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政治は元々は祭りごとでありました。本来的にはそうなのであり、今でも、そうであるはずなのです。それはさておき、
「神の子キリスト」であると言う命題を、人々に理解してもらう事は、大変に難しい事である事を、原始キリスト教の指導者達は痛感していたに違いありません。
イエス・キリストは明らかに人間であり、幻ではありませんでした。生身の人であったのです。
しかし、そのキリストは「神の子」であると自らを規定し、弟子達はそれを信じていました。彼らは、その意味を知っていたのです。
人でありながら、其のままで神の子であることが解っていたのです。
ところが彼らは、自分達の理解だけでそれを済ませておくわけにはゆかなかったのです。
彼らは、その命題を人々に「信じて」貰わなければならなかったのです。
彼らは、乱世において人々を救う事を使命と考えていたので、それの達成のためには、この命題をぜひとも人々に受け入れてもらわなければなりませんでした。
しかし、この命題の理解には、幾つも抽象的思考を重ねてゆかねばならず、一般庶民は生活思考から離れての思考は行えなかったので、その壁を乗り越える事は容易なことではありませんでした。
しかし、何とかしなければならない。
救われるべきは、抽象思考ができる知識人たちだけではないのだ。一般庶民こそが、救われなければならない。
そのように、彼ら指導者達は考えていたでありましょう。
「この命題を信じる事さえ出来ればよい」
「そうすれば、キリストを通じて『神』からの護りをいただける」
そのために、どうすればよいか?
彼らは、その時、「飛躍」を行ったのでしょう。
キリストの母をマリヤその人のままとして、
父は…「神」としたのです。
人が母親の体内から生まれる事は、目にはっきりと見える事実なので歪める事は出来ない。
しかし、父である事は、現在のように証明することは難しかった。
彼らの信仰心と差し迫った使命感が、この飛躍的思考を編み出したのです。
しかし、そのことにより、
生活者大衆の多くに、この命題を受け入れて貰う事が出来て、
人々を救いに導く事が出来たのです。
しかし、その弊害も同時に発生しました。それについては、ここでは省きます。スペースがありませんから。
さて、我が国の天皇について、解り難いのは確かでありましょう。
そうであるからこそ、昔から我が国では、詮索してはこなかったのでしょう。
天皇の方も、キリストや原始キリスト教の指導者たちのような立場には居られないでしょう。
しかし、知ろうとする真剣な思いがあれば、知る事が出来るのではないでしょうか。
「神の子キリスト」の命題を知りえた人たちが少なからず居たように。
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