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(回答先: 在野精神 投稿者 愚民党 日時 2005 年 2 月 19 日 05:14:48)
「捨てた」ものと「得た」もの
心のこもったレス、ありがとうございます。
私こそ愚民党さんの書かれた文章を読ませていただいて、その度に、心が洗われ落ち着き、自分の至らなさを気付かされると同時に、自分の中に何かの新たな情念の胎動の予感が芽生えるような、そんな新鮮さを感じ、救われた気持ちにさせられます。時としては、私が幼いころに歩き遊び小さな祠に手を併せた山の中で全身で感じていた、日本列島の大地に潜む精霊からの声を聞く、このような感覚すら受けさせていただくこともあります。
一見すると一神教に押しつぶされているかのように思えるスペイン社会ですが、しかしその下にやはり大地はちゃんと生きています。先日友人の田舎の別荘に招かれました。別荘といってもそんなに贅沢なものではなく、バルセロナの平均クラスの収入の人でも田舎に家を持っている人は大勢います。
ユーロ経済になって以来、地価が猛烈に値上がりして今では難しいのですが、以前は日本円で150万円も出せば田舎にある廃屋を買うことができました。バルセロナにはカタルーニャの田舎から出てきた人が多いため、少し収入に余裕が出てくると出身の村にある廃屋を安い値段で買って、週末になると出かけて行っては壊れた箇所の修理、壁の漆喰塗り、タイルの張替え、家具の積み込みなどを数年かけて行います。
家具といっても高級住宅街の道路に捨ててある大型ゴミを拾ってくるわけで、お金を使わずに、自分の家を自分の手で作っていくことを楽しみにして、週末や連休の時を過ごすわけです。
その友人が持つアーモンド畑で、何十年ぶりかで鍬を握って土を耕し、手鍬で雑草を取る作業を手伝いました。土の匂いは日本のものと少し異なりましたが、その匂いの奥底にある深い香りは同じでした。ホッとしました。どのような宗教でも思想でも、大地を否定することはできません。
スペイン人だけではなく、多くの国の人間たちの心のはるか奥底には「大地の精霊」としか名付けようの無いものが横たわっているのではないのか、と思うことがあります。以前に私は阿修羅にこのような投稿をいたしました。ご覧になったかもしれませんが。
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http://www.asyura2.com/0311/war44/msg/440.html
日時 2003 年 12 月 10 日 09:16:16
Re:カタルーニャ名物、ウンコタレ人形
もうじきクリスマスで、バルセロナのカテドラル(カトリック大聖堂)付近ではさまざまな出店でにぎわっています。そこで売っているものの中にちょっと面白いものがあります。陶器製の、伝統的には農夫のなりをした男がズボンをめくってしゃがみこんでいて、そのむきだしの尻の下には、金茶色に光る巨大なウンコがとぐろを巻いているのです。この人形をカタルーニャ語で「カガネー」つまりウンコタレ人形といいます。中には女性の姿も各界の有名人を模したものもあり、大きく開けた目を空中に向けて必死に腹の中にたまったものを出し尽くそうとしている表情で、思わず吹き出してしまいます。
クリスマスの時期に神聖なるカテドラルの前で何たる下品な!、と思って地元の人に聞くと、「これこそ、大地の恵みと来年の豊作を保証してくれるカタルーニャの『聖なるウンコ』である」と神妙な顔で教えてくれました。
つまりこういうことです。化学肥料の無かった昔は、洋の東西を問わず、人間の排泄物は土壌の栄養分の供給源として使用されていました。そもそもクリスマスの起源は、ヨーロッパ各地にあった冬至のお祭りで、最も乏しくなった太陽の光が再び成長を開始する時期を祝ったのですが、これがやがてキリストの誕生祝いに変わったわけです。その時期に、太陽の光だけでなく大地の豊かさも増すように願うことは、実に自然なことでしょう。
人間が土から取れたものを消化してまた土に返す、これは自然界の物質循環の中ではごく当たり前のことでしょう。自分の出したものを水に流してそれがどこに行くのかすら意識に上らない現代の生活の中で、土から生まれたものは土に返す、こんな世界中の人間が太古から持っていた感性を、カタルーニャ人たちは実におおらかに、そして実に下品に「カガネー」にたくして表現しています。
私も、子供のころ、便所の下の甕からウンチやオシッコを、今は亡きオヤジが大きなひしゃくでドボドボと肥え桶(私の地方ではコエタゴと呼びます)に入れて、竿の両側にかけて畑まで運んでまいていたのを思い出します。もちろんあたり一面すばらしい臭いが立ち込めるのですが、しばらくすると鼻も慣れてきて、別に飯を食うのに困ることはありませんでした。その畑から採れた豆やキュウリやキャベツを食って育ってきたわけで、カタルーニャ人が「聖なるウンコ」をたたえる気持ちは非常によく分かります。
ついでに、ですが、昔はトイレットペーパーなどというものは無く、新聞紙を切ってお尻を拭いていました。ですから畑にまいたウンコにはコゲ茶色に染まった新聞紙の切れっ端が混じっており、それが育ちかけの豆の茎や野菜の葉っぱに絡みついて、そのままになっていました。それが2週間たち3週間たちすると、太陽の光と雨風によって白くさらされてきて、書いてある文字まで良く見えるようになるのです。「お天道様が清めてくれる」とはこのようなことか、と子供心ながら納得したことが思い出されます。
まことに汚い話で、ご飯を食べている人には申し訳ないことをしました。すいません。
【引用終わり】
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このような感覚は、私が日本に様々な利害を捨て人のしがらみを断ち切ってバルセロナに移り住み、ゼロから自分の人生を作り直しつつあったときに、私の心の奥底から再び湧き出し、ある意識の形をとり始めてきたものです。
米軍か自衛隊の電磁波が日本列島をくるんでいるのかどうか、まではわかりませんが、確かに日本を捨てて何もかも異なる世界に身を置き続けることで、逆に日本を取り戻したような、そんな思いがすることがあります。私の部屋がインターネットに接続したのが一昨年の夏ですので、それまで長期間にわたってほとんど新しい情報を入れませんでした。地元のテレビやたまに買う新聞で、それも半分も理解できない状態で、まして日本についての情報などはほとんどゼロに等しく、インターネットで洪水のような情報に接したときに、もう浦島太郎状態でした。しかしそこで、この捨てて空白になっている期間を過ごす前と過ごした後とで、明らかに物事の受け取り方もイメージの仕方も異なっている自分を発見したわけです。
それは恐らく、自分の肉体と肉眼の感覚でものを見る、という、はるか以前にはあって以前には忘れていたものでしょう。愚民党さんの『日本の場合はガリ版からインターネットへの流れであると思います。』というご観察には敬服します。ハッとしました。確かにそういわれてみますと、はるか昔、がりがりという音を指の骨に響かせながら原紙を削っていき、修正液が無くなってマッチの燃えカスで蝋のかすかな匂いをかぎながらあわてて修正し、手をヌメヌメの真っ黒けにしながら次第に原紙がくたびれてずれてくるのを直しては謄写版をこすっていた、あのしつこさでキーボードを叩いているのだな、と思い当たるわけです。これは眼からウロコでした。
眼耳鼻舌身意のうちで意のみが肥大化し、他の五感が偏った方向以外にはほとんど抹消されている現代の社会であることもまた、少なくとも欧米および日本などの世界では共通でしょうが、日本にもどこの国にも、皮膚の感覚、目の感覚、大地を踏む足の裏の感覚を保っている人が大勢いるはずです。これだけが、パンドラの箱の底に残った唯一の希望です。
私は肉体感覚――大地・自然界と通底する物質としての肉体の感覚――の喪失した論理を信用しません。それは悪魔の論理であり悪魔の言葉です。愚民党さんの書かれた文章には、これは木村愛二さんの文章にも感じることなのですが、この肉体感覚があるのですね。これはもう「なに」という理屈ではなく、私の皮膚が直接感じることです。したがって逆に悪魔の言葉も私の皮膚で直接感じるわけです。日本語であるとスペイン語であると英語であるとを問いません。
逆に言えばこのことが、あらゆる言語や習慣を超えて、人間の中には世界を破局から救える何かがあるのではないか、という予感につながってくるわけです。
『自分は転載記事ばかりで・・・。』いえいえ、私は愚民党さんの直接書かれた文章を知っており、転載記事の奥にある肉体の目をいつも感じています。今後も愚民党さんの文章に接して心を洗わせてください。こちらこそ、ご批判、ご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願いします。
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