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今、日本政府(小泉内閣)は、国家財政の重荷を解消するためと称して、日本の医療制度改革の重点課題として「混合診療」の導入を検討しています。
[(注)/12.14、政府は「混合診療」について今年度の議論では全面解禁を見送る方針を固めたが、次年度の再検討に向け注視する必要がある/http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news_i/20041215so11.htm)
「混合診療」とは“健康保険の適用範囲内の診療(治療分)は健康保険で賄い、保険適用範囲外の診療については患者自身が費用を支払うことで、結局、健康保険で支払う部分と自費負担の部分が混合する診療形態”のことです。しかし、現在の日本の健康保険制度は、「国民皆保険の原則」によって、健康保険適用範囲外の診療に関する費用を患者から徴収することを禁じています。従って、例えば「差額ベッド代」がかかる場合でも、患者自身が「差額ベッド代」が必要な病室の利用を希望しないにもかかわらず、もし病院側の都合でその患者を「差額ベッド代」が必要な病室へ入院させた場合には、その患者は高額の「差額ベッド代」(おおよそ月当り1万円以上)を負担する必要がありません。というより、このような場合に患者が自己負担することを現行の健康保険制度は認めていないのです。そして、このような場合に、もし患者から費用を別途に徴収すると、その病気に関する一連の診療費用は、初診のレベルまで立ち戻り、患者が「自由診療」を選択したことになり診療費用の全額を患者が自己負担するというルールになっています。従って、現行の健康保険制度の下では現実的に患者がそのような選択をすることはあり得ないのです。そして、現在の診療体制では、今説明のための特殊な事例として取りあげた「差額ベッド」がかかる特別の病室及び新しい高度医療技術や新しい薬品類のごく限られたものだけについて、例外的に患者から別途費用を徴収することが認められているのです。
そこで、単純に考えると、「差額ベッド代」に準じた例外のケースを増やせば「混合診療」の下では、健康保険適用外の診療を受けても全額自費負担になることがないので、現行制度よりも患者サイドにとって便益性が高まり、ガンなどの難病の治療では患者が大きなメリットを受けることになるのでは?という甘い期待を持つ人々がいるようです。これが、そのとおりであれば結構なことでしょう。しかし、考えてもみてください。日本政府(小泉内閣)は、国家財政の重荷を解消するためと称して「混合診療」を導入しようとしているのです。だから、この前提条件と逆になる、つまり現行制度より国家の財政負担が重くなるような制度を敢えて導入するはずがないじゃありませんか?
「混合診療」が導入されると診療現場(病院)での現実は全くその逆で、むしろ患者の負担増が増す可能性が非常に大きくなります。現在、政府は健康保険が適用される病気名・診療行為・薬品などを根本から見直す作業を進めています。つまり、政府側のさじ加減一つで「保険適用外」の病気や診療活動が増える可能性が高まっています。と、すれば「混合診療」が導入されることで「保険適用外」の診療費用は患者自身が負担することに対する現在の法的な制約が解除されるので、病院は堂々と「保険適用外」の診療代を患者へ請求することができることになる訳で、結局、金持ちと貧乏人の間に病気診療を受ける機会の上で大きな差別が生まれることになります。費用を自己負担する能力がない貧乏人の重病患者は、適切な診療を受けることができないまま死を待つのみという悲惨な状態になります。
また、現在の健康保険制度では、保険適用が認められない薬は市場に出せないため、製薬会社は新薬承認を得るため多額の費用・時間・人手をかけて臨床試験に真剣に取り組んでいます。ところが、「混合診療」が導入されると、自由診療で利用される新薬として市場に出せば、いくら高い値段で出しても金持ち階級の患者が一定量以上は買ってくれるようになると思われます。この結果、臨床試験に関して製薬会社のモラル・ハザードが発生することにつながりかねません。そして、金持ちは効果がある高価な新薬を使って難病を治療できるが、貧乏人はあまり効果がない安い保険適用の薬しか使えないという差別が生まれる可能性が大きくなるのです。
すなわち、これらの観点からすると、現在の日本における社会福祉行政の基本原則(理念)となっている「国民皆保険制度」が、事実上、放棄されることになるのです。このように重要な論点が「混合診療」の問題には隠れています。しかも、これは日本国憲法が定めている「主権在民」の原則に抵触するおそれもあるといえます。このように重要で国民の生命(いのち)を脅かすような問題が、国会での十分な議論さえもなく、政府御用達の学識経験者等が構成する▲▲▲審議会の答申を受けて、概ねの方針が閣議決定されるようなことになる恐れがあるのです。何故に、このように重要な問題を主要なマスコミがキャンペーンを張って全国民的な議論となるよう盛り立てる努力をしないのか不思議です。これも、ひたすら、対米追従ありき故なのでしょうか?
ところで、1998年のノーベル経済学賞の受賞者アマルティア・セン(インド出身/ケンブリッジ大・教授))は、「潜在的能力アプローチ」という概念を提唱して、「ワシントン・コンセンサス」が方向づけた新自由主義経済を推進する「グローバル市場主義」を批判しています。アマルティア・センが提唱する新しい概念である「潜在能力アプローチ」のエッセンスは、要するに“人間を開発や経済発展の『手段』(または道具)と見做してはならない”ということです。源流がアリストテレスの哲学まで遡るとされるセンの理論はロールズの「正義論」の限界を乗り越えたとも言われ高く評価されています。一方、「ワシントン・コンセンサス」の思想的な特徴は、個人の“自由”こそが、常に最大の経済価値を“市場”で創造できる“原理”だと考えることです。
この点に関し、センは次のように語ります。・・・個人の自由と責任だけで、すべての価値を実現できると割り切ることはできない。なぜなら、個人の意識の有無にかかわりなく、その個人は“数多くの人々の善意に基づく社会全体という環境条件の責任”によって支えられている存在なのだから。このようなセンの思想の中には、広い意味での“自然・社会・政治・経済環境”の役割を積極的に再評価し、特に“政府”の社会的な弱者等に対する役割を重視する考えがあるのです。
2003年の初めころ、アマルティア・センと緒方貞子氏(前国連難民高等弁務官)が共同議長を務める国連「人間の安全保障委員会」が、「人間の安全保障」に関する2年半の議論をもとに報告書をまとめました。この報告を受けた日本政府(小泉首相)は、緒方貞子議長に対して、日本が「人間の安全保障」に貢献するように取り組むことを約束しています。「人間の安全保障」とは、言い換えれば世界中のすべての人々の人権を守ることを究極の目的とすることです。当然ながら、そのことはアマルティア・センが提唱した「潜在能力アプローチ」の目的である“人間を開発や経済発展のための『手段』(または道具)と見做してはならない”という考え方も包含します。
また、2003.2.28付・日本経済新聞の社説も「人間の安全保障と生命の欲望」をテーマに取り上げて、この問題に日本政府が積極的に貢献・介入する必要性を説いています。「生命の欲望」とは、例えば“「臓器移植」という医療行為で、他人の臓器を貰って(または購入して)までも自分が生き続けたいという人間としての「エゴイズム」のことです。ところが、同じ紙面には『改革の象徴/首相が指導力演出、全部やった!』という見出しで、経済特区問題が決着したという記事が載っており、その評価できる内容の一つとして「保険外診療分野を前提とした『株式会社の医療への参入』が決定した」ことが書かれていました。この二つの内容は、たまたま同じ紙面であったわけですが、なぜか妙にアンバランスで“納まりが悪い”印象を受けた記憶があります。これは何故だったのでしょうか?この違和感は何でしょうか?こんな違和感を感じる人間は社会的異端か変人なのでしょうか?
アマルティア・センが「潜在能力アプローチ」で主張したことを「人間の生命観」という問題に絞って考えてみます。「臓器移植」の前提として「脳死」の問題があります。さらに、その前提には“脳死になった人は死んだ(つまり、人間としての特別の生命の有無とは無関係な資源の一種)なのだから、その脳死の人を人体実験や臓器提供のために使ってもよい”という考えがあるはずです。そして、このような考えが今や我われの社会で普通になりつつあるのは、元々、人間の文明が農耕や畜産という産業から始まったことと関係しているようです。つまり、人間が子孫を増やしながら出来るだけ楽して長く生きるためには、自然環境の中に存在する、あらゆる資源(それが生命を持つ動植物であっても)を犠牲にせざるを得ないということを大前提としてきたことです。その延長に、今や、法的には人間と呼べない“死んだ人や一定期間以内の受精卵(これは法学的・医学的に人間とは見做されない!)”を対象とする段階まで到達したのです。しかも、このような傾向に強力な支援者(新しいイデオロギー)が出現しました。それが「ワシントン・コンセンサス」を方向づけた「新自由主義思想」です。
また、アメリカでは「テロとの戦い」や「環境問題」などを軸にした新しい形のナショナリズム(冷戦構造崩壊後の新しいアメリカ帝国主義)が芽生えており、それが軍事力を振りかざす先制攻撃や京都議定書離脱(世界環境意識の放棄、そんなものクソ食らえ!の思想)などのユニラテラリズム(米国一国主義)の推進となって現れています。その推進役たるブッシュ政権を支えるエネルギー源が産軍複合体を中軸とする巨大・多国籍企業群(ミリタリー・コングロマリット)であり、共和党を支持する保守主義者(ネオコン(転向・元極左インテリ共産主義者、擬似テロリスト)、ペイリオコン(アメリカ中南西部の純朴な伝統的保守主義を信奉する人々)、キリスト教原理主義者)たちによる、利害を同じくした一種の談合体であり、そして、我が日本政府(小泉首相)が、他国に先駆けてブッシュ政権のアメリカに追従している(ただ、アメリカ国民の約半数はブッシュ政権を批判し続けていることにも留意すべき・・・)ことは周知のとおりです。だから、政治力学上の観点から、このような世界におけるアメリカ・ブッシュ政権の在り方を批判する声には甚だ喧しいものがあります。ところが、「人間の生命観」という観点からの批判の声は殆ど聞こえてきません。
しかし、「人間の生命観」という観点からこそ、ブッシュ政権(ただ、民主党政権になったとしても、先制攻撃的な軍事力の問題はともかく、アメリカ政府のこの点に関する考え方はあまり変わらないと思われる・・・)の世界に対する在り方は断じて批判すべきだと思われます。なぜなら、どのように割り引いて考えても、“死んだと見做される人間”の身体のすべての臓器・体液及び骨格・皮膚などを徹底的に、かつ純粋に高付加価値の経済的・商品的な観点からパーツ(部品)として再利用したり、先行投資的な営利目的の人体実験に利用したりするような行為が社会の基本システム(社会インフラ構造)に組み込まれることは、普通の常識(良識)ある人間であるなら誰でもが率直におかしい、変だと思うはずだからです。人間の英知は、今こそ、素朴な農耕・畜産の歴史から始まった人間の歴史における、あまりにも人間のエゴに偏った一方的な環境資源からの収奪・略奪文化(or文明)に歯止めをかけるべき時代に差し掛かったことを理解すべきなのです。今、構造改革の数少ない成功事例として話題の「病院経営の株式会社化」と小泉首相の意欲が特に大きいとされる「混合診療解禁」への検討指示についても、このような「人間の生命観」の根本という、決して見過ごすべきでない「基本的な問題」から徹底的に議論すべきです。さもなければ、日本国民の「生命そのもの」が、投資家や企業家の蓄財のためにグローバル市場経済の高価な商品として収奪・消耗されるという恐るべき近未来社会の到来になると考えられるのです。
現在、「在日・米国大使館アメリカンセンター」のHPには『通商代表部発、年次改革要望書』(毎年10月、内容更新/http://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-j20031024d1.html#iryo-s)が掲載されており、これが、ここ10年来の持続的な「対日構造改革要求」の根本憲章と位置づけられるものです。(驚くべきことに、これが主要マスコミで報道されたことは殆ど聞いたことがない!/ただ、東京新聞の例外あり)これを読んでビックリ仰天させられるのは、司法制度改革、商法改正、金融改革、道路・交通行政改革、郵貯・簡保改革、医療改革、各種の民営化など、ありとあらゆる日本国民の生活基盤に対する改革が要求されていることであり、これらのアメリカ政府からの要求の全てが見事にピタリと「小泉構造改革」の施策の柱と重なっていることです。また、特に医療改革(病院経営の株式会社化、混合診療など)の問題については、「在日米国商工会・ACCJ」(HP/http://www.accj.or.jp/content/about/Jpage/#2)の『政策課題への取り組み』も日本政府と財界に対して強力に「日本の医療改革」を求めています。かくのごとく、アメリカの官民が一体化した「対日構造改革」の要求は恐るべきほど強力なものです。このような観点からの主要マスコミによる批判記事や国民啓発のキャンペーン記事が見られないのは、やはり日本の主要マスコミに対して“ある種の圧力”がかかっているからなのでしょうか?
それはともかくとして、これらの医療経営に関する新制度が実際に日本国内で具体化する場合の順序は、現在進行中の国内における検討とはまったく逆で、医療行為(病院経営)で十分な利益を上げるために効率的な「混合診療」が可能となった段階で初めて、新しい病院経営の形としての「病院の株式会社化」が爆発的に広がるように仕向けられているのです。我われ一般国民は、ことに十分注意の目を向けるべきです。なぜなら、ここにも巧妙な日本国民に対するカムフラージュが仕掛けられているからです。後回しにしてソッと出してきた「混合診療」の実現こそが“医療カイカクの本命”(=打ち出の小槌)だと言うことです。つまり、手段としての「混合診療」(=打ち出の小槌)さえ実現すれば現行の「健康保険制度」(国民皆保険の原則)などは容易く“市場の手”に委ねることが可能となり、後は市場の力学の中で自然崩壊するのを待つばかりという訳です。これこそ、日本国民の「生命そのものを商品化する」という究極的な“カイカクの目標”です。もはや、これでは日本国憲法による「国民の生存権」の保証も、「社会保障制度」の維持も、ことごとくが絵空事(今流行のヒト騙しの<紙芝居>の世界?)と化してしまうことになるでしょう。その先にあるのは、ひたすらアメリカに隷属するばかりで、日本国民どおしが医療市場で身勝手なエゴを張り合いながら互いの「生命」(いのち)喰らい会う、おぞましいカニバリズム的(人肉嗜好的)な“弱肉強食”の近未来社会です。これは、現在のアメリカのユニラテラリズム(一国主義)政策の淵源の一つと目されるアメリカの女流作家アイランドが描いた利己主義を至上原理とする「カルト的な理想社会」のユートピア像(普通の感覚では理解できない、おぞましきユートピアだが・・・)にそっくりです。(作家アインランドについてはBlog「ベスのひとりごと/作家アインランド、米国のユニラテラリズムのもう一つの『水源』/
http://takaya.blogtribe.org/entry-2cf38f3aac8814bf4ac7c4a78e9389f6.html」、参照)
そこで、医事評論でご活躍される李啓充氏(京都大学医学部卒、ハーバード大学助教授等を経て医事評論家)の下記の著書(●)やHP(
http://www.jmcnet.co.jp/igak2003/igakuri.html)及び李啓充氏の「日刊ゲンダイ・連載記事/混合診療解禁シミュレーション(上)(中)(下)」を参考に、「株式会社による病院経営」が主流となっているアメリカにおける「混合診療」と「病院経営の株式会社化」がもたらした弊害の事例をまとめてみます。
●李啓充著『アメリカ医療の光と影/医療過誤防止からマネジドケアまで』、『市場原理に揺れるアメリカの医療』、『市場原理が医療を滅ぼす/アメリカの失敗』
[HCA社のケース]HCA社HP/http://www.hcarichmond.com/default.asp
現在、HCA社はアメリカで最大手の株式会社による病院経営チェーン組織。(病院数190、売上2兆強)創業当初は、経営戦略上からライバル病院を買収した上で閉鎖し、この手法が成功して拡大戦略として定着する。結局、ライバルを買収・閉鎖して市場の独占を図れば、思うとおりの高値の診療代を患者へ要求することが出来るようになり経営上の大きなメリットとなった。(・・・これでは貧乏な患者の立場などそっちのけということになる。)また、HCA社は、2002年、診療報酬の不正請求を認めて罰金1,000億円のほか、不正請求7,500億円をアメリカ政府へ返還した。
[テネット社のケース]Tenet社HP/http://www.tenethealth.com/TenetHealth
テネット社は全米で第二位の株式会社による病院経営チェーン組織。(売上約1.3兆円)カリフォルニア州政府が調査したところ、入院患者一人への請求額が他病院より63%高いことが判明。また、2002年、テネット社の某病院は、健康な多くの患者に無用の心臓手術を行った疑いでFBIの捜査を受けた。
(その他、参照したURL)
http://www1.seaple.icc.ne.jp/aikegawa/abstract/aobaku.htm
http://www.yk.rim.or.jp/~mitsunob/c-econo1/c50.html
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news_i/20041215so11.htm
http://www.geocities.com/HotSprings/4347/nikkei.htm
http://health.nikkei.co.jp/isk/child.cfm?c=1&i=2001112606894p3
(関連URL)
http://takaya.blogtribe.org/archive-200412.html
http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/