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ラリー・ダイヤモンド/前暫定占領当局(CPA)上席顧問
What Went Wrong in Iraq / Larry Diamond
目次
・部隊増派を拒絶したペンタゴン 公開中
・イラク全土での治安の悪化 公開中
・ムクタダ・サドルの武装抵抗運動 公開中
・動員解除という難題
・混乱の原因
・イラク人による統治の模索
・イラク統治と国際社会
・新政府の樹立
・憲法、そしてクルドという難題
・イラクは民主国家になれるのか
・著者紹介 公開中
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論文の一部分を公開中です。邦訳文の全文は「論座」(朝日新聞社)2004年10月号、フォーリン・アフェアーズ日本語版および日本語インターネット版2004年9月号に掲載しております。
日本語版及び日本語インターネット版のお申し込みはこちら
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部隊増派を拒絶したペンタゴン
二〇〇四年六月二十八日にイラク暫定政府に主権が移譲され、アメリカによるイラク占領の政治的側面は唐突な終わりを迎えた。主権移譲は、切実に必要とされていたイラクにとっての新しい旅立ち、ある意味では希望に満ちた新しい旅立ちだった。しかし、主権が移譲されたからといって、この国が直面している急な対応を要する膨大な問題が消えてなくなるわけではない。当面は状況への対応に苦慮することになる。暴力的傾向がとめどない広がりをみせ、(民族・宗派を軸に)国は分断されている。経済も依然として機能しておらず、社会は瀕死の状態にある。こうした問題の一部が、サダム・フセインを追放するための戦争の余波として生じているのは事実だろう。避けようはなかったかもしれない。しかし、この国の現実は、ブッシュ政権が戦争前に約束した新しいイラク像とはあまりにもかけ離れている。アメリカが一連の読み違いを犯した結果、アメリカの占領がつくり出した現実は本来そうあるべき姿とは似ても似つかぬものになっている。長期的にも、民主主義を実現していける見込みは低下している。
ブッシュ政権が当初犯した誤算の多くはいまでは広く知られている。最大の間違いは治安対策に関するものだ。ブッシュ政権は、戦後イラクでの治安維持のための部隊を十分な規模で投入しようとはしなかった。当初から、軍事問題の専門家たちは数多くの部隊を投入する必要があると警鐘を鳴らし、〇三年二月には、エリック・シンセキ米陸軍参謀総長でさえも、イラクには「数十万規模」の兵力投入が必要だと議会で証言した。
北大西洋条約機構(NATO)がボスニアに投入した部隊規模を基準に考えると、イラクには五十万の兵力を投入しなければならない。だが実際には、イラクでの連合軍の規模はこの三分の一に達したことさえない。ラムズフェルド国防長官と文民の側近たちは、より大規模な部隊投入を求める要請をことごとく退けた。ラムズフェルドは、部隊が必要とするものすべてを与えると約束しておきながら、「そうした(増派)要請は歓迎できない」とコメントした。
議会で思うところを正直に証言したシンセキ陸軍参謀総長に対するペンタゴンの扱いは手厳しいものだった。制服組の軍高官たちは、次は我が身かと震え上がった。ペンタゴンは、彼の議会証言に対抗するかのように、任期満了の一年前に陸軍参謀総長ポストを後任に代えると発表し、シンセキは軍内部でレームダック(死に体)状況に追い込まれてしまったのだ。暫定占領当局(CPA)のトップがイラクの治安を確保するにはもっと大がかりな軍事行動が必要だと公言しても、イラクに駐留する士官や兵士たちが、兵力や装備が増強されないことに対する不満を口にできる状況ではなかった。
三十万規模の兵力が投入されていれば、イラクの治安を何とか確保できていたかもしれない。だがその場合でも、部隊構成を変え、活動内容を見直す必要があった。連合軍は憲兵を増やすべきだったし、都市部のパトロール、群衆の管理、再建・復興、平和維持と平和強制のための部隊をもっと投入すべきだった。洗練された装備をもつ数万の部隊をシリアやイランとの国境沿いに配備して、外国からのテロリスト、イランの情報スパイ、資金や兵器の流入を阻止するための任務にあたらせるべきだった。
しかし、ワシントンはそのような措置をとらなかった。軽装備・小規模の部隊でイラクを占領することを決定していたからだ。うぬぼれがあった。既定路線へのこだわりがイデオロギー化していた。国防総省の少数の集団は、イラクの再構築に関する国務省の中東専門家の態度を甘すぎると決めつけ、国務省が書き上げていた詳細な戦後計画「イラクの将来」プロジェクトを完全に無視した。この国務省文書は、戦争後に実際に経験することになる数多くの問題を事前に想定していた。だが、ペンタゴンの政策立案者たちは、最悪の事態に備えるどころか、イラク人は米軍及び国際部隊を「解放者」として熱烈に歓迎すると考えていた。「サダム・フセインの軍事・治安部隊をアメリカが粉砕し、短期間で民主的な国家を建設するであろうアハマド・チャラビのような亡命イラク人に政治を委ねれば、イラク人はアメリカ人に好感情を抱くようになり、これをうまく利用できる。大規模の部隊は必要ない。一年もすれば、部隊規模を数万人レベルへと削減できる」。これがペンタゴンの考えだった。
もちろん、戦争直後からの治安の悪化を前に、こうしたナイーブな前提はもろくも崩れ去った。戦争の被害を逃れたイラクの資産、経済と機構上のインフラが暴徒たちによって組織的に略奪され、放置されるのを前にしても、米軍は立ちつくすしかなかった。こうした事態に対応しようにも、人員も装備も十分ではなかった。しかも、略奪行為は、社会秩序の崩壊がもたらした一時的現象ではなく、アメリカの占領に対する組織的で周到な軍事路線、資金源に支えられた抵抗路線だった。だがブッシュ政権は、この点が明らかになった後も、頑迷に部隊増派を拒絶するという間違いを犯し続けた。
ブッシュ政権の高官たちは、抵抗勢力もいずれ粉砕できると自らを欺くかのように信じ込んでいた。「〇三年の夏が終わり、再建のための資金が流れ込み、政治移行プロセスが開始され、サダム・フセインが拘束され、暫定政府が立ち上げられれば、武装蜂起もなくなっていく」と。ベトナムの時と同様に、ワシントンはいまにも風向きが変わると考え続け、民衆の不満の深さを理解しようとしなかった。
イラク全土での治安の悪化
〇三年五月から〇四年六月まで、ポール・ブレマー文民行政官の下、CPAはイラクの社会・経済の再建を試みる一方で、力強く民主的で正統性を備えた政府へ権限を移譲するために大いに努力した。私がイラク統治担当のCPA上席顧問を短期間務めた〇四年前半に、アメリカ政府が現地での数多くの問題を是正していったのは事実だ。しかし、CPAが実現しようとしたもののすべてに対する障害となった治安問題を抜きにして、これまでの政治的記録を振り返ることはできないだろう。
破壊され、戦争に苛まれた国を再建する際、その成否の鍵を握る重要なポイントは四つある。第一は正統性(市民の支持)と行政能力をもつ国を政治的に再建すること。第二は、物的インフラを含む経済の再建と市場経済のためのルールと制度の形成。第三は、市民社会の再生を含む社会の再構築と、自発的な社会協調を促し、国の権力を制限するような政治文化の育成。そして第四は、安全で秩序立った社会環境を形成する前提である全般的な治安の確保である。
この四つの要素は互いに密接に関連し、影響し合っている。法を基盤とし正統性をもつ機能的な政府がなければ、経済や物的インフラの再建は遅れ、投資家が雇用や富を創出するような資金を投入することもない。経済領域でみるべき進歩を遂げられなければ、新政府が政治的正統性を確立し、維持していくことはできないし、政府の行政効率も直ちに低下していく。また、形成途上の市民社会における市民の連帯と協調という形での社会資本が整備されなければ、経済が力強く、多様な発展を見せていくこともないし、新しい形態の政府が適切に監視されることも、支持されることもない。そして、治安が確保されていなければ、社会のすべての活動が停止することになる。
国家が崩壊している戦後の環境にあっては、治安の安定が何にもまして重要になる。治安こそ、その他の社会活動のすべてを支える基本である。最低限の治安がなければ、貿易も商業もできないし、社会を組織して再編することもできない。ましてや市民が政治に参加することもない。治安が確保されていなければ、そこにあるのは混乱、不信、絶望だけだ。不安が状況を支配し、力が物を言う「万人の万人に対する闘争」のごとき状態になる。暴力に支配された社会で秩序の回復を約束する政治勢力が現れると、それが抑圧的な勢力であっても、民衆がこれを頼みとするのもこのためだ。民主主義を実現するにはまず国家が存在する必要がある。そして、国家が成立する前提として、武力を保有するのは国家だけでなければならない。この意味で言えば、アメリカが六月二十八日に権限を移譲した相手は政府かもしれないが、それは国家ではなかった。
イラクに投入された部隊規模が不十分だったとはいえ、それでも、主権を移譲する前に、治安を確保し、無秩序をつくり出す勢力を封じ込めるためにより多くのことができたはずだ。だが残念ながら、CPAは任務を果たすための資源も、状況への十分な理解も、策を講じるための組織ももっていなかった。例を挙げよう。イラク警察の創設の試みがうまくいかなかったのは、計画が不十分なのに急ぎすぎた結果、警察組織が効率に欠け、無力な存在のままだったからだ。イラク人警官は任務をこなせるような訓練を受けていなかった。装備も貧弱だった。警官の多くは制服こそ着込んではいたが、車もラジオも防弾チョッキもなく、多くの場合、犯罪者、テロリスト、破壊活動者たちよりも貧弱な装備しかもっていなかった。新生イラク国家のシンボルとなった警察は、テロリストの格好のターゲットとされ、連合軍の助けも、あまりに小さく、手遅れであることが多かった。
イラク人政治家、政府官僚、そして、CPAの官僚とそのイラク人スタッフは、こうした治安の悪さゆえに大きな代価を強いられた。占領期のイラク政府の高官やイラク統治評議会(GC)の輪番議長を含む、百人を超えるイラク政府関係者が占領中に命を失った。占領体制に協力するイラク人、特に通訳たちがテロのターゲットにされ、これによってCPAとイラク人がコミュニケーションを図るのはますます難しくなった。CPA関係者の犠牲者は少なくてすんだが、その多くが攻撃を受け、CPAと契約を結んだ民間企業関係者の多くが殺され、誘拐された。
治安問題ゆえに、アメリカによる政治的占領とイラク人の間に大きな心理的・物理的溝が生じてしまった。CPAの本部は「グリーンゾーン」と呼ばれる三平方マイルの安全強化ラインの内側に存在し、地方や州のCPA事務所の周辺にも同様に厳重な警戒態勢が敷かれていた。治安の悪化ゆえに、CPAの官僚たちはますます外に出かけようとはしなくなり、〇四年の春までには、CPAの官僚と民間の受注業者は、装甲車と武装した兵士のエスコートなしでは国内を移動できなくなっていた。
ムクタダ・サドルの武装抵抗運動
ムクタダ・サドルへの対応からも明らかなように、政治的脅威に対抗していくというCPAの決意は強くなかった。急進派の若手シーア派指導者であるサドルは、自らの権力への野望のために、反米主義、ナショナリスト感情及びイスラム主義感情を煽り立てて利用した。サドルは、一九九九年に殺された彼の父親、あるいはより高位で民衆に尊敬されているシーア派の指導者のような宗教的知識や権限はもっていなかったが、不満を募らせ、失業し、教育レベルの低い都市部の若者たちをうまく取り込んだ。CPAは彼とマフディ軍団に対する対策を速やかにとるべきだった。シーア派指導者のなかには、サドルに「政治プロセスのなかで活動するように」となだめる者もいたが、穏健派シーア派の多くは、CPAが彼に法的、軍事的な対抗措置をとることを求め、CPAの一部官僚もこれを支持していた。だが、結局、CPAは状況を放置した。二〇〇三年八月にイラクの中央犯罪法廷は、サドルと彼の十一人の側近たちに「シーア派指導者アヤトラ・ホエイを〇三年四月に殺害した容疑」で逮捕状を出したが、CPAはこの逮捕状を事実上封印し、その後もサドルは攻勢を続けた。現地のアメリカ人の官僚は大いに悩みつつも、議論するばかりで結論を出せなかった。
むろん、CPAの有力者たちも、イラクに安定した秩序を根づかせるにはサドルの武装勢力を解体する必要があることは十分理解していた。軍団粉砕のためのさまざまな計画が検討された。しかし、迅速な対応はとられなかった。鎮圧作戦を実施するのはリスクが大きすぎるとワシントンが考えたからだ。イラク戦争という国際社会で人気のない企てを実施するだけの大胆さをもっていたブッシュ政権は、サドルがシーア派教徒の大多数と宗教エスタブリッシュメントに嫌われていたというのに、この悪漢に対峙するのを奇妙にも尻込みした(訳注:米軍はその後〇四年八月初旬からサドル率いる勢力に対する大規模な鎮圧作戦を実施した)。
サドルによる挑発行為、危機の兆候など、彼らを粉砕すべき正当な理由はいくらでもあった。例えば、〇三年十月の段階で、連合軍部隊は、サドルのマフディ軍団がカルバラの町や寺院を占拠しようと、バスに乗り込んで大規模な移動をしていることを突き止めていた。〇四年三月には、彼らはカウリーヤというジプシーの村に侵攻し、この村の住民の大半にあたる千人を村から追い出しただけでなく、イラクのシーア派地域におけるもっとも有力な親米派の宗教指導者サイード・ファルカッド・アウキズウィニの暗殺を公然と呼びかけた。
六カ月間にわたって、サドル率いる組織は規模、力、そして大胆さを増していった。タリバーン同様に、社会的権力を掌握することを目的とするマフディ軍団は、公共ビルを占拠し、キャンパスに押し入って穏健派の教授に乱暴し、教室を占拠した。それだけではない。女性にハジャブをまとうように強制し、勝手にシャリア(イスラム法)に基づく法廷を開き、残忍な裁定を下して実行した。軍団は新しい人材をリクルートし続け、彼らにテロと騒乱を起こすための訓練を与えた。
最終的に連合軍はマフディ軍団の粉砕に乗り出したが、計画は場当たり的だったし、その作戦は考えられないほどに混乱していた。三月二十八日、ブレマーは、民衆を煽り立てる報道を続ける、事実上のサドルの機関紙・アルハウザ紙の閉鎖を命じた。だが、サドル率いるもっと危険な組織・マフディ軍団については何も対策をとらなかった。サドルは支持者たちにアメリカの占領に対して立ち上がるように求めた。四月二日に、連合軍部隊はサドルの側近であるムスタファ・ヤクビを逮捕したが、彼はこれに呼応して、南部のシーア派地域で一大攻勢に出た。マフディ軍団は、ナジャフ、カルバラその他の戦略的に重要な都市を支配下に置くとともに、北部のファルージャの町を支配していたスンニ派反乱勢力と水面下で手を結んだ。その後米軍は、ファルージャに秩序をもたらすことを誓うにわか仕立ての軍事勢力を支持することを決める一方で、ついにマフディ軍団との戦闘に挑み、彼らの拠点の多くを粉砕し、指導者の多くを殺害した。しかし、サドルの行方はわからないままだ。彼は連合軍の出頭要請を鼻であしらい、いまも権力を手にしようと画策している。
……
Larry Diamond スタンフォード大学・フーバー研究所上席研究員。二〇〇四年の一月から四月まで、CPAの上席顧問を務めた。ジャーナル・オブ・デモクラシーの共同編集者。専門は民主主義とアメリカ外交、ポスト紛争国家の民主化など。
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