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既刊の回顧録の内容には反映されなかった、草稿の余白に書き込まれたナポレオン自身の修正や
コメントが興味深いです。
http://www.excite.co.jp/News/ (エキサイト・ニュース)
http://www.excite.co.jp/News/odd/ (エキサイト・世界びっくりニュース)
http://www.excite.co.jp/News/odd/00081102532413.html
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フランス語が下手だったナポレオンの回顧録、競売に
[ 2004年12月09日 03時59分 ]
[パリ 8日 ロイター] ナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝に戴冠して200年、パリで彼の直筆の回顧録の
草稿が競売にかけられ、高値で落札された。回顧録にはスペルの間違いが散見されるという。
ナポレオン直筆の13ページの草稿は、19世紀初めのこの小柄な軍事的天才の政治的・軍事的な勝利と敗北を記述
したもので7日、スイスの収集家によって25万ユーロ(約3475万円)で落札された。回顧録は、たくさんの修正と
活発な文体をもってしても隠せない事実 − 欧州大陸の大半を支配下に置いたLa Grande Armee(大陸軍)の
司令官が、フランス語に習熟していなかったことを示している。
このコルシカ人のスペル能力はひどいものだ。
回顧録は、1817年から1820年にかけてセント・ヘレナ島で執筆されている。セント・ヘレナ島は1815年にワーテルロー
の戦いでナポレオンが連合軍に敗北した後、英国によって流刑にされた南大西洋の絶海の孤島である。
競売人のエリック・ブフェットー氏は「回顧録は驚くべきものです。ナポレオンは戦いの20年後でも、
戦場の光景を克明に記憶しています」と語る。草稿には、1800年のジェノバ包囲戦におけるフランス軍の敗北に
関する長文の記述があり、後にフランス軍元帥となるアンドレ・マセナによる攻囲突破の試みが描写されている。
この草稿に基づいてナポレオンの死の2年後、1823年に回顧録が出版された。しかし、発行人は、草稿の余白に
書き込まれたナポレオン自身の修正やコメントの大半を無視している。草稿とともに競売にかけられたのは、
側近のシャルル・トリスタン伯爵によって口述筆記され、その後、ナポレオンが自ら修正を加えた遺言書で、
11万1000ユーロ(約1540万円)で落札された。
「わたしは寿命が尽きる前に、英国の寡頭政治と連中の雇った暗殺者によって殺されようとしている。
イギリス人はわたしに対する復讐を遅らせることはないであろう」とナポレオンは書いている。
「これを背景に当てはめると、かれらはセント・ヘレナのロングウッドにいたことになります。ナポレオンは自分は
殺されると考え、トリスタン伯爵を呼び、閉じこもって、遺言を口述筆記させたのです。そして変更と修正を加えた。
驚くべきものです」と語るのは競売人のアレクシス・ビレー氏だ。大半の歴史家は、ナポレオンは、彼の父親同様、
胃がんで死亡したという主治医の診断を是認している。しかし陰謀説を信じる人々は、ナポレオンの復活を恐れた
ルイ18世の密使によって砒素で毒殺されたと考えている。
[翻訳:ラプター(http://media.excite.co.jp/News/Newstranslator/)]
この記事はロイター通信社との契約に基づき、エキサイト株式会社が日本語翻訳を行っております。
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