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も知られていました。多くの残虐行為がありましたが、米国には何の反応もありませんでした。なぜなら、私たち米国が他国を侵略・攻撃し、一般国民をテロの脅威に陥れるのは、完全に合法的なことだと考えられていたからなのです。
一九六〇年代半ばになって、やっと大学での抗議運動に人が集まるようになりました。しかし勿論、その時ですら、反戦意識と抗議活動の水準は大学によって随分の違いがありました。その当時、私はハーバードとMITの両方で働いていましたから、私は実際この違いを自分の目で直接に見る機会を持っていました。
MITはペンタゴンとのつながりにもかかわらず、ハーバードでよりも、実際のところ、キャンパスでの反対運動はより活動的であり、異議申し立てにたいする敵意も少なかったのです。ベトナム戦争反対の地域での努力は、ほとんどMIT中心に行われました。サルバドール・ルリア[1912-91: イタリア生まれの分子生物学者;細胞遺伝学の研究によりノーベル生理・医学賞1969]は、MITにいましたが、ファシスト政権イタリアからの亡命者で、依然として献身的で戦闘的な左翼でした。彼は多くの活動を創始しました。
もし『ニューヨークタイムズ』に載せられた大学教授の全国的な意見広告を見れば、そのほとんどをMITが始めたということが分かるでしょう。ハーバードの教授も少しは参加しましたが、取るに足りない数でした。普通の基準から見れば、その当時のハーバードの教授陣がMITの教授陣よりリベラルだったということは間違いありませんが、オープンで、率直で、反骨的で、知的でかつ政治的な活動家は、私の経験ではハーバードよりもこのMITに多かったのです。
そういうわけで、平和活動だけでなく他の活動においても、教授陣の活動は通常、MITに集中していました。現下の諸問題に関する公開ミーティングでさえそうでしたし、少なくとも草の根運動を創始し参加した人々もまたMITでした。たとえば1967年あたりに始まった、様々な活動を支援するための全国的資金調達集団「レジスト」(抵抗せよ)も、その一例です。
そのような集団の大部分はMITから成長していったのです。もし運動に直接的に関わっている人のリストを見れば、その多くがMITの人であることを発見したでしょう。運動の当初から今日に至るまで、その集団の中にハーバードの教授陣はほとんどいませんでした。それが明らかに一貫した違いでした。もちろん百パーセントで