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(回答先: 【朽ち無しゾンビさん送別会】 レスをサボって済みません。生活上「ムダ」なことをしていました。 投稿者 米リカ産の亜鈴薯 日時 2005 年 1 月 07 日 20:48:49)
>つづきです。
>>>だからこそ日本人が*共通*してもつべき核となる歴史と伝統が必要なのです。
>>>日本人ならみな共感できる。
>>そういうものがあればいいのですが。
>>もはや多様化して、共通項は見出せないでしょう。
>>極端な話、バックパッカーなどは、日本流の生活を維持するでなく、向こうの伝統のスタイルを身に着けるでもなく、
>>スローライフなど、彼らなりの生き方を携えて、帰国しているでしょう。
>>そこまでする人たちは「特殊」だとしても、そんなふうに伝統が薄れて、もともと共通項の乏しいところに、
>>わざわざ「歴史と伝統」を持ちこむということは、けっきょくのところ、
>>啓蒙・教育・修身などという“政治運動”の流れになるのだと思いますね。
>歴史:これから日本にいる皆が経験すること。そしてその教訓。
>伝統:中高年層に愛されるアーティスト(人)。そしてそのアーティストを継承するものたち。
>少しずつ作ってものではないでしょうか。
>90年代におおきく破壊されましたが(援助交際)。
>いったん切ります。
とはいえ「これからの歴史」というと、まだ短いでしょうし、それなりに残っている「過去」を切り捨てる、というのもどうでしょう。
「過去」は、文化として、いまの文化に混ざり込んでいると思いますが、そのなかで「これからの歴史」だけを選り分けてたいせつにし、これまでの「過去」は消えるに任せるのでしょうか。
いずれにせよ、破壊された更地から、中高年層に愛されるアーティスト(人)をつくっていくのですね。
しかし、そうだとすると「評価する見識・感覚」を育てるどころか、むしろ評価される側を「いまの中高年層の見識・感覚」に合わせざるをえない、ということになるでしょう。たしかに、いまの中高年層は喜ぶはずです。
アーティスト(人)は「少数」のはずで、全員化運動ではないかもしれませんが、運動の結果として、一部の「運動対象」の人たちが選良化するのだとすると、それこそが、立案・推進する「運動主体」による「運動対象」への押し付けに映るというわけです。
ここで話を単純化すると、謂わばアーティスト(人)を育てることも一つの管理であり、啓蒙であり、強制学習・教練といったものに近い、と感じるわけですね。
もともとはアーティスト(人)こそ、自ら育てる「存在」なのではないでしょうか。
いま、ここに如何なる「美」が有ると「よい」のか、それを自ら見つけ出す研ぎ澄まされた「感性」の持ち主ですね。
「美」をつくるためにアーティスト(人)を育てるのであればよいのでしょうが、伝統的な感覚をもった中高年に作品を販売したり、福利厚生の一環として国家・自治体が買い上げたうえでの「行政サイドから供給されるアート」は、アートというよりもサービスとしての職人芸であり、ないしは、その産品であったりするのではないでしょうか。
(駅前広場の彫刻のようなものや、装飾品や陶磁器や楽曲を「中高年」好みに「レベルアップ」して量産するのですか。もちろん、それこそ、これまでに無い、または淘汰されたジャンルそのものの復刻や、自由な創出のほうがいいのでしょうが。そもそも趣味の「オープンソフト」については「現役中高年」の多数派は少なくとも、それをさほど必要としていないかもしれず、また、そんなふうに「趣味が集中している」のを、むしろほぐせるものなら、ほぐすのが先かもしれませんね、押し付けにならない程度の、公的プロジェクトとしてのキャンペーンで)