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意味不明文をつけておいてやろう。これは誰かの教室の下書きのようなものだな。推薦分野を根に持たれているらしいが。
http://www.asyura2.com/0411/lunchbreak4/msg/711.html
投稿者 荒鳩 日時 2005 年 1 月 02 日 08:26:19:KTVIjZUd/DFzQ
 

(回答先: なんなんだこれは【終了】可哀想だから寝るという蔑みと、それ未満たる別の見えない比較対照。 投稿者 ゆだやノかイラク 日時 2005 年 1 月 02 日 04:55:22)

パケットコミュニケーションが心身に関わるという、その著しく貴重な実例を、ありがとうございました。
頂戴した逆リンクの先に材を取り、その一部を、分析対象のテキストに早速、使用したいと思います。


>自分が権力者になった時の事を想像すると、庶民一人一人のことを理解しながら支配するなんて
>やっぱり類型化させて理解しつつ支配しようとするだろう
>「サラリーマンはスーツ着てるのが常識」といったようなちょっとしたところから刷り込んでいるんだろうと思います


そういう観かたが出来る人も、それに取り巻かれて生活していること〔汎神状態〕に気づくとは限りませんね。
外来の断片による生活雰囲気の再構成、これがパケットコミュニケーションの原理に繋がるわけでしょう。


>(「儲かったらBMWとかベンツ、その1ランク下だとセルシオ」だとか、なぜか皆一様にして決まってますよね。)

世俗構造が価値体系ならば、当然序列が生じますね。変動相場でしょう。ブランド化すれば、変化も緩やか〔固定的〕になるのでしょうね。


>(これが“そうさせられている”のではないにしても支配側にとって“なんとなく決まっている”状態は好都合でしょうね。)
>そうなると「わけわかんないやつ」がいっぱいいたら困るでしょうね。
>“本当は解っているのだけれどもバカのふりしてるヤツ”は一番性質が悪いように思います。

1. 内容-評価における、擬装コミュニケーションフィルターは、自分の価値を減じて、好まざる相手に切断させる、切断主体の移転といえるでしょう。
2. 内容-評価における、露呈コミュニケーションフィルターは、自分の価値を減じて、自分を好まざる相手に切断させる、切断主体の移転といえるでしょう。

3. 評価-内容における、擬装コミュニケーションフィルターは、相手の価値を減じて、好まざる相手への自分の思いを断ち切る、切断動機の移転といえるでしょう。
4. 評価-内容における、露呈コミュニケーションフィルターは、相手の価値を減じて、自分を好まざる相手への自分の思いを断ち切る、切断動機の移転といえるでしょう。


保身上の安全性については高い、と思しきネットの世界では、これらの実例に事欠かないはずです。
この4項目の仮の定義ですが、具体的には、それぞれ、以下のようになりますか。

.1 ウケるためのギャグではなく、ウケないために、傍ら痛いギャグを、連発する。
.2 自分から相手の遣る気を削ぎ、あたかも嫌われたいかに振る舞う。

.3 言いがかりのように、相手の気持ちを憶測し、ぶつけてみる。
.4 「下品」なことを言ってみる、また「敵」に味方してみる。


>きっと支配者側は「民衆には『一つの過酷な真実よりも三つの美しい嘘を』」みたいな感じの事を悪気無く思っているのではないかな、と想像しています。
>(だとしたら犯罪的な自己欺瞞ですけれども)

パケットコミュニケーションで伝搬される決定意思は、それが複合意思であれ、傾向意思であれ、物質意思であれ、相手の行動の決定を志向している、ということですね。
この決定意思は、ときには紆余曲折や往復・循環を経て、増減しながら運ばれていることでしょう。

決定意思が受信されるまでの全過程で、受信者の解釈(意思内容の書き直し)は別として、決定内容を書く(書き加える)のは送信側であり、中継側であり、末端の拡声側であり、というふうに「人/物」をそれぞれの結節点とする、全体の構造として例示できますね。

ここで末端の拡声側というのは、隣接する複数による人的環境を指すつもりなのですが、末端コミュニケーション(最終伝搬者と、受信者、とくに最多段階「経過」者である場合の)においては、そこに原初的発信者の意思が「顕現」するはずですから、具体的作用として危険なそこでこそ、決定意思の無効化処理が可能であろうし、原初的発信者に対抗できるのは、とりあえず、その局面なのでしょう。ここで、その局面、つまりコミュニケーション前線(各意思内容と各受信者の最接近線)における、原初的発信者の必要(必要剰余)を挫くわけですね。

原初的発信者の、つぎなる意思や手段のために人身が供されるのを防ぐことは、原初的発信者が何らかの必要のために企画した必要を源から断つことと等価でしょう。
ここでいう源、これは力の源というほどの意味ですが、具体的には受信者(自分や同じ立場の人たちのことですね)ということになるかと思います。
原初的発信者が何のために決定意思を送るのか、何をさせるための部分作業なのか、それが何であっても従ういわれは無いでしょう。

または形式は決定意思に見えても偶然の産物(様態意思、状況意思)なのかもしれないですが、それらの何れであれ、決定意思形式の存在を認め、場合によっては見咎めて、他者に訴えつつ、うっかりそれに乗らされるのを防ぐという自由があるのでしょう。決定意思は生活の万端に及び、磁界の海を航行するかの困難さがつきまとうはずです。どこに潜んでいるかは判りづらいと思うので一々降りて「危険」を確認しなければならないでしょうが、慣れてくれば「発見と無効化」は、日常的作業として「労とストレス」を緩和させていくことができるでしょう。

発信者と中継者と受信者で三角形の図式をかんがえるとき、受信者→発信者(逆三段論法型)についてはミッシングチャンネルになっていると思います。
また受信者→中継者→発信者というかたちで伝え戻そうにも、中継者が、いわば代理の役目を担って緩衝となるため、むろん一足飛びにはいかない、ということですね。
例えば具体的にいうと、原初的発信者が海外の拠点に居る場合、外交上の窓口の、その警備の人たちに訴えるようなコミュニケーション経路となり、これでは不満を伝達しようにも、絶望的ではあるでしょう。

>庶民である我々は真実を求めつつも「美しい嘘」に翻弄されている、という感じだろうなぁ、とぼんやり想像します。
>(もっとも、彼らの最近の嘘は精彩を欠いてますけれども)

したがって今見てきたような基本の図式を立てながら、全体の構造に、緻密に地道に着実に迫っていくことが肝要ではないかと思います。
これまで受信者側が、一部の例外などは居たかもしれませんが、観念として浸っているところを概念化し、強く自覚していくことは、雲を掴むような空想的な対抗運動を脱するための本当の意味での最短距離ではないかと思うわけです。

恐らくまだ言葉が整備されていないので、比喩的に言葉や映像を当てはめてみたところの、一寸先は、はっきりとは見えないのですね。
要は自分たちの身の回りからクリアにしていくことであって、問題は発信者側にあるというよりも、到達時点で、いかに分配され、反映され、内面化されて(織り込まれて)いくかというディフェンスの問題であろうと思います。しかも、受信側では、受信多数の送信から、少数の再受信という、コミュニケーションの図式からすると、やや奇妙といえなくもなさそうな経過を辿るということでしょう。するとコミュニケーションとしてのディフェンスは2正面ということになってしまうだろうし、ディフェンスのみならず、受信者送信に対抗するために、相手の解毒(滅却ソフト)を送信するなどの相互送信というかたちで、コミュニケーション上の局地戦(代理戦争)を繰り広げなくてはならなくなってしまうはずなのですね。

人間であれば感情の影響を抜きがたいとして、いちど向きあえば本筋とは離れた細かなところで応酬が起きるリスクも高いとすれば、受信者側同士の応酬で誰が漁夫の利をえるのか、考える必要さえあるかもしれません。(とくに中間発信者による、合流コミュニケーション形式で)

したがって問うべきは、受信者という、こちら側の問題、それも指先から打ち出されるようなコミュニケーションの実態、また即断的な、反応の質ではないかと思うわけです。

受容の抵抗部分が、削ぎ落とされて軽量化した流線形の情報が、どういう既成の回路を通すかということで、言語・映像などに埋め込まれた判断(させる)チップを吟味するということでもあるでしょう。だから、分析ツールも自前でなければ、雑菌の繁殖したメスでは切りえないということかもしれません。

ちなみにコミュニケーションフィルターとしての、場の選択という純-関係(依存)的な障壁も、むろん戦略上の駒なわけでしょうから、当然、要衝として利用できるでしょう。
見通しの悪い辺境の山岳地帯も、閑散としたコミュニケーション的僻地にも、同じ意義(機能価値)があるでしょう。(要はフィルタリングそのものの価値、選別、機能的精度でしょうね)

>でも、この図式を前提とした上で我々も「美しい嘘」をつき始めたら一体どうなるんだろうとニヤニヤしてしまいます。

今いったように、問題は相当に根深く思えるものですから、対抗文化では間にあわず、対抗メタ文化(対抗コミュニケーション文化)ということで、使用する分析ツールまでを自前のものとして用意したいと、このように思ったわけです。今つづっている文章そのものも、学術論文などとは異なり、或る種の特殊性を、多面的に帯びているかもしれません。このような文章表現へと、ツールの形成を危機感を強くもって徹底していくときには、様相は、こうなってくるはずなのですね。

問題は、その倫理的側面でしょう。
正当性を喪ってまで、たとえ強力な対抗文化(1人国家の内部環境)を築き上げたとしても、それは「憎悪の連鎖」と同一視されますね。
これは多数化運動とも軌を一にするはずです。(多数決で決められないことを、多数化して決め返すという、同一路線たる意味では)

慎重に考えていくと、そう多くの選択肢があるとも思えません。
したがって、偽物(逆行)というものは受信者サイドでも、そして自覚的・解脱的な受信サイドでも排撃しなければならない場合が生じてくるかもしれないというのです。

> モンティパイソンのコントでそんな感じのものがありました。
>丘の上に住むアホにBBCがインタビューするというものなのですが、BBCの記者と二人きりの時はすごく哲学的な事を語るのに、村人が通りかかると途端に「アーッ」とか「イィーッ」とか奇声を上げ始めて小銭を貰い、村人がいなくなると哲学的な顔に戻るという、そんなコントでした。

哲学というのが、人生哲学として誰でも可能なところから、非生産的で蔑まれる対象なのか、また東西哲学史と呼べるフィールドの、専門知識として生産的な更新なのかということでしょう。
しかし、哲学の本質的な別の側面として、非生産的生産性(積極的な非生産性、関係の切断、切断の拡張、積極的な滅却)をかんがえれば、それは敵対的な生産性といえるでしょう。

1つの極「受信者側の社会」(世俗構造)にとって、上下というよりも敵味方に分けたほうがよいかもしれないのですね。

これは三叉図(喩えればベクトルを三方にひろげたような図式)というかたちで見ることができるかもしれません。
左右の別を敵味方の隔てとし、右を敵とすると、右は上下2方に分かたれるように表現することができるでしょう。

この図で見ると、社会に役立つ哲学というのは、いわば敵方であろうし、他方も、たとえば非生産的であっても、敵方としての既成社会には無害であるといえるかもしれません。(このときには、無害であることを容認していないというわけですね)

したがって学術を経由する哲学そのものが、束ねられてシステム化した欲望、またはシステムの欲望の変形として決定意思を敷衍したものであって、中継者になっている可能性からして警戒してしまう、ということもあるでしょう。

また、この三叉図を回転させるようにして位相を変えれば、「生産性において敵味方のどちらかに役立つ」「社会に無益」「社会に無害」という3領域に分け直すことも可能でしょう。


「敵味方どちらかに役立つ生産性」
●生産性●非生産的生産性
「社会に無益なそれ」
●非生産性●非生産的生産性
「社会に無害なそれ」
●生産性●非生産性


> 「考えを読まれないようにする」とか「類型化しづらくする」とか「全体がマイノリティ化する」などは凄く地味ですけれども、ひょっとしたら一番強烈な抵抗かもしれませんね。なんだかわくわくしてきました。(いや、まぁ私自身は“バカのふり”じゃなくて「本物」なんですけれども)

本当は誰が愚者を演じているのか、ということは結局のところ最後までわからないでしょう。
その人の激しい狂態を見て、この程度か、終わったなと判断しても、あるいは少し鈍い反応を打ち返していても、また実際に試行錯誤に陥っていても、荒らしや電波と看做されていても、次の瞬間、確率はともかく、どう立ち上がるかの「最終(永続的な)予想」は、不可能ですね。

ただ、ある程度の賢さも演じなければ、知識崇拝の進んでいるような一般多数(中堅エリート層、左派も含む)に伝達できないのであれば、伝達を意図する場合には賢く振る舞う必要があるでしょう。そして、最高度の対抗哲学を持っている人間が、それぞれの場で「説得力」をもった最高の知識を有しているとは限らないはずで、常に伝達は困難に突き当たるものと思われます。

しかし、伝達(範囲)制限が「コミュニケーションフィルターのかたちで、コミュニケーションの内外(外、コミュニケーション環境)や、もちろんコミュニケーション内容の内外に、受信者によって」設定されることがあるかもしれません。或る種、特殊な場合には一般にいう伝達をしないこと(埋設、部分構造の埋設、埋設による自己参照、あるいは一覧化)もありうるでしょう。
さらに、自己決定意思に準拠している造形についていえば、恐らく造形作品が緩みをもたず、その準拠した内規を逆算されないようにするため、伏せた部分のメッセージ内容を殺してしまうという形があるかもしれません。

そもそも、活動するということは、活動目的と手段に拘束されるということで、対抗運動は決定意思からの自由であるはずなのに、活動が集団的に相互に決定意思を投げかけるところに無理が生じる、ということではないでしょうか。決定意思は、各レベルの運動効率などの合理性についても、過剰な要求をしがちとなることが懸念されるわけですね。

統計的合理性の個別不適合や、主観合理性を含む恣意決定権の侵害というようなこともあるかもしれません。

ちなみに、コミュニケーションフィルターのフィルター(暗号や種々の脱力演出)部分を、そのまま望まざる解読者への滅却(教示・撹乱の加圧)テキストとして、利用可能でしょう。

逆にいえば、それは大資本的に組織化されている可能性があるかもしれないのであって、これが教育予算に流れ、学知を吸収するさいに、いわば洗脳システムのようにして、衒学的フィルターを解読しなければならないのかもしれません。
そうすることで選択的に、教育コミュニケーション的エリート(教育リテラシー覇者)を強制教示(洗脳)することに成功しているはずなのです。(百歩譲って、そう警戒することは可能というわけですね)

学知の一極支配への対抗文化は、倫理的正当性、そして真実性・運動性を加味した別種の、異質な「学知」でしょう。(強制教示する者が、自己複製するとき、すでに初めから、自己の複製時に、自己も強制教示されている、とすれば皮肉なものなのかもしれません)

>>個別の事例、特殊な事例が、ときに普遍に通じていることを発見すると頭がスッキリします。

恐らく個別性が即、普遍性に通じるのではなく、個別文化(決定体系)の抽象としての徹底的な個別性が、しかも全域であることを重視する意味での価値づけられた普遍性という概念を拒絶するような形で、ようやく許されるかに遍く対象に振り向けられ、また論理としても普遍性に到達する、ということではないでしょうか。

> そこでこれです。(文が難しくてアレなんですけども多分。)

>http://f49.aaa.livedoor.jp/~think/cgi-bin/bbs.cgi

>↑マドオンナさんのところの“啓示板”です。ここの「寂しい運動」ってスレッドです。
>これと根底で繋がっているんじゃないかなって思います。
>(私には文が難しくてまだ消化できていません。なので見当違いかもしれません)

わざわざ難しくし、読みづらくしたり、または読ませる努力を放棄したりしてある、コミュニケーションフィルター(コミュニケーションバリア)につきあう必要がなく、それを実は突破した者が「コミュニケーションフィルターにつきあう必要はないが」と前置きしなければならないとすると、良い文章とは、わかりよいものであるという命題に示されるような、世俗多数側リテラシー弱者の要請に、もとづくものなのかもしれませんね。
また、学知の世界はリテラシー覇者が多数であり、解読(や解毒)は対抗側の負担になるでしょうから、もしパラダイム汚染が深刻で、役立ちそうにもなければ、そこから何か新鮮な命の水のごときものを汲み上げようとは思わず、自己を信じて別の研究を組み上げていくのも1つ(1つ以上)だと思っています。学知とは別の極をつくるということは別のリテラシー能力を要求するでしょう。

しかし、現状で立たされているような或る実害の有る状況にとって、もっと目的への合理性をもつ、日頃の疑問に即応する、対抗(少数の、個別の脱出)運動にとって合目的的な知の系を、いっそのことつくってしまったほうがよいと思います。
それを軸にした群がりの極の、その敷居の高さについては、そこは異文化圏だとして仕方が無いとすると、いま問題なのはコミュニケーションフィルターのはずで、必要(強制)と必要(脱出)の、2文化言語を知っていることが、言語は大勢によって成立するものなのでしょうが、それでも少なくとも部分言語(方言)的な独立は、1人から可能ではないかと思います。

>(最近“啓示板”が晒された事でメジャーになりつつありますね。私としては「宮本さん?ああ、一時期荒らしてた人ね?」みたいな無関心を)
>(装って「実は結構覗いて頷いている」という“自分でこれをタブーと思い込みつつそれを破る”タブーごっこが気持ち良かったんですけどね)

タブーというのは「自己切断」対象への、他者への強制のような意味があると思うのですが、それをまたバリア(さきほどの自然の要衝のようなそこ)を突破して、コミュニケーション関係を確保することで、事実上のコミュニケーションフィルター(であるかの選択形式)を獲得していることになるでしょう。

>「個別の事例、特殊な事例が、ときに普遍に通じていることを発見」する時というのは本当に快感ですよね。老子や荘子、列子、孫子の一連の流れを読んだ直後に量子力学の解説書を読んだ事がありまして、その時は「あ、なんかすごく近いじゃん!」と身震いして
>寝ることが出来なかった事があります。老子のおじさんニアピンです。二千年前に。
>活字離れをしていなくて良かったと心から思った瞬間でありました。

権威あるものと権威あるものとの関係は、権威なきものと権威なきものとの、ときには対立関係にあるものに通じている場合もあると思われます。しかし、片側が、さらに抜き差しならない何かと結びついているときには、それらは、やはり対立的なものとして在り、不幸な出会いになるのかもしれません。

不幸な出来事(出会い)は、コミュニケーション内容におけるのと同時に、コミュニケーション形式においても、しかも、それぞれ根本から分岐的に起きる場合があり、そのように起こすこともできる、ということだと思います。

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