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(回答先: 今は無き『日之本研究ホームページ』の再現です。 投稿者 謝寅 日時 2004 年 12 月 17 日 19:13:12)
「第五章 霊主体従 1 正食 霊主体従について」へのリンク
http://www.asyura2.com/0406/health9/msg/306.html
あと私の未熟さで貼り付けられなかった「正食2〜3」もここに
レスしますので興味のある方はご覧になって下さい。
正食 -その2
http://www.asyura2.com/0406/health9/msg/498.html
正食 -その3
http://www.asyura2.com/0406/health9/msg/499.html
*霊界雑感*
ここれは、全くの個人的な考えを述べるところです。今までに紹介してきた書籍の情報から、それらを総合して霊界とはこういう「感じ」であるらしい、といった極めて主観的なまとめになっています。
- 霊界について個人的なまとめ -
1各人の発達段階に応じた境域。同じ空間にありながら、或る程度の段階の境域が存在している。
丁度TV放送の電波のように、本質的には同じものでありながら、鈍重か精妙かといった、バイブレーションの違いによって区画された境域が無数にあるらしく、丁度地上の人間が霊界の事など認識できない様に、境域が違ってくると違う界の存在は認識できないらしい。
※バイブレーションとはあいまいな表現ですが、うまく地上の言語ではなかなか説明できないらしい。
2死後意識されるのは、その人の発達段階に相応しいか境域になる。
その人物の世界観というか、世の中はこうだという世界観に従った(つまり内面に抱いているものに相応しい)ものであるらしいです。従って、退廃的な世界観の人はその境域に、静寂な人はその境域に(自分に相応しい)自然と住むようになる様です。
よく、内在の天国を建設せよとか、地上時代に内面に天国に住めないものは、死後天国に赴く道理が無い、等と書かれているのはこの為だと思われます。
3従って、同じ境域に存在する人は何かしら共通点や親和力がある。
この親和力は地上時代においても同様に働くもので、霊界においても同じ境域には、同じレベルの人が住むようになり、その中でも又それぞれに内分の近い者同士が集落を作って、各自その団体の中で生活をする様です。
つまり利己主義者の周りには、同程度の利己主義者が集まり、他愛的な人には同じ様に他愛的な人が集まって生活するようになる様です。 また地上との関係でいうと、やはり利己主義者の場合には、同じ利己的な霊が惹かれ、他愛的な人には同じく他愛的な霊が引き寄せられるという事です。
4恐怖心、心配や不安、焦りや取り越し苦労といった平静さを失わせる状態は、地上の人物と霊との交通を著しく困難にする
こういった念では、守護霊と呼ばれる霊や高級霊の場合、同じ様に奉仕の思いを抱いた地上の人物に惹かれ、援護したり導いたりしたいと思っても、お互いの交通が遮断されてしまうようで、逆に信念というか、確信に満ちた時に起きる状態(静かな自信とか、落ち着きといったもの)が交通する上では非常にありがたい様です。
また同じ様に、怒りや憤り、嫉妬、憤怒といった感情も、同じ念を抱いている霊が引き寄せされてしまうもの
である様です。
5総ての世界には、ある共通した要素が法則として適用されている
例えば、潮の満ち引きとか四季の繰り返しに見られるように、物事には総て両端から両端へと、相対的なものが含まれていて、人間の成長もその通りに、順風満帆の時には物的なものに心を奪われ、困難の最中には霊的な真理を渇望し、といった循環によって次第に成長するものの様で、またこういった科学万能主義や唯物主義、霊的な啓蒙のブームや衰退といった社会現象なども、潮の満ち引きにも似た”時期”というものが存在するようです。
また、色の要素を無限に加えていくと、究極的には白と成るように、或いは光線の要素などが無色となるように、様々な要素を満遍なく発達させた霊(高級霊)の場合、白色の光輝を備えていくものの様です。
6地上に誕生する人には、何かしらの足らざる要素があり、その修復の為に誕生する
地上に人間が誕生するのには、それなりの理由があり、その人の何かしら足らざる要素を克服するために、敢えて誕生するものの様で、いわば精神的な発達状態で言うと、地上はまだまだ幼稚な段階である様です。
つまり霊界を社会とすると地上は学校のようなもので、それなりの勉強の為に生まれてくるものである様です。従ってある段階まで成長した霊の場合だと、もはや地上に誕生することも無いのですが、地上に生まれたからには、それなりの体験を通して成長する様になっているものであるそうです。
7霊界の世界が実相で地上はその影に過ぎない
実は霊によって物質が与えられているので(海外の交霊界などで、たまに霊素というか、何かの要素を使って物質化する現象が起きたりする)物質の世界というのは、単なる霊界の影に過ぎない。という事のようです。
ちなみに、物質世界に存在しているものは、既に霊界に存在しているものであって、何かを発明する人などはそのインスピレーションの源は霊界に端を発しているようです。
更に、古代に現代と見紛うほどの高度な発明をしたもの(古代の電池など)も、5に見られるように総て相対的、或いはらせん状に進歩・発達する法則の中で、古代にインスピレーションによって発明されたものが、再び地上で発明される時期に到達した。という事のようです。
8確信・信念、静かな自信、楽天主義、安心立命といったものが高級霊と交通し易い
4と関連してくる事ですが、地上で起きる様々な困難、悩み、悲哀といったもの総てが、挑戦として受け止め、それらに対して思い煩いとか、心配を脱し守護している霊に全幅の信頼を置いて事に望んで欲しい、という事のようです。
という事は、現代の経済社会などは、自然と心配や不安の念を常に何所かに抱いて、かつ競争を煽る傾向になり、ある意味矛盾した事になっていますが、6の地上は体験を通じて学ぶための学校である、という点を考慮すると、ある種の試金石という事になります。(安泰な世界で安心を得るのは簡単なため)
人間は、少し自信はあるけど、少しだけ不安もある。こういった場合には空威張りをしたりします。自分を鼓舞するためか、或いは必要以上に自分の力を誇示する為かも判りません。
しかし、自信にみなぎっているか、絶対的な確信とかある場合には、静かな自信を秘めています。例えば余りにも出来て当たり前のような些細な事は、平穏に事を処理します。
ただし、ここまで確信・信念とか、自信に裏打ちされた安心立命を抱くほど、達観するのは容易ではありません。出口王仁三郎氏やシルバーバーチといった霊などが、幾ら語ろうとも判らないものは、判らないし、半信半疑のものは半信半疑のままです。人に言われても、自分で体感する以外には方法は無いことになります。したがって、非常に困難で時間もかかるものです。
9人間の生命は永遠である
地上の人間の殆どは、短期的なものの見方しかできなく、霊界の霊は永遠という立場でものを見るという事が、大きな違いの一つであるようです。
例えば、因果律の問題についても、必ずしも地上の生活の枠内で達成されるものでは無く、霊界に赴いてから埋め合わせがされるという事も起きるようで、どれほど奉仕の生活を続けている人でも、何の見返りも無い人も居れば、利己主義の生活を続けても、何の心配も無いような悠悠自適の生活を続ける人も居ると思われ勝ちだからです。
人生80年という短期的な見方では、確かに不正とか不公平感はあると見えますが、喩え悲運の一生を送った人でも、それは永遠の生命という枠で考えると、瞬きの如き一瞬の出来事でもある訳です。
逆に自分のしたいように行い、利己主義の限りを尽くして一時得をしたように見えても、それもまた一瞬の出来事でもある訳です。長く苦しい時期に差し掛かると、その時はこの状態が何時まで続くのかと、非常に長く感じても、それが過ぎ去ってしまい、後から振り返ると「あっという間の出来事だった」と感じる事が起こります。
因果律はしかし、地上時代にすぐに適用される場合もあります。コヴィ博士の手がけたコンサルタントでも、一時的な表面でのテクニックや、その場限りの誤魔化しでは、一時的によくなっても必ず崩壊に至る、という例を数え切れないほど見てきたそうです。
こういった哲学に関するものでも、霊的な真理と言われるものでも、生活の中に活かそうとする人は、既にものの見方が多少は長期的になっていると思います。
これは一見すると非常に当たり前の事に終始してしまうのですが、総ての人に親切に正直に、誠意を持って当たる人と、短期的に”損得”或いは”勝ち負け”にこだわって利己主義を働く人とでは、(こだわるという事はそれだけ、感情的になったり短気を起こしたりします)短期的に見ると、前者は負けの連続、後者は勝ちの連続に見えるかも知れませんが、長期的に言ってどうなるでしょう?
何か困った事があっても周囲の人が援助してくれる事もあり、信頼を受けるという事は、計り知れない財産を積む事に成ると思います。