現在地 HOME > 掲示板 > 政治・選挙6 > 1076.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
開戦に至る前の、日米了解案について、かなり詳しく報じていました。
加瀬氏は、降伏調印に「私も侍の子孫だから、そんなことに実は行きたくはなかった。重光さんも同じ気持ちだった。二人とも車に乗ったままで、爆弾でも投げつけられて死んでしまえばよいと私は考えていた。そうすれば、二人が再出発の新生日本の人柱になってしまうであろうし、そうありたいと考えていた。まだ抵抗派の人たちが沢山居たのです。厚木の海軍航空隊なんかはミズーリに体当たりするのだ、などと言っていたのですから。」と語られました。
さらに次のような発言が印象に残りました。
「ミズーリ号の艦上での調印式では、予定されていなかった演説をマッカーサーが突然に行なった。」
「式を終えて、陛下のもとで重光さんと共に、報告を行なった。私たち二人も陛下も泣いていた。陛下はお泣きになるときには白い手袋をされて目頭を押えられるので、そのようにされていた。」
「陛下は自らマッカーサーに会いに行くと言われて、行かれた。マッカーサーは、後に何度も私に会うたびに次のことを言っていました。陛下はマッカーサーに会うなり、真っ先に、今回の戦争の責任は総て私にあるので私が責任を負う積もりである、と言われたので、マッカーサーは、戦争は軍部が始めたもので私には責任は無い、と天皇は言うであろうとばかりと思っていたので、これを聞いて大変に驚き、日本で最大のジェントルマンであると思ったものです。このことを彼は何度も私に聞かせました。」
加瀬さんは、その後も戦後の外交に随分と貢献されたようでした。
2 81 +−