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「解放」最新号(第1841号2004年10月25日)
http://www.jrcl.org/
佐世保事件は女児の「人格特性」のゆえなのか
9・15長崎家裁決定の反動性
女児に長期強制措置
九月十五日に長崎家裁佐世保支部が、佐世保小六殺害事件で審判決定を下した。加害女児を二年間もの長期にわたって「強制措置」に付す、という現行法では最も厳しい「措置」である。女児は翌日、ただちに栃木県にある児童自立支援施設・国立きぬ川学院に送られた。この施設は、鍵つきの個室があり「強制措置」のとれる全国で唯一の施設である。
「自立支援」の名のもとに、小学六年生の女児を、両親から暴力的にきり離して鍵のかかる個室(独房!)にぶちこむのである。通常は「集団的措置」が原則であるにもかかわらず、再び他児に危害をおよぼす恐れがある、という口実のもとに異例の「個別処遇」を強制しているのだ。このような強権的「措置」をもってしては、前思春期にあり、発達途上にある女児の人格そのものを破壊するだけであろう。
女児の「更生」のためにと称して、なぜ右のような異例の措置が必要なのか、決定文ではまったく明らかではない。決定文は、もっぱら精神鑑定に依拠して四苦八苦しながら文章をつないでいることが、ミエミエのシロモノなのであり、内容そのものが支離滅裂の極みなのだからである。冒頭から加害女児の「生来的な人格特性」なるものを四点にわたってまずあげつらい(注)、ここから演繹して「殺意」を抱くまでを長ながと展開している。事件そのものの現実分析をぬきに、「生来的な人格特性」をあらかじめコタエにして犯行に至るまでを解釈しているのだ。しかしながら同時にその他方で、女児の「人格特性」は「軽度」であり、「障害を診断される程度には至らない」、つまり異常といえるほどではない、と結論づけてもいるのだ。精神分析家や臨床心理士などの専門家でなくとも、「対人的なことに注意が向きづらい特性」などの四点の「人格特性」なるものを一瞥すれば、それ自体が今日のごく「普通の子」の多くがもっているところの、異常な「特性」とはいえない「特性」であることは一目瞭然なのである。
精神鑑定にもとづくと思われるこの判断からするならば、女児の「人格特性」から当の殺害行為そのものを説き明かすには無理がある、ということになる。ところが、この無理を無理矢理おこなっているのが決定文の筆者なのだ。決定文の結論に曰く。「女児の資質上の問題を解決するよりほかはない」と。要するに、今回の衝撃的な事件にはらまれる問題性のすべてを加害女児の人格・資質上の問題に強引にしぼりあげる、このような企みにつらぬかれているのが決定文なのである。
まさにこのゆえに、決定文では、女児が大好きだったミニバスケットを両親から無理矢理やめさせられたことや、これをきっかけとして現実と仮想現実の区別がつかなくなるほどにインターネット遊びにのめりこんでいったことなど、事件の具体的分析にとって不可欠な重要な諸事実が、あらかじめ無視され不問に付されているのだ。現実分析をまったく欠落させた、このような分析ならぬ解釈は、決定文の筆者が全面的に依拠している臨床心理学的アプローチのゆえであり、その限界性と反動性を如実にしめすものでもある。
バスケットボールをやめさせられた女児
「Sちゃんに会ってあやまりたい」
少年法改悪の先取り
A少年との共通点?!――草薙のタワ言