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『人はなぜ戦うのか−−考古学から見た戦争』講談社選書メチエ213、松本武彦
* この本は、主として弥生時代の戦争の形態の変化を考古資料によって検証したものです。日本人は弥生文化を受け容れた縄文人である、という視点で読めば縄文人としての視点、弥生人としての視点、現代日本人としての視点への理解が深まるでしょう。推薦図書。
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p.9
個人の攻撃本能と戦争とは別のもの
・・この本で問題とする集団間の戦い、ないし戦争というものは、個人の行為ではなく、社会的な集団がひとつの意思と目的とをもっておこなうものだ。そこでは、戦いに参加する各個人に対する共通の敵を設定し、それへの攻撃意思を統一し、全体として、社会の思想や規範のなかにその戦いを意味あるものとして位置づけるための、社会的な操作が必要になる。このような意味で、集団どうしの戦いは、ケンカや殺人など個人の攻撃行為とは、別次元の問題といえるだろう。そうしたなかで本能が果たす役割は、ますます微小なものと捉えざるをえない。
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p.10
戦いの考古学的証拠(抄)
1 殺人用の武器
2 防御施設
3 武器によって殺されたり、傷つけられた人の遺骸
4 武具をそなえた墓
5 武器崇拝
6 戦いをあらわした芸術作品
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p.12
農耕と戦争
・・佐原氏によると、いま述べたような戦争の証拠は、世界のどの地域でも、農耕社会が成立したのちに現れるという。ただし、佐原氏も認めているように、小数の例外はある。・・
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p.15
たくさんの食料源をもった狩猟・採集の社会なら、その内の一つ二つがだめになっても、他の食料源でおぎなうことができる。しかし、・・たとえば、縄文人の胃袋を満たしていたドングリ類が実っていた森林を、弥生人が切り払って水田にした。かつてはみんなが知っていた狩りや漁労のノウハウも、限られたものになっただろう。もとへ戻ろうとしても、自然や社会の姿を大きく変えてしまった後では、もう無理なのだ。
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p.15
なぜ戦争は農耕社会に多いか
(興味深いが省略)
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p.17
戦争を拒んだ縄文人?
以上、生産や生活のありようが、経済的なベースの部分において、戦争の発生に深くかかわっていることをみてきた。しかし、そうした生産面・生活面の条件がそろっていても戦争が発動されない社会もあるし、その逆もある。「例外」として注意されてこなかったこのような事実への注目によって、これまでとは違った視点から戦争の発生を理解することが可能になるだろう。
たとえば、日本列島の縄文時代の場合、その中頃から後半にかけて本州東半分の社会は、単一ではないが特定の食糧を大量に生産し、多くの人口をかかえ、本格的な定住を行ってきた。青森県の山内丸山遺跡などの大集落の存在がしめすとおりである。また、道具や利器で傷つけられた人骨の例も、縄文社会では10例ほどは知られているので、個人的な攻撃の行為はけっして希ではなかったようだ。こうした条件のもとでは、集団どうしの戦争が行われても、なんら不思議ではない。
しかし、考古資料から判断するかぎり、縄文社会には戦争は行われなかった。・・戦争の存在を物語るほかの証拠はほとんどない。縄文社会が、弥生社会とくらべてはるかに戦争と縁遠かったことは確かだ。
近年、筑波大学のマーク・ハドソン氏は、縄文文化について興味深いみかたをしめしている。大陸ではすでに紀元前6000年頃から農耕が行われており、そことの接触があったにもかかわらず、縄文の人々は本格的な農耕に数千年間も手を染めようとはしなかったことに、ハドソン氏は注目する。そして、そこに縄文社会側のイデオロギー的な「抵抗」があったのではないかと考えたのである。
ハドソン氏のこの考えかたは。戦争についても当てはまるかもしれない。大陸では、縄文時代の中頃に当たる紀元前5000〜前4000年には戦争が始まり、縄文時代のおしまい頃には、中国は戦国の動乱のまっただ中だ。さらに、その余波がかなり早くから朝鮮半島にまで迫っていることも考古資料から確かだが、縄文社会はそれを受けつけた気配がないのである。つぎの章で述べるように、本格的な稲作農耕と戦争とは、当時の東アジアの地域では、一つの文化を構成するセットをなしていた可能性が考えられる。だとすると、固有の伝統を守りつづける傾向が強かった縄文の人々が稲作農耕を「拒絶」したことが、それと表裏の関係にあった戦争の導入をもはばむ結果につながったのではないか、という想定が浮かび上がってくる。
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p.19
戦争発動における「思想」の役割
(省略、主として弥生時代の経済と思想と戦争との関係への序文になっている)
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