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『週刊!木村剛』2004.05.13
モノ書きの老婆心:「匿名性」を護るために
http://kimuratakeshi.cocolog-nifty.com/blog/2004/05/post_1.html
皆さん、こんにちは。木村剛です。件の実名・匿名論争に際して、「要するに、木村は匿名が嫌いなんだろ」という風に思われた方も少なくないかもしれませんが、じつはそういうわけではありません。意外にも「匿名性は重要だ」と考えているのです。
「匿名性」に関する私のポジションは、ちょっぴり複雑なので、「正確にお伝えするには、かなり長い解説が必要かなあ」などと考え込んでいたときに、「スズメの巣」さんから、「人生の大半を実名の人として過ごしてきたきむたけさんと、特別な努力を払わない限り匿名として扱われるネットワーカー(もっと恥ずかしい言い方はないかしら)たちとの意識のズレが明らかになった記事+トラックパック集ですね」というご指摘をいただいて、頭の中が整理されましたので、「匿名性」に関連する私の一考を書き連ねてみたいと思います。
実名・匿名論争に飽きて「面白くない」と怒り心頭の「チップを弾むから勇気を分けてくれないか」さん、ごめんなさい。これで、しばらくこのネタは封印しますので、今回だけはお付き合いを ^^;) 「週刊!木村剛」では、これまで何度か「匿名性」に絡んで、ネタをアップしていますが、本日書き記す私の一考を読んでいただいた上で、もう一度読み返していただけると、私なりにそれなりに考えた上で発言していることを少しはご理解いただけることと思います。
私はモノ書きとしては、ペンネームの時代を含めますと、すでに15年以上のキャリアを持っています。ネットワーカーとしては、ニフティの初期にちょっぴりやっていただけで、本格的に再開したのは本年2月のブログからということになりますので、せいぜい足し上げましても1年の経験ということになるでしょうか。
モノ書きが15年でネットワーカーとしては1年ですから、ちょうど皆さんとは逆の経験を積んでいると言えるのかもしれません。私は「モノ書き→ネットワーカー」で、皆さんは「ネットワーカー→モノ書き」ということになりましょうか。
公の世界で、実名のモノ書きとして他者を厳しく批判するというのは、かなりの覚悟を必要とします。その対象がエスタブリッシュメントであればあるほど、相当のエネルギーとコストをかけておかなければ、自分が撃たれるからです。これは、批判されるとか・されないとか、誹謗中傷されるとか・されないという次元の話ではなく、経済的もしくは社会的に葬り去られるというリスクがあるということです。
まず、モノ書きは逃げることができません。それは、常に訴訟のリスクがあるということを意味しています。そして、皆さんが考えられている以上に、批判する文章に対する訴訟というものは頻繁に提起されています。したがって、批判する場合には、訴訟されても勝てる、あるいは裁判で負けない、もしくは負けたとしても書かなければならない、といういずれかの判断が必要になります。
その際、認識しておかなければならないのは、いかなる文章に対しても、慰謝料や損害賠償を求めて名誉毀損を訴えることはできるという事実です。すなわち、批判された側は、常に名誉毀損だとして訴える権利を留保しており、訴える際において「名誉毀損か否か」を判断するのは批判された側であるということです。書いた側が「この程度は名誉毀損に当たらない」と判断したところで何の抗弁にもなりませんし、「第三者からみても名誉毀損ではない」と主張しても「それは裁判所で判断してもらいましょう」ということになるだけです。また、「私は無名で影響力がないので問題ない」というのも言い訳になりません。
さらに、認識しておかねばならないのは、訴える側は裁判で勝つことを目的にしなくてもよいということです。裁判費用というのは意外にかかるものですし、準備もかなり面倒くさいので、長期戦になればなるほど、小資本のモノ書きは不利になり、大資本のエスタブリッシュメントが優位に立つという図式になっているからです。
また、書いた側がサラリーマンモノ書きなどの場合には、裁判になっているという事実だけで会社との関係が不味くなるでしょうし、仕事を抜け出して平日に開催される裁判所に行くことすら大きな負担になるでしょう。名誉毀損の慰謝料もしくは損害賠償額については、長い間、せいぜい100万円という時代が続いていましたが、最近は多少高くなってきており、1000万円を超えるケースも出てきました。
つまり、モノ書きの場合は、上述の現実を踏まえた上でも、なお、裁判になった場合には世論を味方につけることができると読む、または、裁判になっても揚げ足を取られないようなテクニックで書く、もしくはすべて腹を括った上で書く、ということになります。
また、モノ書きになれば、他のモノ書きから批判されたり、誹謗中傷・罵詈雑言されることは当たり前という世界に身を投じることにもなります(それが嫌なら、モノ書きになるべきではありません)。その際、モノ書きの世界では、原則として公の言論で決するという不文律はあるような(ないような)という感じです。
例えば、道路公団の民営化に関して、「偽りの民営化」(WAC出版)という本を書いた田中一昭氏(元民営化委員会委員長代理)に対して、猪瀬直樹氏が内容証明郵便を出して名誉毀損の訴えを仄めかしたという報道もありますから、決して御法度ということでもないのでしょう。
私自身に関して申し上げると、根拠のない誹謗中傷を繰り返す特定の方が何人かいらっしゃいますので、そうした方々への反論は、一般論に噛み砕いたうえで、公の場で議論を戦わせるということを基本としております。また同時並行的に、そうした方々に対しては、訴えて勝訴した場合に相手方に致命傷を負わすことができるだけの損害賠償請求の材料を集めるという作業も一応はしております(でも、そういう人々は、裁判になっても揚げ足を取られないような叙述テクニックがウマイんですね。これは、わが身を護る上で大変勉強になっています)。
さて、モノ書きの世界というのは、一面でこのように互いに身を削り合うシビアな世界でもありますから、皆さんご存知のように、裁判沙汰で有名な「噂の真相」が裁判の負担に耐えかねて廃刊に追い込まれたりしているという現実があるわけです。この「噂の真相」の廃刊についても賛否両論があるわけで、誹謗中傷された人たちは廃刊は当たり前だと思っておりますが、言論の自由を重んじる文化人の中には廃刊を問題視する方々も少なからずいるわけです。
私個人としては、「噂の真相」という雑誌はあまり好きではありませんでした。しかし、「自由な言論の場を護る」という意味で、「噂の真相」が存在していることの社会的な意義については評価していましたので、廃刊は残念です。先述しましたように、大資本のエスタブリッシュメントの力はものすごく強力ですから、裁判沙汰にさえすれば言論を封殺することができるということになると、極めて危険だからです。
そこで重要になってくるのが、「噂の真相」の代替を果たすメディアはあるのかということです。じつは、「噂の真相」が廃刊になったいま、日本における「自由な言論の場を護る」という意味で極めて重要なのが「2ちゃんねる」になっているのです。そして、その「自由な言論の場を護る」という役割を果たしているのが、ひろゆき氏であるわけです。
「PurpleMoon」さんが「だからホントに、誰とも知れないユーザーの発言の責任を取ってわざわざ自ら裁判所に出向くひろゆき氏は、良くやるなぁ…と思っちゃいます」と書いているように、私も、訴えられることにひるまない、ひろゆき氏の行動は素直にスゴイと思います。正直、ああいう闘い方は卓越した才能だと思います。もしも、ひろゆき氏が普通のサラリーマンだったならば、まず、同様の行動をとることはできなかったでしょう。
いずれにしても、現時点におけるネット上の「言論の自由」というものは、ここまで述べてきた「訴えられるリスク」というものを、ある意味で、ひろゆき氏が象徴的に「2ちゃんねる」の管理人として一手に引き受けているからかろうじて護られているのだという現状をきちんと認識することが必要であろうと思います。
その、ひろゆき氏が必死で護っている「2ちゃんねる」という枠組みの中で、匿名性というセーフティネットに包まれているから、「2ちゃんねる」のユーザーは言論の自由(誹謗中傷や罵詈雑言を含む)を謳歌できるわけです。私自身は「2ちゃんねる」をあまり好きではありませんが、そういう意味での「2ちゃんねる」の重要性については強く認識しています。
その意味で、ひろゆき氏は極めて賢い仕組みを作りました。「私はその書き手ではない。掲示板の管理者にすぎないから、書かれた内容には責任をとりかねる」という大原則を盾にして「2ちゃんねる」というインフラを護りながら、書き手については匿名性というセーフティネットを与えるという二重のディフェンスをしてくれているわけです。さらに申し上げると、インフラを支えているIT企業に対しても、「2ちゃんねるは、ひろゆき氏がやっているサービスであって、われわれには関係のないことだ」という言い訳までできるようになっているところがディフェンスとして極めて優れています。
しかし、ネット界だけではなく、世の中的に「2ちゃんねる」の認知度が上がり、ひろゆき氏の社会的なステータスが上がってきたときに、どのように「自由な言論の場を護る」のかということを真剣に考えておかないと、「噂の真相」の次に狙われる格好の標的になるということは覚悟しておいた方がよいようにも思われます。というのは、メディアとしての「2ちゃんねる」の構造自体は、新聞や雑誌と何ら変わるところがないからです。
新聞や雑誌においても匿名記事は数多くあるわけですが、その内容については、新聞社や雑誌社の責任が問われることは論をまちません。また、匿名記事だからといって、訴訟から逃れられるわけでもありません。その新聞社や雑誌社との関係にもよりますが、訴えられたときに匿名記事の書き手が新聞社や雑誌社から訴えられる可能性すらあり得ます。「2ちゃんねる」のユーザーは、ひろゆき氏が自らが訴えられたときに、ユーザーを訴えようと考えない寛容な心の持ち主であることにもっと感謝すべきです。
つまり、「特別な努力を払わない限り匿名として扱われるネットワーカー」の「匿名性」とは、自然発生的に護られているものなのでは決してないということです。それは、ひろゆき氏の勇気と善意にかなりの部分が支えられているということなのです。つまり、ユーザー自身が勝ち取った自由ではないということです。
もしも、ひろゆき氏がエスタブリッシュメントの圧力にすぐに屈してしまっていたとしたら、「2ちゃんねる」の匿名性は護られたでしょうか。あるいは、仮にひろゆき氏が求められるままにアドレスを開示したとして、ユーザーはひろゆき氏を責める権利を持っているでしょうか。個人情報の保護を声高に叫ぶだけの対価をひろゆき氏に支払っているでしょうか。
あるいは、「2ちゃんねる」という防波堤がなかったとしたときに、IT企業に対して直接名誉毀損の訴えを起こされたとしたら、IT企業は立っていられたでしょうか。ひろゆき氏と同じように、「われわれはITを提供しているにすぎないから、書かれた内容には責任をとりかねる」という説明をするだけで社会的に許されたでしょうか。
ネット関係のIT企業はリテール向けのサービスも提供しています。訴える側は、「この家電製品を売っているメーカーは、匿名のこんな誹謗中傷を放置しているような企業なんだ。そんなところを信用できますか」という搦め手も同時に使って攻めてくるでしょう。IT企業には絶対に護らなければならない社会的なステータスというものがあります。そういう搦め手には脆弱な面があるのです。
つまり、「ひろゆき氏+2ちゃんねる+匿名性」という偶然(?)の組み合わせが、ネットワーカーを「訴訟されるリスク」から護ってくれているわけで、これは権利でもなんでもなく、単なる事実上のラッキーなんですね。そういう現状を踏まえた上で、敢えて私の立場を申し上げると、「匿名はケシカラン」ということではないのです。私は、ネットを活用していらっしゃる方々に、「匿名性の下での言論の自由」というものをもっともっと大切に扱っていただきたいと申し上げたいのです。
さて、そこで問題となってくるのが「ブログ」です。ブログには、護ってくれる頼もしき管理人=ひろゆき氏はおりません。というのは、管理人は皆さん自身だからです。また、実名でなくともよいとはいえ、「2ちゃんねる」と比べればかなり特定されることになるでしょうし、批判された側が訴えることを決定し、関係するIT企業に対して「訴状を送りたいので、ブロガーの連絡先を教えてもらいたい」と正式に申し込んできた場合に完全拒否することは現実問題として難しそうです。しかも、「発言者=管理者」という構図なのですから、ひろゆき氏流の巧みなディフェンスも通用しません。
つまり、「ブログ」は、皆さんが個人で公に向かって発行している新聞であり雑誌なのであって、その言論の責任は皆さんが個人で背負っているということなのです。これは、ひろゆき氏によって、巧みにしかも無料で護ってもらっている「2ちゃんねる」とは全く違う世界だということを認識すべきです。「PurpleMoon」さんも「先日、わたしのところへ、とある企業さんから『この記事を修正しないと裁判も辞さない』という、脅しとも取れる内容の警告メールが届きました。もちろん、すっごい嫌な気分ですが(笑)、こういうものがまさに、わたしに与えられた『表現の自由』に伴う『責任』なのでしょう」という経験をしていらっしゃるそうですが、それはすべてのブロガーにとっての現実なのです。
したがって、他者を批判する場合には、「訴えられるかもしれない」という覚悟が必要なのです。私が3月16日の「Blogの未来はブロガーが創る」において、「個人的には、匿名性というセーフティネットに護られたネットにおける言論活動であったとしても、『殴られるかもしれない至近距離においても、面と向かって言うことができる内容、もしくは言わなければならないという覚悟を持った内容であることを望みたい』と思っています」と書いた背景にはそういう認識があります。
そのときのトラックバックや今回の一連のトラックバックを読んでいて感じましたが、いわゆるネット経験が長い方ほど、「実名でも匿名でも荒れるものは荒れる」「匿名を問題視するのなら、ネットデビューすべきではない」という書き方をしていらっしゃいます。モノ書き出身の私には、そこの点に少し違和感を覚えます。
というのは、いわゆるBBSの世界から「ブログ」の世界への移行は、単なるツールの変更にとどまらない可能性を含んでいるからです。他者を批判しているブロガーの方々は、ひろゆき氏並みの覚悟をお持ちでしょうか。ほとんどの方はブログではない本業によって生計を立てていらっしゃると思いますが、批判された側から訴えられたときの本業のダメージまで覚悟しているでしょうか。
訴えられたら、関連文書を削除したり、ハンドルネームを変えさせすれば許されると考えてはいないでしょうか。関連文書を削除したり、ハンドルネームを変えたところで、訴訟は取り下げられるとは限りません。訴える側が本気で一罰百戒を狙うならば、ブロガーは社会的に葬り去られる危険に間違いなくさらされます。簡単な話です。ブロガーを訴えて、訴えた事実を記した書面を、ブロガーが勤めている会社の社長に送りつければ、通常の場合それでゲームオーバーだからです。
その意味では、「PurpleMoon」さん自身に対して、警告メールを送るような企業はまだ紳士的なんです。先方が真剣に叩くことを考えているケースだったら、「PurpleMoon」さんの所属を突き止めた上で、会社の上司に対して、いきなり、「お宅では従業員の管理責任はどうなっているんだ」などとやりかねないんですから。
また、「誹謗中傷や罵詈雑言はリアルな世界でも日常茶飯事だから、ネットでも同じじゃないか」という見解も少なからずみられましたが、それは明らかに違うと思います。リアルな世界での誹謗中傷は、それこそ本人のいない前でコソコソやっている行為だから、法的には名誉毀損であっても気付かれないので訴えられないし、裁判になっても証拠がないということにすぎません。ところが、ネットでの誹謗中傷はいずれ本人に気付かれますから訴えられる可能性は高まりますし、裁判の際の証拠もネット上に残っています。したがって、ネット上の方が法的には弱いとも言えるわけです。ただ、その弱さを「匿名性」が護ってくれているわけです。
その意味で、トラブルや裁判沙汰を常に覚悟しながら、エスタブリッシュメントの方々に対してかなり辛口の批判を繰り返しつつも、かろうじて15年以上サバイバルしてきた年長(?)のモノ書きの一人として申し上げると、「特別な努力を払わない限り匿名として扱われるネットワーカー」の方々のスルドイ毒舌は、羨ましくも、微笑ましくもありますが、その一方で、脆さや危うさを感じます。要するに、「訴えられるリスク」に対する感覚――自分に危害が与えられるかもしれないという意識――が希薄なのです。
そういう意味で、私は悲しい予言をしておかなければなりません。
もしも、「特別な努力を払わない限り匿名として扱われるネットワーカー」の方々の意識が何ら変わらないまま、「ブログ」の世界に移行していくとすれば、「訴えられるリスク」が最悪の形で実現するであろうということです。特に、「2ちゃんねる」のノリを「ブログ」にそのまま展開している方は本当に気をつけておかれた方がよいと思います。ひろゆき氏という頼もしいガードマンはいませんし、匿名性を「2ちゃんねる」のときと同じ様に確保し続けることは難しいからです。
そして、もしそういうことが露見すれば、日本という社会は必ず過剰反応に走ります(これはいくつも実例があります)。きっと、必要以上の過剰規制(もしくは自主規制)をする方向に行ってしまうでしょう。ネット上の世論がどうであろうとマスコミは関知しません。現実問題として、ネット上の言論はマスコミの敵でもありますし、彼らがネット上で展開している言論は彼ら自身の自主規制の下にありますから。
私が危惧するのは、そのときに「2ちゃんねる」も一緒くたにされて、新聞や雑誌と同じような管理人責任を求められる危険性があるということです。「2ちゃんねる」だけでなく、ブログを含んだネットコミュニケーションの問題として攻め立てられたら、ひろゆき氏の頑張りだけではどうしようもありません。規制強化がなされれば、「2ちゃんねる」はその良さを失ってしまうでしょう(「2ちゃんねる」は「ひろゆき氏の新聞である」と認定されてしまったら、それでもう御仕舞いです)。本当に「噂の真相」的なメディアは日本からなくなってしまうかもしれません。
突き詰めますと、「匿名性」についての私の関心は、「匿名性の下での言論の自由」が護られるか否かという点に集中しています。もう少し分かりやすく言えば、エスタブリッシュメントが本格的に「2ちゃんねる」の「匿名性」を問題視し始めたときに、世の中は「2ちゃんねる」を擁護してくれるでしょうか、という問い掛けなのです。
私自身は「匿名性の下での言論の自由」を尊重する立場(=「2ちゃんねる」擁護派)ですが、そういう状況になったときに、最前線に立って「2ちゃんねる」を護るか、と問われれば、かなり躊躇するでしょうね(あそこまでボロクソ書かれていりゃ〜ねえ)。おそらく、「2ちゃんねる」を護る責任があるのは、それまで「2ちゃんねる」の下で「言論の自由(誹謗中傷や罵詈雑言を含む)」を楽しんでこられた方々になると思うのです。
そういう風に考えていくと、「匿名性の下での言論の自由」を将来的にも護っていきたいのであれば、「匿名性」に関して、世の中に受け入れられる自主ルールというものが必要になってくるということに気付かざるを得ません。くだらない誹謗中傷や罵詈雑言の自由を放任しているために、「匿名性」に対する嫌悪感を世の中で助長していくということが、真に護らなければならない「匿名性の下での言論の自由」を護っていく上で、如何に大きな障害となり得るのか、について思いを馳せなければならないように思います。
もし、「匿名性」のメリットを享受している方々が、「そうなったら、発言するのやめればいいだけじゃん」と軽くしか考えていないのであれば、「匿名性の下での言論の自由」など誰も身体を張って護ってはくれないでしょう。「匿名性の下での言論の自由」を護るのはネットワーカー自身であり、ネットワーカー以外にその価値の重要性を共有してくれる世の中の人はいないと思っておいたほうがよいと思います。残念ながら、これまでいただいたコメントを見る限り、「匿名性の下での言論の自由を楽しむ」という発想はあっても、「匿名性の下での言論の自由を護っていく」という視点はあまりみられなかったように感じます。
そういう意味で私は、「特別な努力を払わない限り匿名として扱われるネットワーカー」の方々に「匿名性」のありがたみをもっと大切にしてもらいたいのです。匿名であることに甘えた誹謗中傷や罵詈雑言を繰り返していると、「匿名性」を確保した上での「自由な言論の場」(「2ちゃんねる」などのBBS)は遅かれ早かれ実質的に閉ざされてしまう運命を避けられないのではないかと危惧します。
自らの意見を公にする方は、立派な社会人として扱われます。社会人として許されないことは、ネットの世界でも許されません。それは多くの方が指摘しているように、実名であろうが、匿名であろうが、同じことです。匿名であることに甘えて、必要以上の自由を謳歌すれば、いずれそのしっぺ返しは「匿名性の排除」という方向で跳ね返ってきます。
私はモノ書きとして、そして経営者として、「言論の自由」というものを確保していくために現実社会において闘い続けていくことの厳しさを体感しながら15年以上を過ごしてきました。皆さんのうちの少なからぬ方々のように、「言論の自由」は当たり前というカルチャーで育ってこられた場合とは感覚が違うかもしれませんが、私たちが住んでいる社会のリアルな現実を直視しておくことは少し必要なのではないかと感じます。
以上、多少皆さんよりは歳をとっている(しかし、皆さんよりもネット経験の少ない)モノ書きの老婆心でした。あ〜あ、すいません、やっぱり長くなってしまいました。最後まで読んでいただいた方に深謝。
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