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困窮、岸田劉生…お金 必死に工面 大阪で手紙発見
自分の絵 分割でいいから買ってほしい
『麗子像』などで知られる近代日本の代表的洋画家、岸田劉生(一八九一−一九二九年)が、関東大震災で避難していた京都から大阪の知人にあてた手紙が二十七日までに、大阪市内の古書店で見つかった。自分の絵を分割でもいいから買ってほしいという切羽詰まった内容で、困窮ぶりがひしひしと伝わってくる。当時、関西には多くの文化人が震災を逃れて移り住んでおり、彼らの被災生活を知る貴重な資料だ。
手紙は、大阪府東成郡田辺町(現・大阪市東住吉区)の久米利助という人物にあてたもので、大正十二年十月二十一日付、京都・聖護院局の消印が押されている。
内容は「この前、春陽会に出した椿花篭の図(五百円)をもしよろしかったら二度払い位にてとって頂けませんか、今二百円、来年の正月頃あと三百円で」と、自作を分割払いで買い取ってくれないかと、申し入れている。
後半では、自分の絵を買ってもらえない場合、自ら収集している葛飾北斎の浮世絵の購入についても打診。「北斎の富士三十六景の中十五、六枚、その中一枚二百余円のものあり。(中略)それらをまとめて五百円に」などと書いている。
大正末の物価は、冷蔵庫約三十円、自転車約七十円、新聞の月決め購読料が一円の時代で、五百円は相当な金額になる。
『劉生日記』によると、結局、この手紙の相手である久米利助は十月二十九日に劉生宅を訪れ、「麗子像」の素描を百円で購入しただけだった。
関東大震災は大正十二(一九二三)年九月一日に発生、家屋の焼失などで死者・行方不明者約十四万人の被害が出、都市機能もマヒした。このため作家の谷崎潤一郎や直木三十五らが関西に避難した。
当時、劉生は、神奈川・鵠沼(くげぬま)(現・藤沢市)に住んでいたが自宅が半壊し、名古屋を経て、十月三日に京都・南禅寺に転居。翌日、志賀直哉のところに借金を申し込みに行ったが断られている。
岸田劉生の京都時代に詳しい高知県立美術館の篠雅廣館長は「劉生は着の身着のままで逃げてきたうえ、関東に住んでいたときから古美術の趣味があり、東洋画や浮世絵など相当高価なものをずいぶん購入していた。こうしたいろいろな要因が重なって、当時はかなりお金には困っていたのだろう。手紙には、お金を工面するときの劉生の細やかな性格などもうかがえ、価値のある資料」と話している。
■岸田劉生(きしだ・りゅうせい) ジャーナリスト、岸田吟香(ぎんこう)の4男として東京で生まれる。武者小路実篤と知り合い、柳宗悦、バーナード・リーチら『白樺』同人と交流。大正7(1918)年、長女の麗子をモデルにした制作を始めた。昭和4(1929)年、満州(現・中国東北部)旅行の帰途、山口県徳山で病に倒れ、急逝した。代表作には『麗子微笑』(東京国立博物館)、『切通しの写生』(東京国立近代美術館)がある。いずれも重要文化財。
http://www.sankei.co.jp/news/evening/28iti002.htm