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(回答先: 香田さんについて−今こそ「人間の盾」が必要じゃないかな 投稿者 ×× 日時 2004 年 11 月 04 日 00:37:27)
山村新治郎ってだれ?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%91%E6%96%B0%E6%B2%BB%E9%83%8E
第13話 赤軍派のあの父と娘と 〜「よど号」の79時間〜
http://www.icom.co.jp/beacon/web_topix/013.html
--略--
11時。橋本運輸相が空港で記者会見。「乗客を乗せたまま、平壌に向かわせるつもりはない」。厳しい口調だった。韓国も関係閣僚会議で「乗客を解放すれば希望する日時に離陸させる。解放を拒否すれば、よど号は最後までソウルにとどめる」と決めた。
「まず人質の解放を」という日韓両国のこの声明は、「まず平壌へ」という北朝鮮の公式見解の拒否を意味した。では、対決か。情勢は再び緊迫した。
朝日は応援を送り込んだ。東京から外報部デスクと前ソウル支局長、政治部員、西部から写真部員、大阪から韓国通の社会部員、総勢11人の大部隊になった。桑野も、赤軍派メンバーとの会見どころではなくなった。
17時5分、山村政務次官が無線機をつかんだ。「よど号」に話しかける。
「私が人質になってり平壌に行けば、乗客を降ろすか」
18時30分、リーダーの回答が届いた。「確かに山村次官だという確認を、阿部代議士にしてほしい」という条件付きの了承だった。リーダーは、田宮と名乗った。
20時、社会党の阿部助哉代議士が東京で記者会見。「お役に立つなら、行く」と。
わが身を人質に100余人の乗客を救おうという山村次官の男気が、あの赤軍派をついに動かした。記者会見で彼は、笑顔で語った。
「次官は盲腸と言われているが、役に立つ盲腸だってあっていいじゃないか」
緊迫から解決へ、一気に動き始めた。
3日10時、山村、阿部両氏「よど号」へ。操縦席の窓越しに田宮と交渉。「まず乗客の半数を降ろす。山村次官が乗る。残りの乗客を降ろす」と合意した。赤軍派9人の顔から、険悪さが消えた。田宮が乗客に話しかける。
「これでお別れです。ご迷惑をかけました。ご協力、感謝します」
14時27分、「よど号」のドアがついに開いた。スチュワーデスに続いて乗客が降りてくる。和服の女性、背広の男性・・・・。どよめきがわく。山村次官が乗り込む。そしてまた、乗客が降りる。79時間にわたるハイジャックは、こうして終わった。
18時4分、「よど号」は平壌へ飛んだ。そして、山村次官を乗せてまた帰ってきた。9人の赤軍派メンバーは、そのまま帰らなかった。
「日航旅客機、乗取られる」と大見出し。大阪・千里丘陵で開催中の万国博会場で配られた号外を、懐かしそうに見る桑野将さん。金浦空港ではまる2昼夜、一睡もしないで走り回ったという。
乗客全員、無事救出−−。最後の取材は、各社が総動員の大混乱になった。
喧噪のなかで、桑野は口惜しさをかみしめていた。9人のハイジャック・メンバーのうち、初めて名乗ったリーダーがKと顔見知りの田宮高麿だったとは・・・・。彼は胸のうちを語りたかったに違いない。だから「朝日に・・・・」と言ったのか。
大阪に帰って1カ月ほど後に、あの情報は本当だった、と警察筋が教えてくれた。単独会見は、夢ではなかったのだ・・・・。
それから、30余年の歳月が流れた。「そうか、あの田宮の娘が朝香さんなのか・・・・」。その田宮も、「男・山村新治郎」と評判になった山村代議士も、すでに亡い。桑野さんも、もう71歳である。
ハイジャックを伝えたあの日の号外を懐かしそうに見つめながら、彼はこんな思いを話してくれた。
「田宮と単独会見していたら・・・・、北朝鮮行きを、あきらめてくれたか・・・・」
「そうなら、日本人拉致疑惑はなかった、かもしれない・・・・」
新聞記者はいつも、自分でも気づかないうちに、歴史の節目に立っている。