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2005 年 02 月 01 日(火)
本の紹介
ネオ・リベラリズムの定義。
最近、こんな本を読んでおります。
森村進『自由はどこまで可能か:リバタリアニズム入門』(講談社現代新書、2001年2月)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061495429/249-8681781-4482707
リバ.jpg
この本の冒頭で、いわゆる「リベラル」と「リバタリアン」との区別が説明されております。ホントはここに掲載されている図を見ると分かりやすいのですが、まあそれは買ってからのお楽しみということで。
では引用。
「精神的自由や政治的自由のようないわゆる「個人的自由」の尊重を説く一方、経済的活動の自由を重視せず経済活動への介入や規制や財の再分配を擁護するのが「リベラル」であり、その逆に個人的自由への介入を認めるが経済的自由は尊重するのが「保守派(コンサーヴァティヴ)」である。そして個人的自由も経済的自由も尊重するのが「リバタリアン」、その逆にどちらも尊重しないのが「権威主義者(オーソリテリアン)」あるいは「人民主義者(ポピュリスト)」である。その極端な形態を「全体主義」と呼ぶことができる。ファシズムや共産主義はこれに属する。(p15)
まあ、えらく分かりやすい説明ですね。教科書的過ぎる感もありますが、明瞭ではあります。
しかしまあ、歴史的言えば「リベラリズム」というのは古典的にはジョン・ロックやアダム・スミスなどに代表される、政府の介入に対する個人の自由(それは精神的な意味でも、経済的・社会的な意味でも)を説く思想ですし、スミスらの「夜警国家論」を考えても、「リバタリアニズム」の方が現代のリベラルよりも古典的リベラリズムを体現しているんですよね。まあ、ねじれがあるわけです。なんでそんなことになったのかというと、「リベラリズム」という語が「20世紀が進むにつれて、特にアメリカでは、元来の意味から離れた福祉国家的・社会民主主義的な意味で使われるようになってきた」という事情があるそうです。「そこで社会民主主義的な「リベラリズム」と区別して元来の意味での「リベラリズム」を指すために用いられる言葉として、「古典的自由主義」「市場自由主義」「リバタリアニズム」といったといった表現が用いられるようになった」(p17)、というわけ。
今のアメリカでは「リベラル」(ここでは社会民主主義的リベラル派のこと)という言葉はどうも「アカ」と同義語であると言えるくらい、侮蔑的な言葉と化していますしね。貧困は自己責任、そして貧困対策はいっそう貧困を助長する(自助努力を削ぎ、怠惰になるから)、みたいな考え方がアメリカを席捲しているということが関係しているでしょう。ブッシュが二期目の施政演説で「オーナーシップ社会」などという表現を用いたのもこれに大きく関係しております。
さて、では最近ワタクシが散々罵倒している「ネオ・リベラリズム」という語はどうなるのでしょう。森村先生はこれについて以下のようにおっしゃっております。
「この言葉は学問的文献よりもジャーナリズムでよく見かけるが、リバタリアニズムに近い立場を指すこともある一方、サッチャリズムのようにナショナリズムへの傾きを持つ保守主義や、さらには権威主義に近い立場を指すこともあって、大変多義的である。それゆえ私自身はこの言葉を使わない。この言葉を使う場合は、それが何を意味しているのかはっきりさせた方がよいのではないか」(p21)。
至極もっともなご指摘であります。
ちなみに私がこの語を使う場合、新保守主義とほぼ同義に使っておりまして、80年代では専らレーガン・サッチャー・中曽根、今でならブッシュや小泉の政策傾向を念頭に置いております。つまり、自由経済、民営化、「小さな政府」を目指すということです。
※しかしまあ、自由主義と保守主義という、本来対立し合う言葉を同義として用いてしまうと、なんだか言葉のニュアンスが分からなくなるというか、言葉がアドホックに濫用されていると思われてしまうかもしれないんですけどね。
もっとも、一般に指摘されている通り、新保守主義は市場原理主義を唱え「小さな政府」を目指しながらも、軍事費や治安維持費増加のために結局的には「大きな政府」「赤字財政」をもたらしたんですがね。この点については以下の本にこんな指摘があります。
アンドリュー・ギャンブル『自由経済と強い国家:サッチャリズムの政治学』(みすず書房、1990年)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/462203638X/qid%3D1107183192/249-8681781-4482707
「自由経済と強い国家という思想は、パラドックスをはらんでいる。国家は、押し戻すと同時に前進させなければならない。ある分野では非介入主義的で分権化されているが、別の分野では高度に介入主義的で集権化されなければならない」(p49)。
それはまあ、端的に言えば社会保障およびケインズ的公共政策を切り捨ててその分を安全保障(国内の治安維持も含む)に回すということです。
レーガン政権下を例に挙げれば、対ソ戦略のために(SDIなどという夢物語を信じて)軍事費を増大させ、また貧困による犯罪の増加に対処するために治安維持費を膨らませた、とまあそんなところですかね。
そうそう、忘れてはならないのは、このような文脈の中で宗教的ファンダメンタリストが跳梁跋扈した、ということです。つまり、対外的にはソ連を悪魔の国家と見立ててハルマゲドンを主張し、対内的には貧困などを背景とした社会不安を食い物にして勢力を拡大した、ということです。ここら辺は保守主義(というか反動)たる所以でしょうか。自由経済が推し進められると各人は自己責任を押し付けられる。社会問題は一切無視され、すべては個人や家族の問題に還元されてしまう。サッチャーの金言「社会などというものは存在しない。あるのは男と女と家族だけだ」というのはそういう意味です。
そんなわけですから、自由経済が進展すればするほど、伝統的価値観が喧伝されていくという、逆説的な状況が出現してしまうわけです。サッチャーが首相に就任した際、「ヴィクトリア王朝の復興」みたいなことをのたまわっていたのはそういうことで、自由経済の進展に伴うさまざまな問題を「伝統の復興」というレトリックで回避ないしは無視しようとするということですね。
とまあ、ネオ・リベラリズムという語で私が考えているのは以上のようなことです。まとめれば、経済上の自由主義と政治上の保守主義との連結、それがネオ・リベラリズムということだと思われます。
まあ、この問題は次に取り上げる本の中でまた論じることにします。
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「『魂の労働:ネオリベラリズムの権力論』(@Quo vadis, domine ?)
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投稿者:barbaroid at 15:06
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