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(回答先: 葦津珍彦(あしづうずひこ)を読む 「武士道、天皇、国家神道」 投稿者 へなちょこ 日時 2005 年 2 月 10 日 02:00:38)
明治維新に際して「祭政一致」「神仏分離」「大教宣布」の国策決定に大きな働きをした玉松操などをはじめとする主要人物や活動家は、明治3年には早くも政府中枢と対決を生じて、その後10年のうちに追放され、刑死され、戦没するなどして、いわゆる神道勢力全般は「残党なお亡びず」といった悲惨な状態になってしまっていた。明治維新の「王政復古の大号令」は薩長などの武断勢力と緊密な関係にあった岩倉具視が、異色の国学者、玉松操の進言を入れて、王朝内公卿官僚の意見を退けて成立させたものである。「神武へ還れ」というスローガンは、王朝官僚が律令の遺風に固執し、建武中興のような失敗を繰り返させない意味があった。その後、「祭政一致」「神仏分離」が政府より発せられた。これは、江戸時代に仏寺への従属を強いられ、葬式も寺で行うように強制されてきた神道人にとっては悲願ともいうべきものであった。幕府は学者の仏教批判は学問の自由と許したが、地方の神主などが仏寺への不服従を表明すると徹底的に弾圧した。そうした神道人の中に、神仏分離に際して排仏的な論調が見えたのも理由のない事ではないのだ。しかし政治的な力関係では仏教教団の方が圧倒的な影響力を持っていたため、政府はただちに排仏行動は犯罪であるとし、巨大教団の真宗との融和につとめるようになる。真宗の西本願寺は長州と縁があり、薩摩には国学流の神道排仏派が多いが、新政権恐れるに足らずとするほどの力を真宗は持っており、西郷の没落後はその傾向を強くした。岩倉は討幕から王政復古の大号令まで玉松をブレーンとしたが、新政府の建設工作には玉松らは余りに敵が多いと見て、早々に敬遠しはじめ、遂には政府によって検挙される有力神道家も多く出るようになる。政府の側では神祇官を設置するが、これは西郷に「ひるね役所」と呼ばれるほど目立つ活動のない役所で、明治4年には神祇省、さらに明治5年には教部省に改められる。神社を国家の祭祀と定めた以外には見るべきところのないものであった。先に述べたように有力な神道家はほぼ追放されてしまっており、残っていたのは福羽美静ぐらいであった。
新たに台頭したばかりで組織的な力を持たない神道勢力に比して、長州と深い信頼関係を結び、組織的にも、財政的にも強大で雄藩なみの発言力のあった真宗には、新政権を誘導する自信があった。真宗の対政府工作で力があったのが島地黙雷である。島地はキリスト教排斥のために、神道や儒教よりも仏教に力を入れよ、とする進言を政府に行い、政府は明治5年、神祇省を廃止して、神道、儒教、仏教合同の教導政策をとる教部省を設置している。真宗はこれに安心し、親真宗派の政府内有力者、木戸孝允、岩倉具視の外遊する中、島地までも外遊してしまう。留守政府の西郷隆盛、江藤新平などの親神道派によって、教部省は島地の意図とはかけ離れた、神道色彩の強いものとなってしまった。明治6年に帰朝した島地は大いに怒り、教部省大教院からの真宗の脱退を示唆し、有名な「神道は皇室の治教にして、宗教に非ざるなり」との訴えを行う。島地は皇室の神儀礼典を宗教と認めたら、神道国教制の道を日本が進む事を恐れ、その事には言及せずに、皇室の神道は政令、治教で、民間の神社信仰と全く無縁のものと分断する強引な理論を立てた。地方の民間の神社信仰と皇室の神道とを切断してしまえば、神道勢力は仏道を脅かす勢力にはなりえない。この島地の理論には、先に「祭政一致」の宣言をしてしまった政府の体面も傷つく事なく、「信教自由」の政治路線もまっとうできるために、木戸も同意を与えていたふしがある。この仏教徒による宗教的神道封殺のためのロジックが、後に明治政府の見解となり、その後の「国家神道」「神社非宗教」のロジックにつながるのである。
近代欧米流の「信教自由」「政教分離」の思想は勝海舟、福沢諭吉などによって知悉されていて、島地は外遊に合わせ、こうした開明派の理論に影響され、政教分離のロジックを学んだ。島地は「祭政一致」の大詔が存在する以上、福沢のように「皇学者流の愚説」などと放言せず、祭政一致の尊重を力説しつつ、神道の祭典を「宗教に非ざるもの」とした。これは社会的に影響力のある西本願寺と、当時は一私塾にすぎず、言論も気軽で自由だった慶応義塾との差によるところもある。島地は、無論、幕末の平田篤胤学派の神道の反仏論は純然たる宗教論争である事も知っていたが、維新に際して大合流した神道を分裂させ、その力をそぐために、あえてこうした言説をとったのである。
明治6年、島地が神道偏重、政教混合として非難していた「三条の教憲」を起案した江藤新平が政府の挑発による反乱で、大逆不逞として誅殺されるや、真宗の教憲反対派が大教院の神道的色彩を、権力の後援のもとに否定するのはたやすい事となった。その後、熱烈な神道家を社会的に抹殺せしめた神風連の乱を経て、真宗は、西南の役で西郷が没した明治10年には、教部省を廃止に追い込む。島地ら仏教側からの「神道非宗教論」は神道の宗教教学が、垂加神道にしろ平田学派の神道にしろ、一私人が考え付いたものにすぎず、「これこそ朝廷の神道教学」として公認された統一教義のないところを衝いた。一方で神道側からも「神道非宗教論」が登場する。これは丸山作楽などが、当時の伊勢神宮の田中頼庸と出雲大社の千家尊福との間で起こった、神道事務局の神殿に奉祀する神に、大国主命を合祀するかでの論争から、出雲大社が一宗教として分離するに至った経緯などを憂えて、神道の国家的地位を保つべく提唱したのだ。丸山の「神道非宗教論」は島地のものとは異なり、神道は他宗教より上位に位置するとのものだった。この論争の調停に腐心した山田顕義が内務卿となると、政府の方針として「神道非宗教論」を進めてゆく。明治17年、神官は非宗教人とされ、「公人」の立場で神道宗教の活動をする余地を失ったが、府県社以下の神官が国家的な立場ではなしに神道式の葬式や宗教活動を行う事は、内務省通達の但し書きで認められ、法令違反とはならなかった。山田は吉田松陰の影響下にある人物で、皇典講究所の創立に尽力した実績もあるので、神道人からの反発を最小限に抑え得た。また、山田は神道が他宗教を非難するのを、宗教的であるとの理由で嫌った経緯もある。
帝国憲法制定にあたって伊藤博文は、世俗国家思想、政教分離主義を貫き、皇室典範では皇室が古来の神道的神事礼典を行うべき項目を加えたが、皇室典範は皇室の家法であるとし、国家国務の法とは別とした。こうした政府の方針に、神道人は不安をおぼえた。神社を非宗教であれと命じておきながら、神社行政は内務省の社寺局で、仏教と同じに宗教行政として行われている事に、神社が非宗教の国家性のものなら、神社行政には仏教とは別の神祇官を設置すべきとの主張が起こり、元老院の要人や山田顕義らの賛同を得た。しかし憲法起案者の井上毅がこの案を葬り去ったのである。法学思想家としては第一人者であった井上は世俗合理主義者で、神事礼典は皇室で守られるべきであるが、国家の国務と混同してはならぬとした。井上は反キリスト教で、儒教に親しんだ人間であったが、儒教や神道の国教化には反対した。「教育勅語」の起草にあたっても、「尊神」の語を特に避けている。これは井上が「教育勅語」を神道国教化への道筋としないための方策であった。憲法制定と前後して広がった、神道人による神祇官復興運動は、明治維新以降、神道が真宗や欧化主義者によって政府部内での後退を余儀なくされ、このままでは亡びるのではないかとの危機感の噴出であった。また、伊藤博文など欧化主義一辺倒の政府に対して、大隈重信などに代表される民撰の衆議院では、洋風イデオロギーではなく固有の国民意識との結合を目指し、民権運動を進めた。藩閥政府と結んだ仏教、キリスト教に対して、衆議院は神道一辺倒の色彩が見られ、この衆議院の後押しから、政府は明治33年にようやく重い腰をあげ、神社局を創設し、神社を「国家の宗祀」として他の宗教と区別した。しかし内務省内でも神社局は「三等局」として扱われ、課に格下げしようとの議論まで出る始末であった。ただ、この神社を「国家の宗祀」とした政府の動きは、寺社領を没収され、寺院と違い葬式による収入もなく、財政不足で衰亡の危機にあった全国の神社に対して、「神社は国、国民によって維持されるもの」との国民意識を昂揚させ、神社の衰滅を防いだ意義は大きい。
日露戦争に際しても、教派神道や府県社以下の神主には思想活動は許されたが、官国弊社の国家神道人には原則的に思想活動は認められず、民間の神社での戦勝祈願は盛んだったが、国家神道の拠点のはずの神社局は何の動きもできない状態だった。当時は神官神職の従軍は許されず、戦地に赴いたのは仏僧がほとんどで、戦意高揚に力を尽くした有力宗教人も仏教やキリスト教の出身者が目立った。神職の従軍が認められるのは昭和14年である。日露戦争が終わり、神社局長の水野錬太郎は官国弊社への国費支出法案を提出したが、わずか十分の一の経費補助で宗教的収入の抑制を図った神社局の方針は、むしろ官国弊社に経済的な打撃を与えた。戦後の占領軍の国家神道の廃棄は、占領軍が撤退して神社敵視政策が解除されると、逆に官国弊社の神社経済には格段の繁栄をもたらしたのだった。神社局の消極主義は、無精神、脱イデオロギー、ことなかれ主義とも言いかえる事ができ、神宮神社を著名な天皇、皇族、または国家、郷土に功労のあった人々を崇敬するためのモニュメントとして、神霊を祀る神道独自の精神を著しく否定するものだった。神社局長のポストが任官待ちのポストで祝詞も古典も知らないような官吏が腰かけにするようなものであったところをみても、いかに当時の政府が神道に何の期待もしていなかったかがわかる。
こうした内務省の見解を批判したのが、東大の筧克彦教授である。「憲法は神道を国教とする精神的立場に立つ」との法理を展開し、「神道は宗教」と明確に断じた。また、葦津耕次郎は、植民地官僚が宗教心を解せず、朝鮮神宮などのように、新領土に神宮神社を建てて皇祖皇宗に対する崇敬の場とする事を、異民族の宗教的社会意識に反感を植えつけるものとして、古神道の本義に反すると批判した。植民地官僚の手法は西欧列強が植民地で、征服英雄の銅像や国王名の記念公園を作るのと同一心理であった。神道古典学の権威、今泉定助もこうした意見に賛同し、在野の思想家に影響を与えたものの、大戦中には警察によって講演録を発禁されるなどしている。
明治以来、日本では合理的科学主義の政府によって、科学思想を妨げる邪教迷信は禁圧されるのが当然とされ、当時の法学の権威者だった美濃部達吉博士なども、非合理迷信邪教の禁圧は、秩序維持のための文明国家の責務とし、新憲法時代になってもこの思想は変わらなかった。こうした法思想から、非科学的で迷信とされた宗教は片端から検挙された。新宗教が台頭できなかったのは、このためである。しかし古い寺社に関しては、その実績を鑑みて、合理化への注意にとどめた。真宗やキリスト教は神社を邪教迷信であると非難し、神社での祈願、神札の授与を宗教的行為だから禁止せよと政府に迫った。キリスト教の小崎弘道などは、教育勅語もキリスト教教理で解釈されるべきと主張し、天皇中心の国家でのキリスト教による政教一致を目論んだ。戦前のキリスト者は小崎のような主張が多数派で、米国のホルトムによる批判が、戦後のキリスト教の変革に影響を与えたとされる。いずれにせよ、昭和初期までは神社廃止を公言するような土壌があり、とても国家神道による他宗教迫害などの影は微塵もない。むしろ、知識人、マスコミ世論では神社が劣勢にあったとしても過言ではない状態だった。
黒龍会の内田良平は熱烈な神道者だったが、それは皇道大本の出口王仁三郎の影響を受けていた。出口は国家神道の反対者であって、政府の弾圧を受けたが、内田は皇道大本支援を続け、政府に抗議をした。内田の影響を受けた右翼人士は多く、在野の右翼の間での神道思想は、帝国政府の法令に基づく国家神道とは思想的な敵対関係にあったのは事実である。その後の血盟団、五・一五、神風連の各事件では神国思想を持つ参加者は、当時の帝国政府を「亡国政府」として決起したものであった。彼らは帝国政府の国家神道が世俗合理主義である事とは逆に、ファナティックな非合理主義への憧れが強烈であった。こうした在野神道に近い神国思想の台頭は、大東亜戦争が近づくにつれて、次第に国民の間に高まってゆく。大戦中にはアメリカでは神社寺院が封鎖され神主が投獄され、日本では外国系のキリスト教会や宣教師が圧迫された。これは宗教の問題というより、戦時中の軍事政策の色彩が強い。戦時にあって国家は自国防衛のために、敵国に直接間接に通牒する危険にある者を干渉するからだ。
文部省が編纂した「国体の本義」は仏教、神道、儒教的国体思想が扱われているが、キリスト教は無視されている。時の林銑十郎首相が在家仏教、反キリスト教団体の大道社に熱心であった事から、キリスト教関係者は、これを「国教的影響力」を持つものと警戒し、世界の同信者にアピールした。しかし「国体の本義」は神道家の間からも批判があり、もし政府が神道的国教化を進める意図があれば、神宮神社を所管する内務省が動く筈であるが、内務省は宗教家神道家を敬遠し続けた。官僚や権力者は以前からある宗教を助長したり圧迫したりはできるが、人間の内心に新しく宗教心は創造できない。靖国神社を例に取ると、日本の将兵の中に国家の危機に際して死を覚悟する者は少なくなかったが、それは「靖国の神になれるから」という代償的理由に基づくものではなく、それ以前のその人の人生観、国家観に基づくものである。そうした人生観や国家観の将兵が靖国神社を崇敬したのは当然だが、大多数の国民は将兵の「武運長久」を祈り、将兵も勝利を得て生還する事を希望したのは当然だ。ただ、やむなく非命に斃れた場合に、その死を悲しんで靖国神社に祭ったのだ。靖国神社の思想は「戦死を以て極楽往生の道」などというものでは決してない。生還を切望していたが、やむなく戦死した、その結果を悲しんで行われる靖国神社の祭りを逆立ちさせて解釈し、戦死させる目的を以て靖国神社の祭りが行われたかのように曲解するむきがあるのは極めて浅薄は敗戦日本人の論である。
何でも統制に動いた東條政権で、神道の雑多な思想教説を統一させるべく動いたが、神道界からの猛反発を受け、急遽、撤回してしまった事があった。その時、国家神道の最高行政機関である神祇院は、政府と神道界の思想論争への見解を一切、拒否し、非イデオロギーに徹した。これが明治以来の国家神道の真相である。しかし日本神道に知識のない外人には理解できず、国の危機に際して燃え上がった日本人の自然発生的な神道意識を恐ろしいものと考え、「国家神道」神祇院によるファナティックな神道宗教の指導によるものと誤認した。そこで神道指令で神祇院を廃止し、神社に圧力を加えたが、その後、事実誤認には気づいたふしがある。戦時中に最も戦時イデオロギーの強烈だった内務系官僚は、大半が強制追放されるべき証拠が挙がったが、「国家神道」の最高官、飯沼一省は最も思想穏和な行政官で、内務高官としては異例にも追放を免れたのみならず、現役のまま占領行政にあたった。占領軍は帝国政府の法令下にあった「国家神道」の神社と、「神社の外から」「神社を象徴」として、神社に結集してきた在野の国民に潜在する日本人の神国思想を取り違えていたのである。