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「思考停止する」とはなんと気持ちの良い事でございましょうか。
いつか幼いころ良く言い、良く聞きました。
「お母さんが●●っていってたんだから!」
教会でのお説教では神父さんが説教において聖書の一説を抜き出す時、こう切り出すことがあるでしょう。
「主は言われた・・・」
戸棚に入っているおやつがありまして、母は私を置いて出かける際「食べていい」とも「ダメ」とも言っていきませんでした。
私はそのおやつを食べたいけれども「きっと怒られるから」我慢しました。
「きっと怒られるから」という判断は、兄が怒られるところを見たことがあるからです。
幼い私はおやつを食べる事を我慢しました。兄のように自ら考え、自ら判断したらきっと怒られます。
そうすればきっと母は「良く我慢できた」と褒めてくれるでしょうし、食べてよいと言う許可をくれることでしょう。
避妊を否定する人はオナンを見てそうするのでしょう。怒られましたからね。
私は兄という先例を常に見て行動したために「怒りを買う」という事を回避する事ができました。
キリスト者は聖書によって、私にとっての「兄」を見ているのでしょう。
幼心に「自分の親は何について怒りを表しているのか」わからない事も多かったように思います。
今思えばそれは論理的な事柄ではなく、感情のまま怒りを表したのだろうと思います。
旧約聖書の神はしばしば、訳のわからない怒りを表します。
子供は親の、信者はその神の顔色を見て生きていきます。
しかし親は、私が助けを求めた時、助けてくれます。
幼く無力な私にとってはそれが全知全能に感じられました。
「なぜあのような事を簡単に出来るのだろう。お母さんすごい」
と単純に感じたものです。
私はもうとっくに二十歳を過ぎ、親に頼ってはいけない年齢になりました。
ですが困難にぶつかった時、心の奥底で「自分をはるかに上回る力を持った存在(親)に助けてもらいたい」と切に願っているように思います。
それはきっと誰でもそうなのでしょう。
頼るわけにはいきません。親への期待は自分の中から排除せねばなりません。しかし頼りたいです。
「自分をはるかに超えた存在」はこうして「神」あるいは「救世主」と名を変えて作られたのでしょう。
神とは親の代わり。私を保護し困難な問題を私の目の前で解決してくれる。そんな存在なのでしょう。
ゆえに妄信し得るのでしょう。幼いままの自分は永久に老いる事のない記憶の中の親を賛美します。
あの頃の母は、若くて聡明で力強くて万能で優しくて物知りで美しく、時々カンシャクを起こしていた。
友達と「うちの父さんすごいんだぞ」と親の自慢で張り合い、喧嘩した事ありませんか?
私にはあります。
キリストの子とイスラムの子が今喧嘩をしていますが、ほぼ等しいと思いませんか?
腹違いの兄は、近親憎悪からか圧倒的な力を持った凶悪な政府を支持し、弟をねじ伏せようとしていますね。
ハルマゲドンを待望?再び親と会うために?
それは確かに、家に火をつければ出かけた親も急いで帰ってきますね。
しかし親はそんな事をする子供をこっぴどく叱り付け、褒めて抱きしめるような事は決してしないでしょう。
いつか中学生の時であったか読んだ本、作者が誰なのかも忘れましたが、
“『宗教は阿片なり』とマルクスは言ったけれど、その時代、阿片はそのへんの薬局で普通に買えた。だから現在の阿片のイメージではなくて”
“「鎮痛剤」くらいの認識での謂いであって、決して否定的な意味ではないと思われる”
と、こんな感じのことが書かれていたのを覚えています。
「お母さんが言ったから」「主が言われたから」 そんな思考停止は時々必要であるようと思います。鎮痛剤として。
しかし常用すれば恐ろしい結果が待っているでしょう。
神とは親の残像なのではないですか?
深夜ゆえ朦朧としながら書いております。
妄言を発する阿呆が朦朧としております。お許しください。
ああ、なんと思考停止の心地よいものか。