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(回答先: 社会の基本 投稿者 アンチキリスト666 日時 2004 年 11 月 17 日 18:33:26)
アンチキリスト666さん、こんにちは、横レスにて失礼します。
遺憾ながらニコライさんとの間に介在する食い違いが修正されることはないだろうと考えています。少なくともニコライさんの方からにじり寄って来ることや、聖書が内包している矛盾をニコライさんが自ら徹底して捉え直すことなど殆ど望めないのではと思われます。
他にも書きましたが、70年代初期のまだ青き哲学徒だった頃、再びキリスト教(プロテスタント、モルモン、原始福音等)の宣教師や教会関係者達と、時には生活を一緒にしながらそれぞれ少なくとも10時間以上にわたる論争に及びましたが、悲しくなるほど論点が噛み合わず虚しさだけが残ったという苦い想い出があります。また、彼等は肝心な処では私以上に頑なでしたし、その柔和な相貌の裏に隠された不寛容さを垣間見ては酷く震撼させられもしました。キリスト教の大きなコングレスではしばしばTolerance(寛容)がテーマになるくらいですから、それは反面においてキリスト教が不寛容で排他的な体質を持っていることの顕われであると思います。
教義は聖書に書かれているような人間の諸々の罪科を贖うべくしてイエスはこの世に遣わされたという中核的コンセプトで構成されていて、厳密には世界観ではあらぬが故に信徒にとって聖書のコンテクストに纏わる根拠の明示などは本質的にどうでもよいことのようです。つまり、それが循環論法的な言説であっても、信仰への専心からみれば全く問題にはならないのでしょう。信仰の名の下に循環論法的コンテクストを受け入れてしまっている人達にたいし、聖書について論考せよと働きかけてもおそらく聞く耳を持ちますまい。そこには、聖書の解読を介して信徒(人間)の宗教心理に迫ることのもどかしさがあります。
宗教システムについて言えば信徒にたいし直接的又は間接的に思考停止や判断停止を強要するからこそ実効性があるものです。ほぼ完璧に宗教システムに組み込まれてしまって、その自覚さえもない信徒が他の文脈を使って自らの信仰対象を相対化するなど到底出来得ぬ相談でしょう。この際包蔵せる矛盾点には目を瞑るとして、聖書に代表される教典がシステム運用者にとって信者や信者予備軍を誘導するために好都合よく編纂されたテクストであるといった捉え方もできると考えています。しかし、そんなことは全く視野に入らないのが信者の信者たる所以なのかも知れません。
また、会いましょう。