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(回答先: 人類の課題としての『βプロトコル』(1) 投稿者 たけ(tk) 日時 2005 年 3 月 06 日 16:33:41)
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http://www.osk.3web.ne.jp/~asterope/solomon.html
モラルに制約された政治家は、政治家失格である。そんなことでとても権力の座は維持出来ない。政治家たるものすべからく策謀と偽善を用いなければならない。民衆にあっては美徳とされる誠実や率直さは、政治においてはむしろ罪悪である。どうしてかと言えば、こうした徳目は最強の政敵よりも一層確実に政権を転覆させてしまうからである。これらの道徳はα国人の特徴であってもよいが、我々β国人は決してこれを学んではならない。
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http://www.asyura2.com/data001.htm
リベラルな考えをもっている人が、上述のような考えを不道徳であると言うならば、私は次の問いを投げ返したい−−どの国も両面の敵をもっているとする。
外敵にはあらゆる策略を用い、たとえば敵には攻撃防御計画を伏せておき、夜間奇襲あるいは圧倒的優勢な戦力で撃破しても不道徳ではないとされるならば、さらに悪質な敵、社会と福利の破壊者に対して同じ方法を用いることが、いかなる理由で不道徳かつ許しがたいと呼ばれなければならないのか?
・・・
政治は、道徳とは全く関係がない。
道徳で統治する支配者は練達の政治家ではないから、彼の王座は動揺する。
支配したいと思う者は−−われわれが所有する新聞に感謝する−−気付かれぬように欺瞞と偽善との双方を用いなければならない。
率直とか正直とかのような、偉大な国民資質と称されるものは、政治にとっては悪徳である。
それらは支配者を王座から転がり落とすのに効果あるもの、最も強力な敵よりも確実な破壊力をもつものなのである。
そのような資質は、α王国の属性でなければならないが、われわれは決してかれらの轍を踏んではならない。
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ここに示されている考えは、戦争状態にある国の戦争の論理だろう。孫子の『兵は詭道なり』という騙しあいの精神だ。
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戦争は騙しあいである(兵者、詭道也)。
従って、能力があればこれが無いように見せかけ(故能而示之不能)、物資があれば無いように見せかけ(用而示之不用)、
近ければ遠いように見せかけ(近而示之遠)、
遠ければ近いように見せかける(遠而示之近)。
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しかし、孫子はこのような戦争状態での「政治」を常態であるとは見ていない。戦争は、できるだけ避け、やるとしてもできるだけ短期で決着を着けるべきだとする。
孫子が指摘している弊害は、経済的なモノだが、戦争指導者の「騙しあいのモラル」が国民に与える弊害もある。
国民は指導者の態度をまねしてしまうのである。したがって、指導者が「騙しあいのモラル」を実践すれば、国民もまた「騙しあいのモラル」に染まってしまう。
おそらく、プロトコルの作者は、それでよし、としているのだろう。国民と権力者との間の騙しあいの政治だ。だから「新聞」への感謝が出てくるのだ。
しかし、このような騙しあいの政治は、β国民にとっても、敵への恐怖がない限り、堪えられないだろう。敵からの恐怖が感じられなくなれば、騙されたβ国民の怒りは、β国の権力者に向かうからである。
それゆえに、β国の権力者は、たえず、α国からβ国民に向けられた暴力を挑発し続けなければならない。そして、マスコミによってβ国民の恐怖心を煽っていかなければならない。
その仕組みをβ国民に「気付かれぬように欺瞞と偽善との双方を用いなければならない」のである。
α国民はどう対処すべきか?
おそらくは、β国民にその仕組みをわからせることだろう。もちろん、その前に、α国民の全体にも、その仕組みを理解してもらうように努力する必要がある。