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第67題単一民族国家と差別
「日本は単一民族国家ではなく、多民族国家であることを認めねばならない。そうあってこそ民族差別はなくなるというものだ。単一民族幻想こそが民族差別なのだ。」
これはある在日朝鮮人活動家の方(梁泰昊氏)の言葉で、私に直接投げかけたものである。
日本は単一民族国家か多民族国家か。歴史的に見ると、日本国民の大部分を占める大和民族以外には、その歴史・文化・伝統・言語を異にする沖縄の人やアイヌの人々がいる。またかつての植民地支配の結果、国内には朝鮮や台湾の人々がいる。こういった事実をもって多民族国家だと言うのなら確かにそうである。しかしそれを認めたからといって民族差別問題が解消に向かうものかどうか。
世界で多民族国家はたくさんあるが、そのほとんどすべてと言っていいほど民族問題を抱えている。その国家の指導者は国内の複数民族の融和に気を使っている。具体的には民族よりも国民意識を持たせようとしているのである。それが成功しなければ、その国家は複数民族間で血みどろの闘いを繰り返し、ついには分裂・解体するしかない。それは旧ユーゴスラビアの例にみるように、多くの人々の不幸を招く。多民族国家の大変さを知るべきであろう。日本は多民族国家だと主張には、言葉の使い方の安易さを感じる。
単一民族幻想こそが民族差別であるというのなら、日本以上に単一民族感情の強い韓国・北朝鮮においては、その民族差別はさぞ厳しいものだろうと思ってしまう。九二年五月のロサンゼルス暴動でコリアンタウンが黒人やヒスパニックに襲撃された事件について、この原因の一つに朝鮮民族の人種差別主義があるという論考が見られたが(呉善花、鄭大均、野村進など)、当たっているかもしれない。
(追記)
以上は拙著『「民族差別と闘う」には疑問がある』(1993)の一節の再録。一部改変。
標記の梁氏の考えは、当時かなり普遍的に語られたものです。例えば歴史家の朴慶植氏は「日本には、いわゆる単一民族的思考方式が支配的で、他民族の平等な存在を認めまいとする。」(『解放後在日朝鮮人運動史』三一書房1989 14頁)と言っておられます。
私はこういった考え方には無理があると言いたかったのですが、読み返すと論理飛躍していて明快ではなく、分かりにくいものです。今は冷や汗をかくしかありません。
(参考資料)
韓国の単一民族性について、文化人類学の伊藤亜人さんが下記のように的確に指摘されておられます。「文化人類学から見た朝鮮学の展望」(『朝鮮学報』第156輯 平成7年7月)4〜6頁。
「今日見る限りでは、強い民族意識と文化の均質性とは韓国社会を特色づけるものであることはまず間違いない。その点をもっと分かりやすく言えば、韓国は世界でも極めて稀な単一民族国家であるといえる。というより、他には類例が思い当たらない。つまり、これだけの規模の人口を擁しながら、少数民族集団の存在がこれほど知られていない社会は無いといってもよい。強いて挙げるならば中国人華僑が存在するが、それも近年では華僑学校が存続している以外にはその存在すらも目を引かないようになっている。‥‥国際的にも国家との関連で少数民族の地位が関心を呼んでいる中で、今日の韓国ではこの唯一の少数民族集団についてその存在すらもほぼ無視されているといってよい