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Kは思うのだが、人間には2種類の人がいる。
「自分の欲望の実現を生きる糧とする人」と「自分の存在価値に生きる喜びを見いだす人」である。ただし、程度の差はあっても人はその両方を併せ持っているのであろう。
両者はどこが違うのだろう?
「自分の欲望の実現を生きる糧とする人」は基本的には「個人主義者」である。一般的に能力が高く、知能も高く、世渡りが巧いとか、「他人への感謝」と云う意識が希薄という特徴がある。「自信家で自己中心的な人」と言い換える事ができるだろう。
祖国を捨て、他人の国を滅ぼして建国されたような国の住人は、その様な遺伝子を持つ血を引いているのかもしれない。
「自分の存在価値に生きる価値を見いだす人」は自分の欲望より「他人の笑顔を重視する人」が多い、「献身」とか「無償の愛」等と表現される行為を好むのである。
特徴とすると、責任感が非常に強く、自分の不利益に無頓着で、合理的考察が苦手で、自己主張をする事が苦手な人が多い。集団の中に自分の存在意義を見いだすので「集団の中で歯車になる人」と言い換えられるかもしれない。
基本的には後者の方が良い人になるのかもしれないが、後者は「その集団に何の進歩ももたらさない」。自分の不利益は後任者にもそのまま引き継がれる事を考察していない。「不平を言わずによく働く人」と云う評価を最大の美徳と信じているフシもある。
ここまでで、両者の区別がまだ分かりにくいかもしれないので2つ程、例を示しておこう。前者と後者の違いは
1 美味しい食べ物を得た時、一人で全て食べようと考える人 と 自分より自分の愛する人に食べさせたいと考える人の違いであり
2 結婚する時に、この女性は「俺の所有になった」と考えるか、この「女性を幸せにしなければならない」と考えるかの違いである。
勿論、例は極端であるが、程度の差はあれ、人間の考えは相反する二極の中でバランスを取って思考されている。普通ならば、美味しい食べ物が10個あれば一個づつくらいは「仲間に分け与える」とか「家族に持って帰る」のが「人」である(人と言う字は1が支え合っているから人なので支え合おうとしないのは人ではありません)
ところが、最近は美味し物が何個あっても「あれば、あるだけ、自分の物」
結婚は「伴侶を得る」為ではなく「自分を飾るべくアイテムを得る」として行う。と云う人も相当数いると思われる。
弱い者を見ると「可哀想」と感じるのではなく「蔑みの感情」を持ち、自分の目の届かない所へ追い払おうとすら感じるようである。
そのような方向へ日本を誘導しているのが「小泉政権」であり、「アメリカ盲信思想」である。
今回、時代を象徴する出来事が2つあった。一つは「NHK特集問題」である。前スレッドで書いたので多くは触れないが、この問題の本質は「企業、国」がアメリカを盲信するならば「労働者」もアメリカ型の思考にならなければいけないのだが、依然として「上部批判は御法度」的思想が蔓延していて、コンプライアンス(法令遵守)が「労働者への一方的な不利益」として広まっていて。企業が労働者へとか国が国民へとかジャーナリズムが視聴者へとかの視点では全く捉えられていない事を「内部告発」という形で表された「現場労働者の意見の主張」である。
安倍氏、中川氏が(事件が本当ならば)「自己責任において」失脚するのは、彼等が誘導している社会体制を考えれば当然としても、それすらも小さなオマケでしかないだろう。
最大の問題は「集団主義」と「個人主義」のバランス問題である。集団が個人を見捨てようとしているならば、個人も集団に見限らなければならないのである。K的には「それも問題だが」(Kの主張は日本には日本のやり方があり、それは「集団主義を基本に」である)それを行わなければ、集団や国が労働者を「言いなりになる駒」としか認識せず、人権も労働時間も無視して良いようにやり続けてしまうのである。
もう一つの事件が「青色LED和解問題」である。中村教授は「アメリカならば、もっと多額の支払い請求命令が出る」と云う。確かにそうであろう。しかしドイツならば「数千万円しか支払い命令は出ない」との意見もあり。多分、それも正しいのだろう(ドイツではかなり細かく法律に定められているらしい)
それが、祖国で土地を守り、地域・集団を大切にするか?、祖国を捨て、個人主義において立身出世を目指すか?の違いの表れとも云える。
一般的に科学者と云うのは「学者バカ」が多く、実験する環境とか設備が十分ならば「金銭的な事にはあまり不平を言わない」のだが、中村教授は現代の世相を反映して「世俗的な事にも自分の主張をハッキリと表現できる」優秀な人と云えるだろう。
それも、「小泉政府」の個人主義への啓蒙の賜物なのかもしれないが、企業が一方的に労働者から詐取するという事への問題提起として大きな意味があるだろう。
ただし、Kは「個人主義」に振れすぎるのを良しとは思わない。集団は個人を守り、個人は集団の中に自分の存在意義を見いだして集団の為に努力する。
それが、日本的なやり方だろうとは思う。
今回の2つの出来事から「もう一度、真剣に考えるべき」だとKは思うのだが、日本はこのまま「個人と集団・企業(夫と妻や家族なども含む)は単純にビジネスとしての付き合いというドライな関係」に突っ走るべきなのか?
「集団の中で助け合い、励まし合って、他の人達と共生」していく社会が望ましいのか?を・・・
前者を目指すならば「人は狡猾な合理主義者」に成れなければ「落伍者」になるだろう。果てしない訴訟社会の到来になる事も予想される。「失敗すれば破滅」「失敗しなくても運が悪ければ(犯罪等に巻き込まれたりして)破滅」
労働者には、今が最後のチャンスかもしれない。「キチンと自己主張をしよう」「不当労働行為を内部告発しよう」「不払い残業には(企業の不利益に関係なく)ケジメを付けよう」
今、権利の主張をしなければ、日本の悪循環は悪化するのである。レジにいる職員さんは「(本来ならば)お客様が並んでいても時間が来たら作業を中止するべきである(無理だとは思うが)」
そうしなければ、他の人も同じ苦しみを受けるのである。
「不平を言わない働き者」は「他の労働者に取っては資本家の犬」である。その行為を美徳と思うのは「妄想」であり、過去の日本が教育の中で擦り込んだ「呪い」である。(呪いでも企業が職員を守るのは義務と云う呪いと対ならば「持ちつ持たれつ」である)
最後にもう一つだけ問題提起をして、冬眠に戻りたい。
人には2種類のタイプがある。
第一のタイプは、その職場で自分が苦労したした時に「自分が苦労したのだから後任者には同じか、更に厳しい苦労をさせたい」と思う人である。
その様な人は「他人の不幸は我が身の幸せ」と思い。ワガママでクレーマー(何にでもクレームを付ける)も多いようである。基本的には自分の権利は声高々に主張するが、他人の権利は全く無視するし、自分の義務は考察すらしようとしない傾向が強いようである。
と
第二のタイプは「この苦労は、何とか自分を最後に食い止めたい(終わりにしたい)」と思うタイプである。
実はこのタイプも行動的には上記のクレーマーと同様な傾向が起こりえるのである。ただし、決定的に違うのは「第一のタイプは旅先とか相手が公務員などで自分がクレームを付けてもあまり今後の自分に不利益とならない時に異常に強い」のだが、第二タイプの場合「自分の不利益になるかもしれない場合でも正義感からクレームを付け、改善の為に行動する点である。
ここには一つの問題がある。それは第2のタイプは上部に煙たがられ出世出来ないので「第2のタイプが主流になる事は極めて少ない点」である。
実は第3のタイプもある「何も考えようとしない人」である。でも省略です。
さて、この問題点を考えてほしい、第一のタイプが広がるならば「日本に未来など無いだろう。」
だが、現行の社会体制では第1のタイプが出世して主流になるのである。
「正直者が馬鹿を見る」社会しか予想出来ないのである。
そこを何とかしていかなければ、日本は決して良くならないだろう。
安倍氏や中川氏を失脚させた所で大勢は何も変化しない。
今こそ「国」「企業」「個人」の義務と権利について本気で考察すべきである。今が最後のチャンスかもしれない。その問題は「政治スキャンダルを超えて重要課題である」
では、冬眠に戻ります。
以上ブログ「Kのつぶやき」より転載
Kは誤字脱字の帝王であり、気まぐれなので、かなりの訂正、手直しがある事もあります。
http://kdesu.ameblo.jp/
では、若干の修正と説明の補足などがされているかもしれません。
また、Kの駄文はご自由にご利用されて下さってかまいません。(面倒をKに振る事がなければです。)