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(回答先: 「After Theory 第1章 忘却-の政治」テリー・イーグルトン 『早稲田文学』2006年1月号(1) 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 12 月 20 日 05:50:49)
副次的文化へと分解していったひとつの帰結なのである。わたしたちの時代における歴史的に重要な展開のひとつは、伝統的な中産階級の衰退である。ペリー・アンダーソンが論じたように、堅実で、文明化されていて、道徳的に真っ直ぐなブルジョアジーは、第二次大戦を生ぎ延びさえしたのであるが、このわたしたちの時代において立ち現れた「若手女優や安っぽい大統領、官営住宅の貸ベッド、ぞくぞくさせる広告獲得のための賄賂、社交儀礼のディズニー化それに日々の営みのハリウッドのようなスぺクタクル化」といったものを前にし打ち砕かれてしまったのである。アンダーソンは鮮やかな侮蔑をもって次のように書いている。「堅実な(ブルジョアジー)の円形劇場が、はかなくうつろう姿かたち当世の資本に関わる企画者や経営者、監査官や管理人、管財人や投資家、つまり、社会的な足場も確固たるアイデンティもない通貨宇宙のなかのさまざまな諸機能が浮遊する水族館」に場所を譲ったのだと。この、確固たるアイデンティティの欠如とは、今日の文化理論がラディカリズムの最終的な言葉として言明するものと同じものではないだろうか。アイデンティティが不安定化すること、それは「転覆的」であるとそれはいう社会的に見捨てられた人々や見限られた人々の間でそれがどのように受け止められるか試してみるのは興味深いことである。
こういった社会秩序にあっては、もはや、ボヘミアン的な反抗や革命的な前衛に期待することはでぎない。もはや、吹ぎ飛ばすものなど何もないからである。シルクハットを被りフロックコートをはおりすぐに癇癪を起こしてくれた敵などもはや消えてなくなってしまったのである。代わりに、非・規範的であることが規範的となったのだ。今日、何でもありなのはアナーキストだけではない。若手女優、新聞の編集委員、株式仲買人、それに企業の重役たち、彼らもまた何でもありなのだ。規範はいまや貨幣である。が、しかし、貨幣こそ、それ自身の原則もなければアイデンティティも全くないのであって、それは規範でもなんでもない代物なのである。貨幣は徹頭徹尾出鱈目なのであり、高値をつけてくれるところならどこへでも喜んでついていく。いかに不気味な状況であれ、あるいは極端な状況であれ、それは無限に適応できるのであり、まさしく女王がごとく、すべてのことに関して自分自身の選択肢を何も持たないのである。
したがって、わたしたちの時代は、古い中産階級の高潔な偽善