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(回答先: 『βプロトコル』(3)法律の本質は暴力である、か? 投稿者 たけ(tk) 日時 2005 年 3 月 06 日 21:45:29)
たけ(tk)さん、ありがとうございます。
法は人民管理の手段であると同時に権力に対する制御でもあります。
権力が法に違反した場合は権力を罰する権利が人民にあるのです。
法をめぐってこそ民主主義は達成できると思います。
日本国民はまだまだ政治に参加しておりません。
受身です。
もっと法の制定や政策について意見を言う習慣を身に付けなくてはなりません。
>『βプロトコル』(3)法律の本質は暴力である、か?
その通りです。
法を破った時に罰せられるという事は暴力であるのです。
>http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/543.html
>投稿者 たけ(tk) 日時 2005 年 3 月 06 日 21:45:29: SjhUwzSd1dsNg
>(回答先: 人類の課題としての『βプロトコル』(1) 投稿者 たけ(tk) 日時 2005 >年 3 月 06 日 16:33:41)
>----
>http://www.osk.3web.ne.jp/~asterope/solomon.html
>人類社会を形成した原始のころには、荒々しい暴力に服したし、その後には法律に従>うようになった。だがこの法律にしたところで、所詮仮面をかぶった暴力に他ならな>いではないか。
そうです。
十戒を破れば神に罰せられるのです。
>こうした自然の法則から推して、正義は力であると言ってよいであろう。
>----
正義は力を持たなくては正義として機能しないという事です。
しかし、逆に「力こそ正義である。」という考えは間違いです。
ブッシュやネオコンはこの逆転をやっているのです。
世界の保安官が正義だと言っているのです。
「アメリカの自由」が正義だという話です。
>----
>http://www.asyura2.com/data001.htm
> 社会の仕組みが始まった頃には、かれらは残忍で盲目的な力に服した。後には、法
>律に服した。法律も同じく力であり、仮面をつけた暴力に過ぎない。私は、自然法則
>に従って、権利は力の中に横たわっていると結論する。
----
権利は力を持たなくては権利として機能しないという事です。
権利獲得の為に闘争が必要だったのです。
>この指摘はある意味では正しい。法律というのは国家権力という暴力装置によって強>制される規範だからである。
>しかし、暴力と規範とでは異なる。むしろ正反対である。法律というモノは暴力と規>範という正反対のものを内蔵する矛盾に満ちた存在である。
法律の中には最低限守らねばならなものと努力目標の2つがあります。
最低限守らねばならないものを破れば罰せられ、努力目標はお題目化します。
日本国憲法の前文はお題目化の攻撃に晒されてきて今日の見るむ無残な現状があるのです。
我々は努力目標を明示した上でこの努力目標を達成する為の法整備をしていかなければなりません。
>規範は内容の公正と適用の公平によって人々が、他人の行動や自分の行動の結果の予>測することを可能にする。その予測可能性を前提にして、人々が自分の判断で行動で>きるようにするモノである。権力がそのような規範を維持するとき、人々は「権力の>正当性」を承認するようになる。
権力は努力目標をなるべく低く設定し直す様に動きます。
権力のフリーハンドを確保する為にです。
国民はこのような権力のサボタージュを批判しなければなりません。
>それに対して権力による暴力は、人々に不安を与え、予測可能性を奪い、人々の行動>を萎縮させるモノである。
ビラまき弾圧などがそれですね。
>法律が暴力であるということには別の意味がある。法律が権力の道具として利用され>る時、またその権力が暴力的である時、法律もまた暴力のための装置となる。これを>形式的法治主義という。「国王は悪をなしえず」という考え方だ。
>これに対して、権力が法的に規制されなければならない、という思想を、実質的法治>主義、法の支配とか立憲主義とかいう。《人が人であるが故に守られなければならな>い利益》があり、権力はそれを犯してはならないという思想を人権主義という。これ>も権力への制約だ。国民が為政者の定めた法に制約されるのと同様に、為政者も国民>が定めた法や道理に基づく法に制約されなければならない、という考え方である。
これが正しい考え方です。
>それとは別に、法律を暴力装置として使ったのでは、政治がうまくいかない。したが>って、法律を暴力装置として使ってはいけない、という考え方もあるだろう。これを>謙抑的法治主義とでもよんでおこうか。東洋的な徳治主知。
これは無理です。
法は暴力の後ろ盾がなければ誰も守りません。
法は性悪説に基づくものです。
>(1)このプロトコルの作者は法律をひどく嫌っているようである。
フリーハンドを残しておきたいからです。
職場でも書類で指示を出さずに口頭だけで命令する上司がいまでしょ?
口頭だったら「そんな指示を出した覚えは無い。」と逃げられるからです。
同じ事です。
>後段をみると族>長的専制支配を理想としているらしい。「主権在神といった考え>>方」なのかもしれない。法律を使わないでどうやって秩序を維持するかというと、法>というよりは「官憲に対する服従」による秩序維持、検閲による思想統制、秘密警察>による「見えない護衛」によって維持されると考えているようである。ここで語られ>ているのはβ国がα国を支配した後の支配体制のことなので、本心からそう思っている>ということだ。
文章化されず権力者の胸先三寸で政治が決定されればみんな権力者顔色を伺うようになるでしょう。
これこそが権力者が一番楽な統治形態です。
法治主義はこれに対する批判なのです。
>(2)「主権在神」のもとでの恐怖支配ということは、本当に実現可能なのだろう>>か? あり得ないとお思いかもしれないが、かつてはあったと言われている。
神の代弁者と称する者が絶大な権力を握ったのです。
卑弥呼もそれでしょう。
王権神授説とかですね。
>この文章の作者は古代エジプトのファラオの王政を夢見ているのだろう。それを実現>可能にするためには、β国の国民も家畜状態、奴隷状態にならなければならない。そん>なことはあり得ない? 否、あり得るのである。人は奴隷にでも家畜にでもなりうる>動物なのだ。
権力によって法が蹂躙される事に抵抗できなかったらそうなります。
自衛隊のイラク派兵はその突破口なのです。
>* 五年前に「ウシの管理のために埋めこみチップが使われているらしい。人間にも>そのうち使われるようになるよ」と言ったらせせら笑われたモノだ。
今は「そういう事もあるかも知れない。」と多くの人が思っているでしょう。
住民基本台帳ネットがその布石ですね。
>(3)このような反法律主義の傾向は、現代社会にあるか? 小泉氏やブッシュ氏の>法律の使い方、適用の仕方をみると思想統制のための口実として「法律」が活用され>ているようには見えないだろうか? 公平な適用も、公正な内容もひったくれもな>>い、形式だけの「法律」を暴力装置として利用しているようには見えないだろうか?
あるかも知れません。
>(4)α国の人民としては、このような反法律主義(形式的法治主義)の傾向に対し>>て、どのような対策を講じればよいのであろうか?
法律を権力が破っていないかを監視すると共にさらに権力が守るべき法律を日本国民側から提案していくべきでしょう。
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参考:
>※1:「国王は悪をなしえず」
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>http://www.kyoto-su.ac.jp/~kazyoshi/constitution/kaisetsu/kokubai.html
>歴史的には、国家が公権力を行使するにあたって、およそ「違法」ということはあり>えない(「国王は悪をなしえず」という法諺がイギリスにはある)ので、公権力が責>任を負うことはない、とする考え方があった(「公権力無責任の法理」という)。
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権力は超法規的存在であるという事ですね。
>※2:「主権在神」
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http://www.gs-itochu.com/normal/1/columns/1_23.html
>1. 憲法というものがないイスラエルの政治制度
>イスラエルの国のかたちは共和制である。成文憲法は存在せず、それぞれ、議会>>>(1958年)、大統領(1964年)、政府(1968年)、軍の権限等を定めた基本法の集積>が憲法の機能を果たしている。・・また、先進国で当然と思われいる主権在民の政治>概念の代わりに、一部のイスラム国でシャリーア(聖法―水場に至る道という意味)>が憲法の代わりをしているように、イスラエルでも主権在神といった考え方があり、>ユダヤ教の考え方が所々に顔を出す。
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これで権力の暴走を制御できなくなっているのですね。
>※3:プロトコルの作者の後段での主張
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http://www.asyura2.com/data002.htm
>●人民はわれらが王を神と崇めて帰依献身しその専制に従うであろう
> われわれの政府は、支配する側からいえば族長父権的保護という外観を呈するだろ
>う。われわれ民族とわれらの国民は、王という人物に、王との関係はもとより、国民
>が望むこと、国民がやっていること、国民間のいろいろな関係などの何もかもを気使
>う父の姿を見るだろう。安穏無事に生きたいと切に願うならば、国民は完全にこの考
>えにとらわれ、この方の保護と指導なしには何もやって行けなくなり、とりわけ、わ
>れわれが任命した者たちが私利私欲のためにではなく、ひたすら誠実に命令を実行し
>ているだけであることを知ったときには、われらが王を神と崇めて帰依献身し、その
>専制に従うであろう。<十五>
天皇はまさにこういう家父長的存在として君臨してきました。
天皇制を廃止しなければ民主主義(主権在民)は実現できません。
>●われわれの法律の原則は官憲に対する服従である
> われわれが公然と世界に乗り出し、恩恵を施す折には、われわれの法律はすべて、
>いかなるよけいな解釈をする余地もなく、何びとにも完璧に解る、簡潔、明白、確固
>としたものであるだろう。そこに貫徹させておくべき原則は、官憲に対する服従であ
>り、この原則によって荘重高潔なものとなる。<十五>
支配の為に法という事です。
>●一片の記事といえどもわれわれの検閲抜きには公表されることはない
> 一片の記事といえどもわれわれの検閲抜きには公表されることはない。現在ですら
>すでにこのことは達成されていて、すべてのニュースは少数の通信社に世界中から集
>められそこから配付されるようになっている。通信社は追って完全にわれわれの傘下
>に入り、われわれが許可したものだけが一般に供給されるようになるだろう。
検閲を逃れるのはネットとか庶民の間のやり取りだけだ。
>●われわれの支配者は目に見えない護衛だけに守られる
> われわれの支配者は目に見えない護衛だけに守られる。反政府暴動があるやも知れ
>ず、王にはそれを抑える力がなく逃げ隠れているという考えは断じて与えてはならな
>い。<十八>
この意味は不明ですね。
支配者は常に目に見える護衛に守られていると思いますが。
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