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http://www.tokyo-np.co.jp/00/thatu/20040927/mng_____thatu___000.shtml
書家・CMディレクター 故根本光晴さん
絶筆で反戦への思い
終戦記念日の突然の訃報(ふほう)に、友人らは言葉を失った。「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」の名文句で有名な作品をはじめ、約千三百本のテレビCMを監督として手がけた根本光晴さん=東京都中野区=が八月十五日、脳こうそくで急逝した。六十四歳。折しも当日は、根本さんが主催する反戦書展の初日だった。華やかな世界で活躍しながら反戦の思いを深めていった根本さん。親交のあった永六輔さんら友人たちが二十七日、都内で「偲(しの)ぶ会」を開く。
根本さんが開いたのは書展「筆は銃よりも強し」。著名人や元特攻隊員らに呼びかけ、二十人に反戦の思いをつづってもらった。開幕当日の八月十五日未明、根本さんは書展を見ないまま入院先で永眠した。自宅で突然倒れてから十一日目。初の著書「90歳までスケジュールがいっぱい。」(実務教育出版)も出版されたばかりだった。
訃報は、事前に書展を取材していた記者にも驚きだった。急病を理由に、本人に会えなかったが、「すごい人」などと友人らが語る人柄に強烈な印象を受けた。直接会って尋ねたいことが幾つもあった。
主不在の書展会場に出かけると、根本さんの作品は白い花とともに飾られていた。題は「少年の遺文」。太平洋戦争中に勤労動員され、空襲で死んだ少年が「芋でないほんとうの飯を腹一杯たべたい」と書き残した文章をつづったものだ。
「根本さんの遺文にもなってしまったね」と、会場で訃報に接し、声を詰まらせる来場者たち。友人の作曲家小林亜星さんは「バカヤローだよ」と悔しげにつぶやいた。
根本さんのことをせめてもう少し知りたい…。改めて家族、友人らに尋ねることにした。
「あの人らしい最期でした」
根本さんの妻博美さんは、亡くなって一カ月余の今、そう振り返る。
「本人は入院後も、終戦記念日の開催にこだわり、中止や延期を促しても聞き入れなかった。亡くなるのが一日でも早かったら、準備は間に合わず、書展は中止になったでしょう。最後まで責任感の強い演出家でした」
そんな根本さんには二つの顔があった。
一つ目は、高度経済成長期で、CM業界華やかなりしころの「売れっ子CM監督」の顔。CM制作の世界にアルバイトとして入り、美大を中退してフリー監督に。長嶋茂雄さんらスターを三百人以上出演させ、海外や国内各地のロケをこなしながら月に七本の制作を掛け持ちしたことも。
手がけた作品は「せき、こえ、のどに浅田飴」「駅前留学『NOVA』」などCM史に残る。「いつも明るく元気。出演者、スタッフ問わず、人の扱いが上手で発想が豊か。業界の第一人者だった」と、一緒に仕事をしたCMカメラマン(70)。
しかし、CM業界はバブル経済崩壊の影響が真っ先に直撃。根本さんが経営するCM制作会社も例外ではなく、次第に、CM以外の世界に関心が向くように。
そして、二つ目は「多忙の波からふと頭を上げて考え込むことも多くなった」(著書より)末に、たどりついた書家としての顔だった。
遅咲きだったが、「麦」の字がキリンビールの麦焼酎のラベルに採用されるなど、堂々のプロとして活躍。雅号の「楽人(らくじん)」は、仕事人だけでなく、料理、ハワイアン音楽を楽しむ趣味人であることの象徴。「楽しいことが大好き」な根本さんらしかった。
書展は、十年前からほぼ毎年開催していたが、テーマは近年、深刻さを帯びていく。そして、最後は「戦争」。
博美さんは、その心境の変化を見守ってきた。
「世界中で戦火がやまない。しかも、長男が中学生になったことで、子どもたちが戦争に巻き込まれる恐れをより実感するようになったのだと思います。何とかしなければ…そんな思いが募ったのでしょう」
時代を駆け抜けた根本さん。偲ぶ会は二十七日午後六時、皇居前のパレスホテルで開かれる。
最初で最後となった根本さんの著書から「“九十歳までの約束”が六十四歳。それはないぜ! 根本ちゃん」と、偲ぶ会の案内状は友人らの思いを代弁している。そしてこうも呼びかけている。「それはそれは本当に悲しいんですが、楽しい会にしたい。泣きながら笑いましょう」
文・増田恵美子