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「我々」とは取りあえず対話を交わす仲間でいいと思います。
http://www.asyura2.com/0411/idletalk12/msg/506.html
投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 1 月 25 日 20:55:38:YdRawkln5F9XQ
 

(回答先: 我々とは何者か。 投稿者 如往 日時 2005 年 1 月 24 日 20:05:08)

如往さん、レスありがとうございます。

>我々とは何者か。
http://www.asyura2.com/0411/idletalk12/msg/501.html
>投稿者 如往 日時 2005 年 1 月 24 日 20:05:08:yYpAQC0AqSUqI

>(回答先: 我々の物語 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 1 月 23 日 21:44:27)

> ワヤクチャさん、レスをありがとうございます。

いいえ、こちらこそ。
面白くなってきました。

> 愚民党さん宛のレスでは、2年間ほどの交信を踏まえて話しを進めていますので、こ>れまでの経過をご存知ではない方には不明な部分が多々あるのは否めないと想われます>が、どうかご容赦いただきたく考えます。

奥が深そうですね。
楽しみです。

> 愚民党さんについてはgoogleを“愚民党”で検索するとご自身のHPにアクセスできる>と思います。

了解しました。
後で拝見いたします。

>HPに開示されているその生き様に触れることによって、私は愚民党さんと“68−
>70”の時代性を共有できるのではないかという確信に近い感覚を得ました。

「68〜70」は私にとっては憧れです。
1977年に大学に入った時には既にほとんど名残はありませんでした。
恐らく、そこに居合わせた方にとっては一生忘れられない出来事が多々あったかと
推察いたします。
若い時にそのような体験をされた方々は新しい思想を生み出したと思います。
その流れは確実に継承されております。
この阿修羅もその開花の1つでしょう。

>私の文書手習いなどが到底敵うはずもない愚民党さんの豊かな表現力や迫真の躍動感に>はおそらくワヤクチャさんも圧倒されるかも知れません。

楽しみです。

> 私自身に関しては、共通基盤設営や互いの理解促進のためにも、また一種の礼儀とし>てその都度必要に応じて、ご覧いただくのもお恥かしい限りの拙い身の上を吐露して来>ています。

いえいえ、ご謙遜だと思います。

> >我々の物語を書いていきたいですね。

> 現在我々が棲む世界は弱者と強者の対立関係や、あるいは労働者や資本家といった対>立軸を基調とする文脈では最早叙述できない状況に到っているのかも知れません。

「人間集団同士の対立として描く世界観が正しいのか?」という事が問われていると
思います。

>その中で、我々が我々自身の物語を紡いでいくためには、先ず我々とは何者か、すなわ>ち、民衆なのか、人民なのか、市民なのか、地球市民なのか、互いに自己確認する必要>があるでしょう。

今このスレッドに参加している如往さんと愚民党さんと私の3人が取りあえずの
具体的な「我々」の内容です。
この3人であればどのようなシナリオを求め実現していきたいのか?
という事で対話を進めていけばいいのでは無いでしょうか?
阿修羅内の「我々の物語を作る有志」という事でいいように思います。
シナリオに対して様々な批判もでるでしょう。
複数のシナリオになっていって、どれが一番現実的かつよりよいのか?という
事で対話をしていけばいいと思います。
そして、時間は進行し、結果が出てきます。
その結果を踏まえながらシナリオを修正していくのです。
世界中の人々と共にこのシナリオ作りができたらどんなに楽しいでしょう。
そして、それは可能です。

>また、新たな枠組みを設営するためのシミュレーションにおいても、我々とは何者かと>問い続けることは重要な心得であると思います。

取りあえずそれぞれが自分はどのような人間なのか?
を語ったらいいのかも知れませんねえ。

私はよりよき未来を作る為の運動システムを作ろうとしております。
ネットでそれは可能だと思っております。

 >SENKIとは、共産主義者同盟戦旗派の機関紙ですか?

> 愚民党さんが転載された田原牧氏へのインタヴュー記事はSENKI紙上に掲載されたも>のです。他にもブントのシンパでなくとも興味がひかれるコラムがあります。

はい。また、読むようにします。

> >>さて、私は、ユダヤ教やキリスト教の一神教的Contextにも、バラモン教や仏教>の多神教的Contextにも、人類の物語を紡ぐ縦糸の源泉を求めてその在り様を叙述する>ことは不可能ではないかと考えています。

> >人類の物語の出発点になれないという感じですか?

> それ等が結局は神話という横糸的性質を克服できていないからです。神話においては>それ以上起源に遡行しないという点では思考停止の産物に外なりません。

神話は出発点であり、その神話が発生した原因の追求は無いという事ですかね?
そういう意味では思考停止かも知れません。
私には神話は人間の物の考え方のパターンを示したもののように思います。
様々な因果についてのサンプルの提供のような意味です。
人類が奢り高ぶって物質文明に享楽したら神が怒って災難をもたらすという
ような罪と罰との因果関係などです。
「9.11」は最初アメリカ文明に対する天罰が下ったのか?
と私は捉えました。
ちょうど「バベルの塔」の崩壊のように。
しかし、実際には神とはアメリカ政府であったようですな。
話がそれました。

> >>無論、世界には一神教的Contextがメイン・ストリームであるとの主張や、また>日本にはそれを凌駕しようと模索する皇国史観等の思潮があることは十分承知していま>す。けれども、この論拠を一言で述べるのは大へんな困難さを覚えています。
> >「この論拠」とは「一神教が人類の物語の源泉にはなれない」という事の論拠の事>でしょうか?

> 「一神教や多神教や皇国史観等の宗教観は人類の物語の淵源(縦糸)を正確に把捉す>るものではない」と判断するに至った経緯及び根拠を詳述するために現状は準備する時>間が不足していることの言い訳です。(申し訳ない。)

では、人類の物語の縦糸とは何でしょう?
民主主義の発展では無さそうですね。
自由の発展でも無さそうです。
というかそもそもそのような縦糸が存在し得るのか?
という事が問題ですね。
人類の歴史が様々な運動の実現として動いてきた事は事実でしょう。
しかし、その運動とは何であったのか?という事です。
例えば、国家間の弱肉強食という物語はうわべだけの八百長のように見えるのです。
では、階級闘争か?
フランス革命は階級闘争のように見えました。
しかし、現在は労働者階級は階級として成り立っているのか
という事が問題になります。
これは、労働者階級として自分の事を意識している人がどれだけいるのか
という問題でもあります。

> >>どこに当事者能力を有する者達がいて、またどのように当事者意識を喚起すべき>か、答えはなかなか見つ かりません。

歴史を推進する当事者能力ですか?
全ての人が歴史に関わっていると思います。
それぞれの人が世界をどう感じてどう持っていこうとするのか?
という事が全てだと思います。

> >我々がなっていくしかないのではありませんか?そういう問題意識を持つ者がなる>しかないでしょう。

> 我々とは何者かを措定し検証し確認していくことによって当事者意識を共有すること>が可能になるのではないでしょうか。

例えば、如往さんと私はどのような世界観を共有する事ができるのか?
という事が問われます。
世界観についての共通認識が得られれば得られるほど行動も共にできるでしょう。
その為に世界観についての対話を重ねなければなりません。

>同時に、我々は問題解決の当事者能力を獲得していくための契機を得ることになると考>えます。

恐らく、それは能力の問題では無いと考えます。
対話を通じて得られた共通認識はテキストとして自動的に世界を動かしていくと
考えます。

> >疎外論は大事でしょうね。労働が「疎外された労働」になっている事が一番問題だ>と思います。即ち商品生産(利潤追求)としての労働という事が一番問題でしょう。

> それ以前に、特に日本の多くの労働者が疎外の状況を自覚していないこと、

そうですね。

>したがって労働者自身が「疎外された労働」という問題を解決していく当事者であるの>にも拘わらず、当事者意識が総体的に希薄になりつつある実情があります。

生きて行く為には面白くも無い商品生産を続けるのはやむを得ない
という感じがあると思います。
我々は、農作業と収穫祭など「疎外されない労働」を対置していくべきでしょう。
愚民党さんがされている舞踏や演劇なども「疎外されない労働」の1つかと思います。
やりたい事をやればそれが人の為にもなっている
あるいは、人の為になる事が同時に楽しい事であるような労働をやっていくべきでしょう。
そのような労働を作るNPOを作って行きましょう。

>また、労働者が労働者意識を抜け切れないことは、商品生産(利潤追求)に完全に組み>込まれていることを物語るものであると思います。

そうですね。
労働者とは時間を売る存在だとするならば、労働の結果に対しては労働者の意志は
何等反映されない事になります。
しかし、そのような契約に基づく労働であってもその中で人間関係を構築できる
ような労働ができるならば単なる商品生産以上のものがあるのかも知れません。
サービス業で職業的な笑顔を作っている段階から、本当に客の事が好きだから
心を込めてサービスをするという段階になれば、賃労働を通じて人間関係の形成も
できるでしょう。
生協の配達員が組合員と友達になるような事がそれです。
その関係の中から色々なものが生み出されてくるならばその配達員の配達という仕事
は「疎外された労働」では無くなってくるのです。

> 「我々とは何者か」の問いは私にとって「変革を推進すべきDriving forceとは何>>か」とイコールの関係にあります。

Driving force とは何ですか?

>『我々』を構成するものが、歴史的・追想的には、つまり狭義では同時代性と言って>>もよいかも知れませんが、それでは我々の末来(地球>像)に向かっての問題解決の主>体を見い出せないでしょう。

問題解決の主体はまず問題意識として人の心に発生したものであると考えます。
問題意識が生まれたという事は問題解決が始まったという事です。

> 日本人である特徴は私の属性の一部分を表わしているものですが、何ら私の本質を規>定するものではありません。

それはそうでしょう。
第一「日本人とは何か?」が問われなければなりません。
日本人には、取りあえず「日本国籍を持つ者」以上の意味はありません。
「日本国籍を持つ者」がいかなる歴史の上に自己を成立させているかを
考えなければなりません。
また、一人一人の人間は、こうして語られる一般的「日本人」像とは別に
生まれてからの個人史を持っているわけで、日本人というよりもこの個人史の
方がはるかにその人を語る上で重要でしょう。

>「私が人間に生まれたのは必然である。しかしフランス人に生まれたのは偶然に過ぎな>い。」と、ロマン・ロランは語っています。

いや、これは言いたい気持ちは分かりますが、ちょっとおかしい気がします。
私が日本人に生まれたのは両親共が日本人だったという必然があったと思うからです。
それが偶然と言うのであれば、人間に生まれた事も偶然と言わねばなりますまい。
ロマン・ロランはフランス人よりも普遍的人類の一員であるという自己意識の
事を強調したかったのでしょうが。

>これを私流に変換しますと、「私が人間に生まれたのは一つの宿命である。しかし日本>人に生まれたのはある種運命に過ぎない。」となります。

宿命という言葉を運命よりも強い意味に使われているわけですね。

>人類がそれぞれの運命(歴史過程)が相違するという理由によって、地球という >>>Matrix において引き受けるべき宿命を分別することなどできない、そうした時代が到>来していると思うのです。

つまり、地球人として生きよ!という事でしょうか?
賛成です。
自らのアイデンティティを日本人である前に地球人として意識すべきでしょうね。
明治維新で日本人が藩よりも日本を自分のアイデンティティとして意識していった
ように。

> また、会いましょう。

ではでは。

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