバ主義」の克服を共通了解とする段階にまで至っていないことも事実なのである。
 この問題については今後も三十年間の経験に即したねばり強い討論が必要だ。

「集団的抵抗」体験不在という壁


 一九九〇年代を通じてわれわれが突き当たった反戦・平和運動の後退と分解は、労働者・民衆の行動による直接的意思の表明という機会、「集団的抵抗」への参加の経験が、先進資本主義諸国において例外的とも言えるほど長期にわたって「断絶」してしまった日本の大衆運動の低迷をあらためて俎上にのせるものとなった。
 もちろん一九八〇年代後半から九〇年代半ばにかけた労働者をはじめとした「集団的抵抗」の衰退は、決して特殊日本的現象ではなかった。グローバル資本主義の新自由主義的攻勢は、「社会主義」への歴史的信頼性の喪失ともあいまって、「階級対立」「階級闘争」という概念を過去の遺物であるかのように思わせた。とりわけ西欧において労働者が一世紀に及ぶ闘いによって勝ち取ってきた権利に対する攻撃が吹き荒れ、労働組合、労働者政党の力は後退した。
 しかし一九九五年末のフランス労働者の公務員ストライキによって、この趨勢への抵抗が始まった。新自由主義への労働者の抵抗は、その当初から失業者の運動、移住労働者の闘いなどの新しい民主主義と人権を求める闘いと社会的に結合した。その中で、一九八〇年代から九〇年代の敗北と「断絶」した青年・学生のラディカルな世代が反グローバリゼーション運動と結びついて発展していった。この波は、スターリニズムや社会民主主義など旧来の伝統的な左翼指導部をバイパスして、第四インターナショナルをはじめとするラディカル左翼と結びつき、その組織化と行動の形態も、きわめて多元的な「草の根」からの運動の連携として作りだされた。
 もちろんヨーロッパに端的に見られた「左翼の復活」の意味を、われわれが実感的に理解できるようになったのは、一九九九年十一月のシアトル以後のことである。
 私はここに引用した一九九九年「周辺事態法」反対闘争総括文章の中で、自治体を攻防の「場」としたローカルレベルでのイニシアティブの全国的連携の萌芽を重視しつつも、同時に、「政府・国会に向けた共産党など既成の議会政党をふくめた全国的政治闘争の枠組みを形成していこうとする独自の闘い」に挑戦する必要を強調した。しかし、とりわけ一九八〇年代以来の共同行動を支えてきた「非共産党左派、ないし独立した労働運動、市民運動勢力の全般的な力量の低下」の中で、当面は「主体的力量の強化につとめながら、『別個に進んでともに撃つ』経験を一歩一歩確実に積み上げていく必要がある」としたのである。
 それは、左翼運動にとっての危機を突破する出口が安易には見いだせない現実の中で、新しい「抵抗」の可能性を経験的模索の中でつかみとっていく闘いを持続すること、しかし情勢の発展につねに敏感に対応し、たとえどのような兆しであろうとも運動を掘り起こすイニシアティブを発揮するための準備を整えなければならない、ということを意味していた。
 この時期、天野恵一は「私たちの運動の世界から、『階級闘争による革命』という『高い目標の手段』として反戦運動を位置づける主張や言葉が、ほぼ消滅している」事実を指摘している(「運動のデモクラシーとデモクラシー運動について」、『派兵チェック』78号、99年3月15日)。このとき天野は「ラディカルなデモクラシー」を作りだしていくための具体的プランを共同で作りだしていくことの必要性を訴えていた。
 ある意味で、天野のこの認識については、私たちに突きつけられたことであった。「社会主義革命運動の再生」という私たちが堅持してきた目標と現実の大衆運動との間に存在する「絶望的」ともいえるほどの距離を、私たちは痛切に認識していた。天野とわれわれとの違いは、新自由主義的グローバリゼーションに抗し、「闘争的対案」によって「平和」「公正」や「人権と民主主義」の価値を現実の運動の中で豊富化し発展させていく作業を媒介にしてしか、もう一度「社会主義」の理念を復活させることはできない、という形で「社会主義と革命の放棄」を拒否してきたことである。それは先験的な「社会主義革命の必然」によるものではなく、どのような形であれ開始するであろう過去と「断絶」した新しい世代の運動の初歩的経験を媒介とし、「歴史なき世代」との共同の作業を経過することによって、初めて現実化しうる挑戦であるとわれわれは考えていた。
 一九九九年のJRCL18回大会で討論文書として高島義一が提出した「時代認識について」は「反戦・反安保闘争などの政治闘争や反原発闘争などのエコロジー運動も、部分的、あるいは一時的例外を除いて、それぞれ宣伝のための運動や歴史的連続性を防衛するための運動という状況に追い詰められ」ており「政府・資本や行政に自らの運動の力で要求を強制するというより、社民党や共産党、あるいは民主党へのロビー活動を通じて、間接的に社会的規定力をおよぼそうとするしかないところにまで、運動の力を大きく後退させてしまっている」と述べ、「残存左翼運動全体が右へと大きく軸芯を移動させた旧社会党のミニ版的存在に転落してしまう」危険性が存在している、と指摘した(「時代認識について」〔2〕、本紙99年10月18日号)。
 この提起は一九六八年に開始した左翼政治運動の時代的サイクルが終焉した、という情勢認識に踏まえて、新しい闘いへの挑戦を呼びかけようとするものだった。

新しい歴史意識の獲得に向けて


 ドラスティックな後退を強いられた一九九〇年代の運動経験の上に、われわれはアメリカ帝国主義の「グローバル戦争」戦略と資本の新自由主義的グローバリゼーションが一体となった支配構造に対決する、新しい運動のサイクルを開始しうるか否か、という岐路に立たされている。
 それは、「内ゲバとテロリズム」を重要な主体的な要因の一つとして他の帝国主義諸国よりもはるかに深刻な運動的「断絶」を余儀なくされた日本では、いっそう困難な回路を通過せざるをえない。資本との関係における初歩的な階級意識の不在は、社会全体への規定力のあるストライキ運動が一九七五年のスト権スト、一九七八年末から七九年初頭にかけた全逓労働者の「年賀を止めた」闘い以来、二十数年間にわたって存在しなかった日本において、とりわけ深刻なものである。
 その意味で、二〇〇三年初頭からのWORLD PEACE NOWを中心としたイラク反戦運動は、きわめて端著的な形であっても、過去を知らない「デモ・デビュー」世代が「層」として登場した重要な転機であった。もちろん、WPNへの参加者の広がりは、若い世代だけではなく、ブッシュの戦争に衝撃を受けたかつての「全共闘世代」の三十年ぶりの参加、反戦運動とは一線を画していたNGOメンバーの参加などによって支えられていた。
 しかしやはり、日常的現実に食い込んだ「戦争」と、昨年二月十五日に空前の動員を実現した全世界的な反戦運動によって、社会と自分との関係意識を自覚せざるをえなかった若い世代の登場こそが、WPNをベトナム反戦以来の大衆的社会運動に押し上げた最も注目すべき特徴であったことは間違いない。
 環境運動やポスト冷戦期のNGO活動の中で社会的コミットメントの唯一のあり方となった、メディアに受け入れられる「参加」型活動が、まず参加者の意識を規定する最初の枠組みとなったことはある意味で当然であった。徹底的に周辺化した左翼運動は、「孤立」を恐れ、「普通」であることが社会的関与の条件となっている若い世代にとって、まずは忌避されるべきものだったからである。過去の運動との「断絶」こそ、新しい世代にデモ参加への「安心感」を保障するものだった。そこには一九九〇年代の「敗北」の要素と、それとは異なる新しい可能性への積極的要素がからみあっていたことは必然である。
 したがって、この運動が真に新しい運動サイクルの出発点となるためには、新しい世代が、自らの運動経験を積み重ね、世界に対する「直観」を系統的な「認識」へと飛躍させ、論理化していく作業が避けて通れない。このようにしてこそ、世界の現実に立ち向かい、その変革を志した過去の運動との対話や継承を通じて、自分の位置を歴史的に獲得することができる。その責任の多くは私をふくむ「古い」世代に課せられている。
 論争は避けられない。そして運動経験の「継承」は、何よりも過去の運動を担った世代、過去から現在をつなぐ世代が、自ら突き当たった根本問題についての経過と総括を真摯に突き合わせることから開始しなければならない。
 WPNで登場した運動の波は、イラク侵略戦争を止められなかったことによって、いったんは引いたものの、二年近い経過の中で、自衛隊イラク派兵に反対する運動、日本人「人質」を救う活動、イラク占領反対の闘い、「平和のための投票」などを通じて、すでに幾つかのささやかな高まりと挫折を経験してきた「新しい世代」も決して少なくはない。WPN運動を通じたこの二年間の経過は、かつての運動から今日までの高揚と後退を体験した世代の「経験」とWPN世代の「経験」をつきあわせつつ「論争」し、「継承」を通じて新しい運動サイクルに向けた「断絶」を組織することができるのである。そのための条件は運動の中ですでに作りだされつつあると私は思う。(平井純一)

追記:反戦運動をめぐる今日の論争点については、さらに別稿で論じたい。

http://www.jrcl.net/web/frame041108b.html

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