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国家以前の神 御柱信仰が意味するもの
神州 一
http://www.bund.org/culture/20050215-1.htm
2004年御柱祭に想う
一、社の神と祠の神
八ヶ岳連峰の一つである阿弥陀岳の頂上から、ほぼ真西に御小屋尾根(おこや尾根)がのびるが、この尾根の最後のピークは御柱山(おばしら山)と地図に名が記載される。御柱山と聞けば、おやどこかで聞いたことがあるなと思うのではないか。そう、この山はあの諏訪大社の御柱祭(みはしらさい。通称「おんばしら」、正式名称は「式年造営御柱大祭」)の、御柱が伐採される山なのである。諏訪大社は上社の本宮・前宮、下社の春宮・秋宮の二社四宮で構成される。正確には御柱山山麓で伐採されるのは上社の御柱で、下社の御柱は東方15キロの鷲ヶ峰西麓の東俣国有林から伐採される。一宮四柱で16柱分が毎回伐採される。
御柱祭は7年に1度(十二支の寅申にあたる年)の祭事で、山から伐採した五丈五尺(約16・8m)の御柱を、コロも使わず人力だけで山から出し、里を曳き、境内に建てる。特に山出しの最大の見せ場である木落としは圧巻だ。急斜面を落ち始めた大木に氏子たちが必死でしがみつく。勢いをつけた大木は人々を振り落としながら斜面を走る。最近では昨年に行われた。この御柱祭はその勇壮さでは、あまたある日本の祭りのなかでも屈指のものであろう。98年の長野オリンピックの開会式でも御柱が会場に建てられたのをおぼえているだろう。
木のたくさん繁る神社にいけば、「祝祭日には国旗をあげましょう」などというポスターも貼ってあったりする。神社や神道と天皇制は密接な関係がうかがわれるので、そもそもが批判の対象と思う人も多い。神社・神道と天皇・国家が密接な関係があるのは間違いない。今から130年前の「国家神道」の形成は、まさに近代天皇制権力の確立とともにあった。各地の神々の多くは、千年以上も前からの歴史を書き換えられ、天皇制国家の格付の下に入った。
だが、すべての神々に官位が贈られていた訳ではない。国家や天皇による格式化、組織化とは無関係な神々も日本にはあった。近代においてそのような神の存在に注目したのは、民俗学の創始者の柳田國男である。柳田には『石神問答』(いしがみ問答)という本があるが、この本が文庫版となった時の序文に柳田は書いている。
「又、あれから信州諏訪神社の御左口神(おさくじん)のことが少しづゝ判つて来て、是は木の神であつたことが先づ明らかになり、もう此部分だけは決定したと言ひ得る」「村々には既に一つ以上の正式の氏神鎮守神の御社があつて、住民は協同してその祭に奉仕して居るのに、どうしてそれ以外に別に数々の小さき祠が出来て居るのか。社と祠との神々はもとから類を異にした信仰であつたのか、但しは又単なる段階の差であつて、固定と公認とによつて次々と格を高め得るものであつたのか」。
ここで柳田はオサクジンと呼ばれる神が木の神であると言い、社と祠の神との関係性に注目している。社(神社)の神とは天皇から官位を贈られ、社域も保証された政府公認の神様である。それに対して祠の神は無位無官で、社域といっても小さな祠一つ。政府の公認云々に関係ない神様である。この両者の違いはどこから生まれるのか。それはそもそも両者の由来が異なるからだと柳田は言うのである。祠の神というのは政府公認の社の神などより、実は非常に古い神だと。そこで彼はこの問題を解く鍵として、具体的に諏訪大社、諏訪地方に伝わるミシャグジの研究を行っている。
二、建御名方神の出自
諏訪大社の主祭神は、建御名方神(たてみなかたのかみ)と妃神の八坂刀売神(やさかとめのかみ)である。諏訪大社の祭神建御名方神は『古事記』の国ゆずり神話に登場する。そこで語られているのは、出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の処に天照大御神(あまてらすおおみかみ)が使者を送り、出雲の国を譲ることを迫り、大国主神とその子事代主神(ことしろぬしのかみ)は承知したが、大国主神の別の子である建御名方神は承知せず、使者の一人に力競べをのぞんだ。だが敗れ諏訪まで逃れ、そこで二度とこの地を出ないことを誓約した、という物語である。出雲が新羅系、大和朝廷が百済系というのはよく知られているが、その話が絡んでいるのである。
今日においても諏訪大社の由来は、この『古事記』の神話を元にして語られている。ただこのようなヤマト朝廷側の神話に対し、次の神話が諏訪には残されている。建御名方神が諏訪の地に入ろうとした時に、守矢神(洩失神=もれやがみ)が抵抗し、この戦いに勝った建御名方神が諏訪を支配するようになった、という物話である。
これらの神話を今日実際の歴史として考えられていることと重ねるとこうなる。もともと諏訪地方には、畿内を中心とするヤマト朝廷とは別個の小国が存在して、幾つかの豪族がいた。その豪族の中心となっていたのが守矢氏であった。守矢氏が祀っていたのがミシャグジの神様で、諏訪国はこの神を中心とした祭政一致の政治体制だった。そこにヤマト朝廷に敗れた出雲系の氏族たちが入りこんできた。古墳時代の遺跡・遺物から見ると、彼らは天竜川を遡上して諏訪に至ったと考えられる。
信濃下伊那郡の大型古墳の築造は6世紀初頭から開始されている。この地方の最古の古墳は5世紀末のものだ。それでヤマト朝廷と争った出雲系の侵入は5世紀後半位と考えられる。その結果、古墳時代末期の8世紀にはミシャグジ神の上に建御名方神がたった。
そこから先の歴史には幾つかの記録がある。大和地方などでは新しい氏族による政治的支配が確立すると、もともといた氏族の祀っていた信仰神を抑圧して消し去ってしまうことがよく起こった。しかし諏訪に入った氏族はそれをしなかった。ミシャグジ信仰は諏訪に残ったのである。ミシャグジ信仰と最も深いつながりがあるのが、諏訪大社四宮の上社前宮である。茅野市にある上社前宮の本殿前の看板には次のように記されている。
「スワ神は遠く上古の古事記、日本書紀のなかにみえるが、ここ前宮は古来より諏訪明神の住まうところとして生き神なる諏方大祝の居館を在し、神秘にして原始的なミシャグジ神を降ろして諏訪明神の重要な祭祀、神事を執り行った聖地である」
今日前宮のたたずまいは他の三宮に比較しても静かなものだが、前宮の関連する施設が散在する地域一帯は神原(ごうばら)と呼ばれる。大祝の居館である神殿(ごうどの)もここにあったとされる。上社の重要な祭儀は、ことごとくこの前宮で行われていた。時代を経るにともなって上社の中心は本宮(ほんぐう)に移ったが、今日でも上社の主だった祭事は前宮に出向して執り行われる。
大祝とは諏訪信仰の頂点にたつ現人神とされ、最高祠司でもある。上社、下社それぞれに大祝がいたが、上社の大祝は代々神氏がつとめてきた。神氏を、カミ、シン、ミワのうちどれかの読み方をしたと言われる。古墳文化の諏訪への流入経路とされる、天竜川沿いの伊那の地に美和郷という地名がある。それでもともとはミワと読んだ可能性が高い。この大祝を補佐するのが神長官(じんちょうかん)であり、神長官は代々守矢氏がつとめてきた。この神長官を代々つとめてきた守矢氏は、出雲から来た建御名方命に抵抗した守矢神ゆかりの氏族の子孫であり、守矢氏の祀っていたのはミジャグジの神である。
ミジャグジの神様はどのように祀られたのか。具体的に上社の祭事を見ていきたい。
三、縄文と弥生のハイブリッド神
今でも上社の年間の祭事は111度も行われる。3日に1度は何かしらの祭事が行われていることになる。それでも古来以来の全ての祭事が残っているわけではない。16世紀に諏訪を支配下においた武田信玄は、諏訪社における祭事の大幅な消滅状況を嘆き、「信玄十一軸」と称される文書において、「祭祀再興」を強権をもって指示している位だ。残された祭事も江戸時代に入ると形式化が進み、本来その祭事がもっていた意味が伝わっていない。
そのような祭事の一つに、神使(「おこう」または「かみづかい」)が、周辺の村落を周るという大御立座神事(おおみたてましのしんじ)がある。神使には現人神大祝の使いとして15才の童男が選ばれたという。神使の童男は諏訪の古郷から選ばれた。その年どこの郷が当番になるかは、正月に行われる「御占神事」(「おうらないしんじ」)によって決められた。
この御占神事は、記録によれば前宮御室社(みむろしゃ)で、大穴を掘ってつくった土室のなかで、大祝と神長官の二人が対峙しておこなわた。大祝が欠席でも神長官だけで祭りは執行されたが、その逆はだめだったとのことだ。神事の主体はミシャグジと、それを祀る神長官守矢氏であったことがうかがえる。御占の結果は「御符」という命令書として、選ばれた郷の役人に渡された。御符はその郷のミシャグジ宛てに出されるもので、郷民に出されたものではない。
そこでミシャグジだが、ミシャグジは社殿にいつもいる神ではない。木や岩を依代にして降りてくる自然神、精霊である。それで今でも大きな木のところにミシャグジを祀った祠がある。なぜ大きな木に降りてくるのか。それは水稲に関係していると考えられる。水稲は水が無ければできない。大木はその貴重な水を根元にため、人々のところに届けてくれる。この大木がもたらす水によって稲は育つ。人々に「富」をもたらすのである。ミシャグジの神とは、自然界から人間界へと大木を通じて降りてきて、富をもたらしてくれる神なのである。
つまりミシャグジとは地理的な境界ではなく、自然界と人間界、人の生きている世界に隣接しているけれども人間の五感では見ることができない世界と、人の生きる世界を行き来できる神、二つの境界にいる神をさしている。人を神とするのではなく自然を神とするシャーマニズムだ。
大御立座神事はミシャグジを祀る守矢氏を中心とした、もともと諏訪先住民の祭事の名だ。後期古墳文化をもたらしたヤマト政権に追われた氏族が諏訪に入ってくるまでは、この地域は同じミシャグジを祀る祭政一致の共同体が成立していた。その筆頭が守矢氏である。そこに侵入して先住民を征服して覆いかぶさったのが、後期古墳文化をもたらした氏族の大祝の祭政であった。だが守矢氏を始めとした諏訪先住の勢力は力を持っていたので、「記紀神話」をもとにした信仰を表面的には受け入れながら、自分たちのもともとの神であるミシャグジを祀る祭を多少変形しながらも残すことができた。
諏訪に仏教が入ってきたのはだいぶ後になってのことで、平安時代末ごろという。中央政権に対する諏訪地域の独自性は仏教(国教)の侵入が遅いことからもうかがわれる。
四、縄文とミシャグジ信仰
ミシャグジ信仰にはもう一つ注目すべき点がある。縄文の影響が強く見られることである。ミシャグジ神が降りてくるといわれる大木に置かれる祠には、御神体として石棒や石皿が置かれている場合が多い。神長官守矢氏に祀られる「御頭御左口神」の御神体も石棒である。巨石にもミシャグジが降りてくるとも考えられるが、ここで祀られている石棒や石皿は男根や女性器を表している。これらのものを豊穣をもたらしてくれるものとして、住まいやその周辺に祀るのは古く縄文時代から行われていたことである。
諏訪湖の周りや八ヶ岳西麓地域からは他の県とは桁外れの縄文期の遺跡が発掘されている。遺跡の多くは縄文中期といわれる今から4500年位前の遺跡だ。その数は他の地域の追随を許さない。もともとこの地域は矢じりなどに使われる黒曜石の産地であったのだ。しかし大いに栄えた高原の縄文王国も、縄文後期から晩期にかけて急激にその遺跡数が減っていく。なぜ激減したのかの理由は未だ明らかではないが、弥生時代の遺跡になるとあまり注目すべきものはなくなるという。
水稲耕作が諏訪の地にもたらされたのは紀元前後、2世紀ごろだ。5世紀ごろに出来上がったであろうとされるミシャグジ信仰に、縄文的要素が加わっているのは地域的な縄文文化の強さがベースにあったからだ。
縄文の影響は石棒や石皿を祠に御神体として奉ることだけではなかった。諏訪大社前宮の神事が、縄文的な要素をはらんだ内容において執行されている。それは旧暦の12月22日に御室でおこなわれた「御室神事」である。それは大御立座神事と同じく諏訪大明神絵詞に出てくる。
御室の中で、ミシャグジとソソウという神様がおろされる。重要なところは「其儀オソレアルニヨリテ、是ヲ委(くわし)クセズ」と書かれている。ある研究者はこの神事の意味を次のように説明している。
そそう神とは「ミシャグジ=石棒(男性)との結びつきから……石皿のようなもの、すなわち女性的なるものの象徴であったのではないか」「御左口神(ミシャグジ)は……男性的精霊であり、ソソウ神は……女性的精霊である。……まったく性格を異にする精霊が御室の内部……において結婚する」
御室神事とは神々のマグハヒをとりおこなう神事なのである。この神事には縄文文化の影響が大きく入りこんでいる。 ミシャグジ信仰は弥生的なものと縄文的なものとが結びついてできたハイブリットな信仰形態なのだ。
五、古き神々と自然の恵み
諏訪に伝わるミシャグジ神とその信仰、それは「記紀神話」の神々よりも前に存在し、畿内を中心とした政治勢力が日本全土にその支配権を拡大するときにも、生き延びた。そしてその神は古く縄文人の精神世界をも含んでいる。たぶん「記紀神話」の神々よりも古い神々は、ミシャグジだけではなく日本各地にいた。
今日青少年などの色々な事件に対し、愛国心や道徳教育を云々する人がいる。そこからすぐに日の丸、天皇と結びつけた議論が聞こえてくる。日本人の精神性のもとになっているのは神道や天皇という訳だ。しかし決してそれは正しくないのだ。
日本に国家の原型が出来て以来「記紀神話」の神こそが正統な神々とされ、これらの神々は全国の社に祀られている。その頂点に立つのが天皇家であるが、それは日本の神々の全てではない。諏訪大社の前宮と本宮のようにハイブリッドな神々がいるのである。日本人の精神性を、国家や天皇や「記紀神話」の神々だけからしか語れないならば、世界をだいぶ狭い視野でしかみていないことになる。私たちの精神性は国家の登場とともに誕生した訳ではなく、それ以前から、また将来国家なるものがなくなったとしても、それは私たちとともに在りつづけるだろう。
人々にとり「富」はどこからくるのかが肝なのだ。縄文や弥生の時代に生きた人々は、それは自然からもたらされると考えていた。今の私たちは違う。私たちは富は社会がもたらしてくれると考える。日本の政治体制、経済体制が私たちに富をもたらしてくれると。だがもはや天皇は人々に何の富ももたらしてくれない。
そこでは自然は前提なのである。現代人が縄文時代の人と違うのは、自然から富をいただく技術だけである。 昔の人たちと自然との関係は直接的で、私たちの生きる社会はあまりに間接的である。それで国家こそが私たちに富をもたらしてくれるものと勘違いしているだけだ。何時かは私たちにも、昔の人たちが自然の中に見ていた神や精霊を見出すことが出来るようになる。
(作家)
この文章を書くにあたり『柳田國男全集第1巻』(筑摩書房)『日本の神々第9巻』(白水社)『諏訪大社』(学生社)『銅鐸』(学生社)『藤森栄一全集第14巻』(学生社)『古代人の死』(平凡社)『精霊の王』(講談社)『甦る高原の縄文王国』(言叢社)などを参照した。
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