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外務省が15日、北朝鮮に拉致され、死亡したとされる8人について拉致被害者家族会に提示した調査結果資料のうち、同会が公表した7人分は次の通り。同会は、原敕晁(ただあき)さんの資料については家族・親族が説明の場に来ていなかったことを理由に公表を控えている。
■横田めぐみさん
【北朝鮮側からの説明】
●入国経緯 77年11月15日夕方、任務を遂行し帰ろうとしていた工作員がめぐみさんと遭遇し、やむなく連れてきた。拉致は計画的ではなく、突発的な行為であった。入国地点は清津(チョンジン)。実行犯の工作員は、命令なく連れてきたことから職務停止処分を受け、その後復帰したが、00年11月に脳出血で死亡した。
●入国後の生活 77年11月から81年春までは精神的安定のため平壌の招待所で生活し、朝鮮語学習等を行った。81年春から86年8月までの間は、平壌郊外の招待所(平壌市順安区域の大陽里にある招待所。名前は特になく、今その招待所は使っていない)で日本語教育に従事した。81年から84年までの間は、田口八重子さんと一緒に生活していた。93年4月29日から6月3日の間、8月3日からも695病院で入院治療を行った。93年9月21日までは695病院で治療を受けた。めぐみさんの精神状態を積極的に治療するため、94年3月、平壌市勝湖(スンホ)区域の49号予防院に入院させた。なお、前日まで義州の精神病院に入院させることも検討されたが、少し様子を見ようということでこの49病院に入院させた。
●死亡の経緯 94年3月10日から49号予防院に入院した後、4月13日午前10時ごろ、予防院を散歩中、近くの松の木で首をつって自殺した。担当の医師が一緒に散歩していたが、急用で医師は事務室に呼ばれ、目を離したところ、外ががやがやしていたので確認したところ、松の木で首をつって自殺していた。ひもは事前に衣類を裂いて作ったひもを用意していた。
●患者死亡台帳への記載 患者死亡台帳における、めぐみさんの名前の記載は、今回の再調査により、後で書き込んだものであることが判明した。02年8月ごろ、当該機関関係者が来て、台帳を求めたが、49号予防院には彼女の死亡を確認できる具体的日時を覚えている人がおらず、当該機関関係者が正確でない日時に基づき、死亡台帳を作成し、名前を書いておいたため、番号が重なった。
【証人からの聴取等】
○入院していたとされる平壌49号予防院に出向き、担当医師と面談を行うとともに、病棟内、集合墓地区域等を視察した後、入院台帳を閲覧した。また、横田めぐみさんが生活していたとされる大陽洞招待所跡を実地踏査した。
○夫とされるキム・チョルジュン氏及び695病院の元医師から、当時の状況等に関する情報の聴取を行った。
○物証 日本での生徒証1枚、自筆のメモ1枚、写真3枚
■田口八重子さん
【北朝鮮側からの説明】
●入国経緯 身分盗用に利用する相手を物色していた工作員が「青島海岸まで行こう」として田口さんを誘引した上で、78年6月29日、青島海岸から田口さんを連れてきて、海州(ヘジュ)から入境した。拉致の実行犯であるリ・チョルスは、92年夏死亡した。
●生活経緯 78年6月から7月までの間、地方の招待所で休息。78年7月から79年11月までの間、平壌市内の招待所で生活。79年12月から84年10月までの間、平壌市郊外及び地方の招待所において日本語教育に従事し、84年11月から86年7月までの間、麟山(リンサン)郡の招待所において家庭生活。特に81年から84年までの間は、横田めぐみさんと一緒に生活していた。夫の原敕晁さんが平壌の病院に入院してからは、田口さんも平壌郊外の招待所に移り(数カ所)、原さんを見舞った。そこで他の日本人と一緒にいた可能性もあると思う。原敕晁さんと結婚後の84年11月から86年7月までは麟山の招待所で一緒に生活していた。
●結婚 84年10月に原敕晁さんと結婚した。初めは、年の差が離れているためちゅうちょしていたが、何回か会ううちに結婚に同意するようになった。これは、調査委員会の人間が特殊機関内に入って、関係者から話を聞いたものである。
●死亡経緯 夫の死亡後、精神的な慰労のため元山(ウォンサン)に行って、休息をとった後の帰宅途中、86年7月30日、馬息(マシク)嶺において軍部隊の車と衝突して死亡した。一緒にいた運転手も含め3人全員が死亡した。
●事後処理 軍が事故後被害者を引き上げ、元山周辺の郡病院へと搬送した。軍から連絡を受けた当該機関は、元山基地に指示を出し、棺(ひつぎ)を移送する準備をさせた後、遺がいの引き渡しを受けた上で葬儀を行い、夫の墓地がある麟山に合葬した。
●遺がい 95年8月18日、豪雨により麟山郡上月里(サンウォルリ)の貯水池ダムが決壊したため、流出した。遺品は死亡当時に焼却された。
●田口さんの朝鮮名 田口さんは共和国に入国して以来、コ・ヘオクとの朝鮮名で通してきており、他の朝鮮名はなかった。
【証人からの聴取等】
○695病院の元医師及び麟山郡招待所の接待員から、当時の生活状況に関する情報の聴取を行った。
○馬息嶺交通事故につき、道路管理人から事故状況について聴取を行った。
○物証 馬息嶺交通事故資料
■市川修一さん
【北朝鮮側からの説明】
●入国経緯 78年8月12日、鹿児島県吹上浜キャンプ場で語学養成のため特殊機関工作員が拉致した。北朝鮮への入国地点は海州(ヘジュ)。
●入国後の生活 78年8月から1カ月は地方の招待所で精神的安定のため休んだ。78年9月から79年3月までの間は、平壌市郊外の招待所で朝鮮語学習、現実体験を行った。79年4月から9月までの間は、地方の招待所で日本語教育に従事した。
●結婚 79年7月20日、増元るみ子さんと結婚した(以前4月20日と伝えたのは、事務的な誤記だった)。
●死亡の経緯 79年9月4日、元山(ウォンサン)海水浴場で心臓麻痺(まひ)で死亡。当日午前中は曇っていたが、午後は晴れており、風もなかった。気温は高くなかったが(最高気温22・5度)、水は冷たくないことから、泳いでいる人は少なくなかった。海水浴のシーズンは毎年9月20日ごろまでである。市川さんは午後3時ごろ海水浴に来た。当時、麟山(リンサン)の招待所に住んでいたにもかかわらず元山にいたのは、79年8月末から、担当指導員と江原道に緊急出張したため。当時、元山市の松濤園(ソンドウォン)海水浴場で海水浴をしながら休んでいた。9月4日午後も担当指導員と海水浴をしていたところ、心臓麻痺にかかり、水の中に沈んだ。そばにいた人や担当指導員が担ぎ出し、人民病院に連れて行き、病院で救急対策を講じたが、手遅れだった。
●死亡後の処理 当該機関関係者が棺(ひつぎ)を準備し、麟山郡の墓地に土葬したが、95年8月18日の洪水で貯水ダムが崩壊し、流出した。調査委員会で人を動員したが、遺骨を見つけることはできなかった。
●遺品 焼却し、残っていない。
●目撃情報 94年ごろ市川さんを目撃したというのは根拠のない話である。
【証人からの聴取等】
○地域の医師、看護師及び海水浴場の出納係員から、当時の状況に関する情報の聴取を行った。
○物証 「死亡」当時の天候資料
■増元るみ子さん
【北朝鮮側からの説明】
●入国経緯 入国地点は海州(ヘジュ)。78年8月12日、鹿児島県吹上浜キャンプ場で語学養成のため特殊機関工作員が拉致した。北朝鮮への入国地点は海州(ヘジュ)。
●入国後の生活 78年8月から9月までの間、精神的安定のため地方の招待所で生活した。78年10月から79年7月までの間、平壌市内の招待所で生活し、朝鮮語学習等を行った。朝鮮の歌もよく歌っていた。79年8月から81年8月までの間、地方の招待所で家庭生活を送りながら日本の社会環境の教育を行った。結婚前の7月下旬まで、蓮池(旧姓奥土)祐木子さんと一緒に生活していた。
●結婚 79年7月20日、市川修一さんと結婚した(以前4月20日と伝えたのは、事務的な誤記だった)。
●死亡の経緯 81年8月17日、麟山(リンサン)郡の招待所で生活していたところ、心臓麻痺(まひ)で急死した。当時の状況は、朝の食事の時間にもかかわらず人の気配がないことから、接待員が様子を見に行ったところ、毛布と共に床に落ちていた。接待員の知らせにより医者と指導員が駆けつけたが、既に心臓は止まっていた。若い女性の心臓麻痺は珍しく、既往症がないことは承知しているが、突然死亡した。
●死亡後の処理 関係者で葬儀を行い、夫の市川修一さんの隣に埋葬した。95年8月18日の洪水で貯水ダムが崩壊し、流失した。調査委員会で人を動員したが、遺骨を見つけることはできなかった。
●遺品 焼却し、残っていない。
【証人からの聴取等】
○695病院元医師及び地区担当医師から、当時の状況に関する情報の聴取を行った。
■石岡亨さん
【北朝鮮側からの説明】●入国経緯 1980年に留学及び観光目的でヨーロッパに出国し、スペインのマドリードで松木薫さんと共に、特殊機関工作員の一人との接触過程で共和国訪問を勧められて同意し、引き連れてくる目的で、スペイン、ユーゴスラビア、旧ソ連を経由して、1980年6月7日、平壌に連れてきた。
●入国後の生活 1980年6月7日から1カ月間は平壌市内のホテルに滞在。1980年7月から1981年8月の間は、平壌郊外の招待所で生活し、朝鮮語の勉強、現実体験を行った。1981年8月から1988年10月頃までは、平壌郊外の招待所で日本語教育に従事した。1988年11月3日、「静かな所に行きたい」との理由で煕川(ヒチョン)市の招待所に担当指導員が同行し移った。
●結婚 1985年12月27日、有本恵子さんと結婚した。
●死亡の経緯 1988年11月4日、煕川市の招待所で就寝中、ガス中毒で死亡した。発見日時は、11月4日午前8時頃。発見の経緯は、朝食の時間を過ぎても部屋から出てこないことから、招待所の指導員がドアを開けたところ、部屋はガスで充満していた。家族3名既に死亡していた。事故があった招待所は、1989年秋に撤廃した。関係者は処罰され除隊した。
●死亡後の処置 695病院の医者と当該機関関係者が現地に出向き、部屋のかまどを調べたところ、床に細かい亀裂が生じており、そこからガスが漏れていた。招待所で葬礼を行い、周辺の山に土葬した。遺体は、煕川市平院(ピョンウォン)洞に葬られたが、1995年8月の土砂崩れで流出し完全に流された。
●遺品 本人の写真1枚が残っている。パスポートは探し出すことができなかった。
●その他の説明
(手紙の投函)
1988年8月、石岡さんが担当指導員と平壌商店でショッピング中、担当指導員が席を外した時に偶然ポーランド人に出会った。石岡さんは同ポーランド人に自分を紹介し、故郷に安否を伝える手紙を託した。石岡さんはこの事実を後ほど担当指導員に伝えた。当時の担当指導員は、投函を阻止できなかったことから処分(除隊)された。・石岡さんはウイーンから手紙を送ったことになっているが、事実はマドリードで書いた手紙を工作員に手渡し、工作員がウイーンで投函した。手紙の内容に「欧州の社会主義諸国を見回りたい」と書かれているのは、日本では自由に出来なかったためである。本人の意思に従って自ら入国した。
■有本恵子さん
【北朝鮮側からの説明】
●入国経緯 1982年留学のため英国に出国。特殊機関のメンバーの一人が接触し、工作の過程で共和国に行ってみないかと言うと、一度行ってみたいと言ったことから、特殊機関が日本語教育に引き入れる目的でイギリス、オランダ、デンマーク、旧ソ連を経由して、1983年7月15日平壌に連れて行った。
●入国後の生活 1983年7月15日から8月初旬まで、蒼光山(チャングァンサン)ホテルに滞在しながら、市内参観を行った。市内参観は、平壌市内や地方の史跡、博物館、展覧館等を参観地とした。参観は、主な記念日等に本人の要求と希望等に従って行われた。1983年8月初めから1984年8月頃までの間は、平壌郊外の招待所で朝鮮語を勉強し、現実体験を行った。1984年9月初旬から1988年10月まで、平壌郊外の招待所で日本語教育に従事した。
●結婚 1985年12月27日石岡亨さんと結婚。その後、李ヨンファという名前の娘を出産した。
●死亡の経緯 夫の石岡亨さんと同じ。
●遺品 写真1枚、パスポートを既に日本に引き渡した。
●その他
(よど号犯の関与)「よど号」メンバーの関与に関して、特殊機関において妄動分子の尋問資料も調査したが、同メンバーらが関与した証拠を見いだすには至らなかった(石岡亨さん、松木薫さんも同じ)。
【証人からの聴取等】
○煕川(ヒチョン)の招待所料理人(当時)及び担当指導員(当時)から、当時の状況に関する情報の聴取を行った。(担当指導員に対しては書面で質問し、調査委を通じ口頭で回答を受領)。
○物証 煕川招待所の略図、「死亡」当時の天候資料
■松木薫さん
【北朝鮮側からの説明】
●入国経緯 1980年留学と旅行のためにヨーロッパへ出発。スペイン・マドリードにおいて石岡亨さんとともに北朝鮮の特殊機関工作員と接触する過程で、北朝鮮入国に同意した。特殊機関工作員が日本語教育に引き入れる目的でスペインからユーゴ、旧ソ連を経由し、1980年6月7日、平壌に連れてきた。
●入国後の生活 1980年6月から1カ月間、平壌市内のホテルに泊まった。1980年7月から1982年10月ごろまで平壌郊外の招待所で生活。1982年11月ごろから1996年7月ごろまで平壌郊外の招待所で、日本語教育、資料翻訳に従事した。
●死亡経緯 1996年8月23日、両江(リヤンガン)道の革命史跡の調査に行く途中、車が転落し、火災事故により死亡した。特殊機関傘下の咸南(ハムナム)地区の車両で、車種はトヨタ黒咸南(ハムナム)109。運転手は担当指導員であった。担当指導員と一緒に朝9時ごろ、平壌を出発し、咸鏡南道(ハムギョンナムド)に17時ごろ到着した。車の状態がよくなかったので、夕食後、車を乗り換え、20時ごろ出発した。22時から23時ごろに死亡したと認定された。翌朝、人民軍の運転手が松木さんを発見し、軍の安全部に通報した。
●遺体の処置 人民軍が用意した棺に松木さんと運転手の2人の死体を入れ、近くの墓地に安置。埋葬地は、1996年8月24日、北青(プクチョン)郡梧坪里(オッピョンリ)(土葬)。死体がかなり損傷しており、現地に埋葬せざるを得なかった。当初は誰かが火に焼けた死体を見て間違って火葬したと発言していたことが判明。2002年7月14日、北青(プクチョン)郡人民委員会で、豪雨により破壊された道路の被害復旧作業を行っていた際、一部の遺骨が発見されその中には松木薫さんの骨があると判断したため、発掘遺体を平壌に運ばせて、火葬した後、彼の名前で保管した。2002年9月、日本代表団に本人の遺骨であるかどうか確実ではないと言いつつ提示した。
●遺品 日本語教育のための教材として使われた劇のシナリオ「出航」及び写真1枚。それ以外は死後招待所で焼却処分したため、残っていない。
●手紙の投かん ウィーンで投かんされたものではなく、松木さんが既にマドリードで書いたものを関係機関の人間がウィーンに行って送付したもの。
【証人からの聴取等】
○平壌市郊外招待所料理人(当時)から、当時の生活状況に関する情報の聴取を行った。
○物証 トチョル嶺交通事故資料、書籍1冊、写真1枚
毎日新聞 2004年11月15日 23時17分
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20041116k0000m040131000c.html