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「日本の取るべき戦略」の実行計画案の策定及び実施は誰が担うのでしょう?
http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/529.html
投稿者 如往 日時 2005 年 3 月 01 日 22:08:00: yYpAQC0AqSUqI
 

(回答先: Re: どうしたら純粋培養の羊の群が獅子の群に変容するのでしょうか?[岩住達郎さんへ] 投稿者 岩住達郎 日時 2005 年 2 月 27 日 12:15:00)


 岩住さん、レスをありがとうございます。


 >政治史の解釈は見る人の立場で色々と変わるのは当然と思います。従って同じ歴史的事実でも如往さんと私との間で見方が違うのは当然です。それに私は多くの歴史家や評論家の意見には全く左右されず、何が起こったかという事だけから自分の判断をしています。私の見解では欧州人で新世界に来たたのは宗教的自由を求めた人達はむしろ少数で大部分は金儲けが目的だったのです。昔から支配層が被支配層に求めたのは労働又は金品の形としての税金です。それを拒否すれば支配層は暴力を振るった為、被支配層がその対抗手段として支配層から独立するか、そうでなければ支配層の権力を制限する、つまり民主化するかの二つしか無かった訳です。

 「何が起ったという事」=「事実」さえも記述されたものには相違なく、しかも近代史とそれ以前の歴史が自生的な記録者によって記述されたものとは言い難いでしょう。そこには記録を命じた者の意向が働いていたと考えるのが普通で、直ちに史実と認めることはできますまい。我々は一世紀以上の前の出来事を臨場感を伴なって認証する術を持ってはいません。やむを得ないことですが、幾許かのアナロジーが加えられるのを受け容れざるを得ないでしょう。そのことを含めて事実と捉える外はないと思量します。
 大航海時代のヨーロッパの支配層にとっては新大陸が第一に植民地候補であったこと、ピューリタンを含むそれ以後の人々が結果的に植民地の開拓民になったことはおそらく真実でしょう。中でもグレート・ブリテンの大陸進出は植民化による市場の拡大であり、錬金術の一環であったと捉えることは可能だと考えます。

 >アメリカが独立戦争に勝った後民主制を敷いたのは欧州での惨めな支配層と被支配層の関係を新大陸でも繰り返したくなかったからだ、と私は解釈します。この頃には既に支配層の間では民主化を国民の不満を宥めて騙す手段として考えられていた筈です。勿論、古代ギリシャ時代に既に民主の理念はあった訳ですが、この民主は支配層の間での権力の共有であって女性や奴隷には何の権利も無かったのですから、貴族階級と市民階級の間での民主とは違います。

 「欧州での惨めな支配層と被支配層の関係を新大陸でも繰り返したくなかった」と考えたのは誰なのでしょうか。さらに、この場合の支配層とは僧侶(第1身分)と貴族(第2身分)を、被支配層とは市民・農民(第3身分)のことを指すのでしょうか。(実は、アメリカ独立革命とフランス革命との関係について私はミスディレクションをしていました。フランスの政治家A.トクヴィル(1805〜1859)はアメリカ独立革命とそれに続く合衆国憲法制定にこそ民主政治の理想があると考え、むしろ権力奪取の過程が長く尾を引いた母国の革命には否定的でした。)
 近代民主主義の勃興は産業革命なくしてあり得なかっただろうと推察しています。そして、それを最も純粋に反映したものがアメリカの独立革命でなかったかと見ています。ただし、外見上は市民革命の様相を呈していたにせよ、内実は市民主権確立の名の下に行なわれた旧権力(英国)と新勢力(植民地における支配層)の間の権力闘争であり、民主主義は新勢力が自決を行使していくための重要なAlternativeであったと考えます。しかし、当時既に民主化が支配層による被支配層にたいする妥協策もしくは懐柔策としての意味を持っていたかどうかの判断はつきかねています。

 >日本人が外国人に対し彼らが日本人と同様のお人好しさや善意や信頼度を持っているという前提で交際しようとする危険性については私も何年も前から警告して来ました。だからこそ前にも外国人に対応する職にある日本人に対し特別な訓練の必要性を説いてきたのです。外国人に今まで何度も酷い目に遭わされた企業人は直ぐに対応してきたのですが、政治家と官僚は自分達の失敗が直ぐに自分の懐に響かないからいつまで経っても良くならないのです。これを正すには外国人との交渉で失敗した政治家と官僚を直ちに解雇する法律を作らなければ駄目です。

 そのような状況を打破するために法律の制定のみで可能であるなどとはおそらく岩住さんも本気で考えてはいないでしょう。何よりも法律の試案や採択に関して官僚や政治家がハンドリングしているのですから、自分達の利益に反する法律を作ろうとするわけがありません。
 外交における人的リソース欠乏の問題は法律では解決できない、社会学者の宮台真司氏も語っていますが、やはり教育問題の範疇にあるのでしょう。しかし、これには文科省の専管事項に留まらず、総務省に官僚教育を統括する部門を特設するなどの手立てが必要かも知れません。

 >岩住さんの“論理教育”の概容が見えて来ぬまま、こんな質問をすることは躊躇されるのですが、物理学者 Ernst. Machの思考方法についてどう思われるでしょうか。私見ですが、摂理の背後に何かしらの(自然の)英知が感得されるとする岩住さんの思惟の領域を脇におけば、Machの論理実証主義と岩住さんのそれとは多くの部分で暗合しているのではないかと推察しているのですが、間違っているでしょうか。
 >私は1961年に渡米しましたから、日米安保反対の学生運動が始まったばかりの頃です。山本義隆氏の名前は始めて聞きました。彼の履歴をインターネットで見ましたが、彼は数年後輩に当たりますし、たとえ時期が一時重なっていても私は航空工学と電気工学の出身ですから出会う事は無かったでしょう。それに当時の私は全く政治には興味ありませんでした。Machについては彼の物理学者としての仕事は知っていますが、彼の哲学的な思想については勉強した事はありません。

 山本義隆氏は確か1941年の生まれですから、東大全共闘議長に選出されたのは博士課程の時で26,7歳頃だったと記憶しています。当時、山本氏が自身の学問への専心と学内闘争との折り合いをどうつけようとされるのか外部より注視していました。ただし、全共闘は学内的には政治闘争ですが、学外的には社会問題を超えることはできませんでした。したがって、果たして大学解体までを、すなわち政治問題化までを山本氏が闘争のレンジに入れていたかどうか、大いに疑問が残っています。

 >日本では哲学を何か特別な学究的な物と捉える人が多いようですが、哲学というものに対する私の認識は「日本の取るべき戦略」にも述べました様に、哲学は人間の数だけ存在する、というもので欧米人のphilosophyに対する認識と同じです。真理は科学理論の手続きを経て到達できても、哲学から真理に到達する事は不可能です。ですから私は他の哲学者の言う事には「それはその人の価値観に過ぎない」と思うだけで殆ど意に介しません。私が他の哲学者から学ぶとすれば論理の構築法だけで、その人の哲学の内容が何であろうと意に介しませんし、ましてや尊敬の念を抱くこともありません。私は偉人の伝記にも全く興味が無いのです。これは二度と同じ事は起こりえないのだから、偉人の経歴が自分に役立つ事はあり得ないという理由です。私が求めているのは科学理論としての真理だけです。

 明治期、諸外国の学問を摂取していくにあたり、当時の西周等がドイツ流の哲学(思索の方法)に何かしら目新しさを感じたというのが、積極的導入の事由のようです。私は哲学を自身の価値観を編むための方法ないしは手法(Art)であると捉えています。そして、その意味で日本人には哲学が必要だと考えています。
 おそらく昭和の初期まで、日本人の大部分がそれまでのEthosに基づく思考でやって来られたのですが、それが太平洋戦争の敗戦によって否定されました。そこから完全回復むしろそれ以上の経済的繁栄を遂げたのですが、政治的自立は必ずしもそれに追いついてはいなかったのです。確かに米国による占領政策及びアジア政策の庇護の下に経済的繁栄を享受できたことは幸運でしたが、反面、それが政治的自立を阻害したことは日本人にとって不幸でした。本来、新たな価値観を編むためには、起爆剤あるいは駆動力の源泉としてのPathosを必要とするのですが、敗戦がその役を果たすことはなかったようです。

 >私のいう論理教育とは飛躍のない論理を一歩一歩築いていく訓練という意味であって、形式的な論理演算を教えるという意味ではありません。授業としては論理演算を教えるのは簡単ですが、それだけでは殆ど役に立ちません。従って、与えられた価値観から出発して哲学的思想を飛躍無しに組み立てる訓練と言えるでしょう。そして論理演算は組み立てた議論の論理性をチェックする為に使うだけです。日本人はこの訓練を積んでいないので、欧米人の色々な思想を学ぶと畏敬の念に駆られてたちまち嵌められてしまうのです。何だこんな物俺だって作れるよ、と思えば欧米の思想家なんてちっとも尊敬しなくなります。日本人は欧米人の碌で無しを買いかぶりすぎです。

 多分、これはマーケティング理論の中で行なわれる仮説・検証の演繹のプロセスに近似していると想うのですが、米国ではその初歩的なものは小学生の頃よりゲーム感覚でやれるように授業に組み込まれていますし、文化・芸術分野の大学でもLiberal artsに設定されてもいます。しかし、日本では殆ど皆無といってもよいでしょう。辛うじて経済学部や経営学部の専門科目として設置されているだけですし、高校教育までは相変らずの作文中心の国語教育であり、論文構成を主軸にしたカリキュラム編成に至っていないのが現状です。

 >最後になってしまいましたが、「どうしたら純粋培養の羊の群が獅子の群に変容するのでしょうか?」という如往さんの問いについては、日本だけでなくどの国でも被支配者の大多数は羊で愚かで、彼らを総動員して政権を倒す手法は昔から同じです。つまり政治的野望を持った一握りの人達が愚かな羊たちを洗脳し集団行動に駆り立てる事です。今までのやり方は資本主義とか共産主義というイデオロギーがあって政府を組織し、愚衆に利益を約束して、その組織を動かす権力を手中に収める事が政治家の目的だった訳です。

 「つまり政治的野望を持った一握りの人達が愚かな羊たちを洗脳し集団行動に駆り立てる事です。」、これだけを見れば、ヒトラーが率いたナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が国内を再編成していったやり方と変わらないでしょう。それとも、岩住さんの構想によれば、再編成後、速やかに数理民主主義へ移行することで問題が解決されるのでしょうか。

 >私の提案する数理民主主義は修正資本主義を内蔵していますが今までのイデオロギーと根本的に違うのは政治権力を持つのは人間ではなく幸福指数という数式です。政治家や官僚は幸福指数を補佐する役割を果たす事になります。幸福指数に含まれる係数は国民が持つ綜合的価値観を満たした時に指数が最高値を示す様になっている訳ですから、政治家や官僚の特定個人が自分の価値観を国民に押しつけようとすると指数が下がります。また、幸福指数の係数には拘束条件が付けてありますから衆愚制度に陥る心配はありません。この幸福指数イデオロギーで先ず国民を洗脳し集団行動に駆り立てて大規模なデモ行進を全国的に繰り広げるのが最も良い戦略だろうと思います。

 「この幸福指数イデオロギーで先ず国民を洗脳し集団行動に駆り立てて大規模なデモ行進を全国的に繰り広げるのが最も良い戦略だろうと思います。」、この場合、誰が主体となって国民を洗脳し、デモを組織するのでしょうか。今の日本のどこに政変を起こすような駆動力が存在するとお考えでしょうか。
 私は経営学の組織開発論を専門(?)にしていますが、洗脳や価値観の変更は一つの手法であって、実行可能性を示さないかぎり集団は新しい事業に取り組もうとはしないと、経験的に感じています。ですから、数理民主主義実現のためにどんな運動が必要なのか、さらに成立後のシステムの運用・管理体制について研究を重ねておく必要があると感じます。経営学ではそこまでを含んでFeasibility studyと呼んでいますが、岩住さんの思考のPerspectiveにおいてどんな具体像になっているのか明確に伝わってきません。したがって、それが直ちに岩住さんの理論の欠陥を物語るものではありませんが、実現性の点で瑕疵を生じるのではと推察します。
 絵画を動画化していくためには、また別の作業が必要だと思うのです。

 また、会いましょう。

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