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「ル・モンド・ディプロマティーク」
http://www.diplo.jp/index.html
文化財略奪の現状を追う
フィリップ・バケ(Philippe Baque)
ジャーナリスト
訳・内藤あいさ
http://www.diplo.jp/articles05/0501-4.html
文化財の不正取引が広がっている。最大の原因は、世界の主要な美術品市場を擁する国々で投機的取引がやまないことだ。南半球の国々は、往々にして取り返しのつかない文化遺産の喪失をこうむっている。国際条約がないわけではない。しかし、条約はこれまでにほとんど効果を上げていない。[フランス語版編集部]
2003年4月9日、アメリカ軍がバグダッドを制圧した直後、爆撃に続いて起きたのは略奪と火災だった。4月10日には、数千年前にさかのぼるイラクの文化を物語るバグダッド考古学博物館が略奪を受けた。続けて国立図書館と文書館が火災にあった。戦争以前は17万点を数えた所蔵品のうち、1万4000点がこの時に盗まれた。後日に取り戻し、あるいは返却されたのは、4000点でしかない。同年4月16日にシラク仏大統領は、このバグダッドの事件とモスルの博物館で起きた略奪を「人類に対する犯罪(1)」と形容した。自分は文化遺産を奪われた国々の味方だという発言だ。イラクの博物館の略奪に比べれば些細な事件とはいえ、自分も巻き込まれた二つの美術品略奪事件のことを覚えていないのだろうか。
1996年末、シラク大統領は側近から、マリで出土したテラコッタ製の小像をプレゼントされた。パリ・マッチ誌に掲載された写真(2)を見て、ユネスコと関係の深い非政府組織、国際博物館会議(ICOM)の担当者はピンときた。この小像は、数年前に警察が不法な発掘現場で差し押さえ、その後にバマコ博物館に送る途中で盗まれた出土品の一つだったのだ。事件のタイミングは最悪だった。フランスはユネスコの文化財不正取引禁止条約の批准を準備中だったからだ。シラク大統領はICOMとの1年以上にわたる駆け引きの末、1998年初めに、小像をバマコ博物館にしぶしぶ返還した。
第二の事件は2000年4月に起きた。セーヌ河畔のブランリー通りに原初美術館を建てるという大統領肝煎りの計画に先立ち、そのショーウインドウとなる原初美術室がルーヴル美術館でお披露目された。ところが日刊紙リベラシオン(3)のスクープにより、ナイジェリアで不法に発掘されたノク文化とソコト文化のテラコッタ3点が含まれていたことが発覚した。ルーヴルはこれらを2年前に美術商から45万ユーロ弱で購入していた。ステファン・マルタン室長は「これらの小像は、現行のフランスの規制に照らして問題のないかたちで、ベルギーの美術品市場に出回っていたものです。ペリクレスの時代にアフリカでも傑作が作られていた事実をルーヴルの来館者に示すのに重要だと判断して、購入を決めました」と弁解した。だが、ICOMの倫理規範によれば、会員1万5000人の学芸員や美術館長は、発掘が「考古学遺跡に意図的または非学術的な破壊または損害」を及ぼした可能性のある文物の購入は控えなければならない。今回の件をうまく処理するような公文書を作ろうとシラク大統領がナイジェリア大統領に持ちかけたため、両国内での批判はいっそう激しくなった。最終的に、小像の所有権はナイジェリアに返還され、現物はルーヴルに置いておくということで決着が付けられた。
事の性質上、算定は困難だが、略奪された文化財の取引規模は20億から45億ユーロと見積もられる。武器や麻薬の密輸に迫る規模だ。南半球の国々の財産が北半球のギャラリーやコレクションに吸い取られるという不公平が、ここでもまた繰り返されている。戦争地域は格好の餌食だ。カブール博物館は幾度も略奪を受け、ザイール(現コンゴ民主共和国)でもモブツ政権崩壊の時に国立博物館研究所が被害にあっている。
最も被害にあってきた国の一つがカンボジアだ。近年の紛争の際、各軍が武器調達の資金源に文化遺産を売りさばいていたからだ。アンコールの寺院や宮殿の浅浮き彫りもひどい損傷を受けた。アンコール遺跡は1992年にユネスコの世界遺産に登録されたが、いまだに略奪者の標的になっている。アフリカでは、繰り返される戦争のたびに、地元の古物商ネットワークが逃げ惑う住民の隙を突いて暗躍する。
メソポタミアの遺跡では
平和な時代にも、保護策の欠如、汚職や貧困が、博物館からの収蔵品消失を促し、不法取引を助長する。ニジェールのブラでは1994年以降、不法な発掘によって遺跡の90%が損傷を受けた。マリでは90年代初めにオランダの学術調査団の報告により、834カ所の遺跡のうち45%が略奪の被害にあっていたことが明らかにされている。同じ頃、ノク、ソコト、カツィナ文化の小像が「原始美術品」市場に大量に出回った。それらは、ナイジェリア北部で現地行政機関の共謀の下、不法に発掘されたものだった。マリのジェンネ・ジェノ遺跡を調査する考古学者ロデリック・J・マッキントッシュは、次のように語っている。「発掘された美術品は、それに付随すべき考古学的地層の調査票が作られなければ、いつの時代のものかわからなくなる。それに、出土地の記載なしに展示されれば、経済的、社会的、思想的な背景が抜け落ちてしまう。背景がなければ古代美術は不可解なものでしかない(4)」。滅亡したコマランド文明に連なるガーナの遺跡は80年代に根こそぎ略奪にあったため、そこの出土品は「民族不詳」と付記されるようになった(5)。
ペルーでは、知られた古代墓の半数に当たる10万もの墓が略奪の被害にあった。キプロスでは教会から1万6000点のイコンやモザイクが盗まれた。中国では1万5000基の紅山文化の墓が荒らされた。イランのジロフトは2001年から2003年にかけて大規模な略奪の舞台となった。5000年前の素晴らしい文明を物語る緑泥石製の壺が何千点も、ヨーロッパ、アメリカ、アジアの美術品市場に流れ込んだ。その結果、イラン警察がようやく介入に乗り出すとともに、学術的な発掘調査も開始されるようになった。
どこであれ、地元の略奪グループが発掘を手がけ、彼らから買い付けた古物商が輸出に当たる。美術商や収集家の手から手へ、国から国へと渡った文物は、ICOMやユネスコが対策を講じようとする頃には、すでに一定の「ハク」が付いている。価格も10倍から100倍、100倍から1000倍へとはね上がる。
イラクでは1991年にも、4000点以上の考古学史料が博物館から盗み出されている。2001年、ボストンにあるマサチューセッツ美術大学の考古学者ジョン・ラッセルは、センナケリブ宮殿から多数の浅浮き彫りが剥がされた事件を「ニネヴェの決定的略奪」と呼んだ(6)。だが、イラクの考古学者ドニー・ジョージが予感していた通り、さらに悪いことが起きた。彼は「アメリカが攻撃してくれば、遺跡の略奪は1991年以上にものすごいものになる」と2003年初めに述べていた。「略奪者は密輸ルートを作り、世界中に顧客を開拓する時間があった。彼らは強力で、しかも武装している(7)」
2003年7月、考古学者でジャーナリストのジョアンヌ・ファルシャフは、「シュメールの素晴らしい都市ウンマの遺跡であるジョハは、ちょうど4年前に出土した。それが今はまるで戦場のようだ」と語っている(8)。アメリカの考古学者マグアイア・ギブソンによると、イラク南部の遺跡の大部分で同様の略奪が続いている。北部ではアメリカ兵が公式に遺跡の警備に当たるようになったが、それもハトラやニムルドの浅浮き彫りが略奪され、ニネヴェの浅浮き彫りが破壊された後のことだ。
アメリカ部隊の姿勢が消極的だったのは、国内の大収集家からなる団体、アメリカ文化政策評議会(ACCP)のせいもあったのではないか。軍事介入が間近となった2003年1月24日に、何人かのACCPメンバーが国防総省の高官に会っているが、イラクの古物輸出保護の法律を緩和するよう交渉するためだったのではないか。だが、幸いにも同年5月22日、国連の安全保障理事会が異例の決議を採択をした。すべての国は1990年以降にイラクで略奪された文物を返還し、それらの取引を禁止しなければならない。国際社会がこの問題に対して一致して対策をとろうとするのは前代未聞のことだった。
三つの条約
今を去ること1954年に、ユネスコは武力紛争の場合に適用されるハーグ条約を提唱した。その付属議定書は、占領地域からの文化財の輸出を禁止するとともに、輸出されてしまった場合の返還を義務付けている。今日までに105カ国がこれらの文書を批准しているが(9)、イギリスとアメリカは現在でも批准国に加わっていない。
1970年、ユネスコは平時に適用される新たな条約を作成した。目的は「文化財の不法な輸出入および所有権譲渡の禁止および防止のための対策」である。批准国は、文化財を保護する法律を制定し、自国内の保護物件の目録を作成するよう求められる。この条約の効果は法的というよりも倫理的なレベルにある。だが、ユネスコのグイド・カルドゥッチ国際規範部長は「文化財について輸出証明書を要求し、返還請求を可能にするなど、いくつかの原則を打ち立てた先駆的な文書だ」と言う。
しかし、1995年の時点で、当時のユネスコ国際規範部長リンデル・V・プロット氏はこんなふうに述べていた。「美術商団体が非常に強力な圧力団体となり、彼らの活動を厳しく規制しようとする動きを何度も阻止してきた」。最初にこの条約を批准したのは主に「輸出国」たる南半球の国々と、イタリアやギリシャ、スペインのように不正取引の被害を受けている北半球の国々だった。アメリカは1983年に、いくつかの国と二国間協定を結べばそれで済むようにする留保条件を付けて批准した。
ユネスコは、1970年条約よりも法的に実効性のある条約を作成するために、私法統一国際協会(UNIDROIT)に助力を求めなければならなかった。1995年に採択された「盗取されまたは不法に輸出された文化財の国際的返還」に関するUNIDROIT条約は、国家が自国の文化財を購入した者を相手どって、同人の居住国の裁判所に提訴することを認めている。同条約は1970年条約よりも広範な文物を対象とするとともに、不法に輸出され、請求国にとって「重要な文化的意義」のある財物も対象に含めている。こうした財物の占有者は返還を義務付けられる。補償が認められるのは、盗品や不法輸出品ではないとの確認のために必要な手続きを尽くしたことを証明した場合に限られる。時効期間は50年とされるが、条約に遡及効はない。
UNIDROITの条約案はこのように、ヨーロッパのいくつもの国に見られる善意取得者の保護や非常に短期の時効(フランスでは3年)という原則を打破するものである。博物館および考古学・歴史学コレクションに関する国際委員会(ICMAH)のジャン=イヴ・マラン委員長は、「UNIDROIT条約は素晴らしいバネとなり、(・・・)文化遺産を守るプロセスの要となるものです」と語る(10)。しかし、この条約は美術品市場の関係者から猛烈な反対を浴びせられた。
全仏古物商組合の弁護士を務めるジャン=ポール・シャザル氏は、条約の一部の規定が、なんと、フランス人権宣言に反すると主張した。シャザル氏は、「重要な文化的意義」という概念が広すぎ、時とともに変化しかねず、あいまいにすぎると批判した。「訴権が50年もあるとすれば、取引の安定がまったくなくなってしまう。UNIDROITは自由な流通に逆行しようとしている。どこかの国が自国の文化遺産を全面的に凍結してしまうこともあり得る」。スイス収集家協会の弁護士を務めるアレキサンダー・ヨレス氏も、「人類全体の文化という考え方や、政治、経済、社会分野での国際的な開放に反するものだ」とUNIDROIT反対の論陣を張る。パリの美術商は全員、同意見だ。ベルナール・デュロン氏は、「UNIDROITは新植民地主義の延長だ」と主張する。レジナルド・グルー氏は「我々の考え方を我々とは動きが異なる国々に押し付けるべきではない」と言う。ジョアン・レヴィ氏は「これらの条約は西洋の理想家によって作られた。しかし、理想主義が実際性を欠くなら、それはファシズムになる」と宣言する。
現時点で、UNIDROIT条約を批准しているのは11カ国にすぎず、そこに「輸入大国」は含まれていない。他に単なる賛同国が12カ国ある。フランスでは2002年2月、批准法案に関する議会の調査が中断されたまま、再開のめどは付いていない。
(1) 国立博物館会議が危機に瀕したイラクの古物のレッドリストを公表している。http://icom.museum/redlist/
(2) パリ・マッチ誌2481号、1996年12月12日付。
(3) ヴァンサン・ノース記者が2000年4月13日から23日の間に書いた複数の記事を参照。
(4) ロデリック・J・マッキントッシュ「ディレッタンティズムと略奪:マリ古代美術の不法取引」(ユネスコ編集の雑誌『博物館』、パリ、49号、1986年)。
(5) 雑誌『ブラックアフリカ美術、原初美術』(アルヌーヴィル、1998年冬号、36ページ)。
(6) アントニオ・カリトリ「ニネヴェの新たな略奪」(米『サイエンス』誌に掲載、2001年10月31日付の『クリエ・アンテルナショナル』に再録)。
(7) 雑誌『アルケオロジア』、ディジョン、2003年2月。
(8) 同上。
(9) 1999年に第二議定書が追加された。http://www.unesco.org/culture/laws
(10) 「美術品:略奪を阻止しよう」(ル・モンド2003年5月7日付)。
(2005年1月号)
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