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(回答先: Re: 投稿者 ニコライ 日時 2004 年 11 月 16 日 08:32:43)
客観的に読んでいらっしゃるわけではないようですね。
書かれたことが事実であると仮定しても
現場で見てでもいない限り誰にもわかるはずのないことですから。
ニコライさまの読み方は『信じたい人』の読み方かと思えました。
本来は信者の方々のための読み物だから、ということもあって
聖書の中の矛盾は放置されてきたのでしょう。
通常は読む人々が自主的に解釈を補って
パーソナライズされたバージョンを創られるので
辻褄を合わせる必要はない、と。
『神の言ったり行ったりしたことや
イエスのそれらには悪意はない』という前提に立って初めて
そう読めるのであろうと思います。
それが信仰、ということかな。
知人の信者の方が
『まず信じなきゃだめよ』と言っていたのを思い出しました。
『聖書を忠実に理解する』ことを趣旨とする派はいくつもあるが
忠実に、とは一体どうやるのか。
信じてから読むべきものが聖書なのか。
読むそれぞれが辻褄を合わせるのが『忠実』な態度であり、
そうやって読んだ結果を『理解』と称するのか。
解釈についって論議している間はまだいいのですが、
それぞれの生活の中で『聖書の理解』の応用が始まると大変かと思います。
辻褄を合わせた理解がその指針になりますね。
その通りにしていれば間違いないはずである、と。
間違ったら?
『聖書のせいであって人間のせいではない』?
これは怖いことです。
気分を害されたらすみません。