現在地 HOME > 掲示板 > 戦争59 > 226.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
(回答先: Re: にわかに注目のアフリカ産油諸国(Le Monde diplomatique) 投稿者 古米 日時 2004 年 8 月 30 日 14:21:52)
http://www.diplo.jp/articles04/0407-2.html
アフリカにおける米国の軍事政策再編
ピエール・アブラモヴィシ(Pierre Abramovici)
ジャーナリスト
訳・吉田徹
2004年3月23日から24日にかけて、アフリカ8カ国(チャド、マリ、モーリタニ
ア、モロッコ、ニジェール、セネガル、アルジェリア、チュニジア)の参謀総長が、
独シュツットガルトにある米欧州軍本部(EUCOM)での非公式会合に初めて参加し
た。内容は明らかにされていないが、この「前代未聞」の会談は「テロに対するグロ
ーバルな戦いにおける軍事協力」についてのもので、サヘル地域での協力のあり方が
討議された。サヘル地域は、マグレブ諸国とブラック・アフリカの間、つまり北アフ
リカの油田地帯とギニア湾岸の間に横たわる油田地帯との緩衝地帯を構成する。
ここ数年で米国のアフリカに対する政治的、軍事的関心は大いに高まっている。
2002年9月にはパウエル国務長官がガボンとアンゴラを訪問(訪問したという事実を
示すだけの一時間のみの滞在であったとしても)、そして2003年7月にはブッシュ大
統領がセネガル、ナイジェリア、ボツワナ、ウガンダ、南アを訪問した。さらにはシ
ュツットガルト会合の二週間前に、EUCOMのワルド副司令官が10カ国(ガーナ、アル
ジェリア、ナイジェリア、アンゴラ、南ア、ナミビア、ガボン、サントメプリンシ
ペ、ニジェール、チュニジア)を歴訪している。
より示唆的なのは、2004年3月にサヘル諸国4カ国(マリ、チャド、ニジェール、
アルジェリア)が行なった「布教と聖戦のためのサラフィスト集団(GSPC)」に対す
る軍事行動に、米国が間接的に関与したという事実である。「アブデルラザク・ル・
パラ」の名で知られるGSPCのナンバー2、アマリ・サイフィは5月に入ってチャドで
拘束されたと伝えられる(1)。その翌月、アルジェリア軍がGSPCの最高幹部であるナ
ビル・サハラウィを射殺したと発表した。米国は、GSPCを武装イスラム集団(GIA)
とともにテロ組織のリストに載せており、さらにアル・カーイダとの関係を疑ってい
る。GSPCは2003年初頭に、サハラ砂漠のアルジェリア地域でヨーロッパ人観光客32人
を誘拐したことでその名を広く知られるようになった。4カ国合同による対GSPC作戦
は、米国とアルジェリアとの緊密な協力関係を印象付ける、初めての行動だった。
2004年1月以降、GPSCとの戦闘を遂行するための相当量の支援が各国部隊に対して
米軍から提供された。この支援は、2003年11月から実施に移されたパン・サヘル・イ
ニシアティブ(PSI)の枠内で行なわれた。PSIとは、2004年度予算で650万ドルを投
じられ、マリ、チャド、ニジェール、モーリタニアによる「密輸組織、国際犯罪とテ
ロリスト運動」に対する戦いを支援する目的で作られた軍事支援プログラムである。
今回の作戦では、約250トンの物資と350名の兵士がスペインにあるロタ航空基地か
ら二週間のうちに現地に空輸された。部隊と物資が運ばれた後、英空軍基地ミルデン
ホールとレーケンヒースから防空機材も送られた。さらに援護部隊として、CIAと関
係を持つ第352特殊作戦グループが派遣された。作戦実施の数週間前には、シュツッ
トガルトに駐留する第10特殊部隊グループが、マリ軍の訓練指導のために派遣されて
いる。
3月23日には、「PSIはテロに対する戦いのための重要な手段であり、特にアルジェ
リアとマリ、ニジェールとチャドの間をはじめ、これまで見過ごされてきた地域での
協力関係を築くことに成功している」と、国防総省国際安全保障局でPSIを統括する
ヴィクター・ネルソンは述べている。彼は「われわれはかつてから、アフガニスタ
ン、パキスタン、イラクやその他の地域でテロリストに対する締め付けを厳しくしす
ぎると、彼らは新たな活動地域に流れ込むとみている。その中にはサヘル地域とマグ
レブ地域も含まれている」という(2)。
冷戦直後は休止状態にあった米国のアフリカへの軍事関与は、ブッシュ大統領のア
フリカ訪問からシュツットガルト会合までのわずか9カ月間に増大した。米国が、ア
フリカ大陸を供給源とする一次産品にいかに依存しているかということを悟ったため
だ。鉄鋼業に必要なマンガン、とりわけ航空機の製造に不可欠な合金の素材となるコ
バルトとクロム、その他にもヴァナジウム、金、アンチモン、フッ素、ゲルマニウ
ム、そして忘れてはならないのが工業用ダイヤモンドだ。コバルトの世界埋蔵量の半
分がコンゴ民主共和国(旧ザイール)とザンビアに、クロムの98%がジンバブエと南
アにあり、南アにはこの他に白金族(プラチナ、パラジウム、ロジウム、ルテニウ
ム、イリジウム、オスミウム)の90%が埋蔵されている。さらに、21世紀に入って石
油資源を求める動きが、米国にとってアンゴラやナイジェリアといった国々の重要性
を増すことになった。
「平和維持」と「人道支援」のための訓練
1992年12月9日に開始、94年3月31日に失敗のうちに終結した米国のソマリア介入の
後、クリントン大統領は対アフリカ戦略を練り直した。それは、99年3月15日から18
日にアフリカ8つの地域機構の長と83人の閣僚、そして米国の長官級を集め、ワシン
トンで初めて開かれた大規模なサミットの形で結実する。このサミットの目的は、
「米国とアフリカの協力関係を強化」して、「21世紀における経済発展、貿易、投
資、政治改革、より互恵的な経済成長を促進」するというものだった(3)。アル・カ
ーイダによるとされる98年のナイロビとダルエスサラームの米大使館爆破事件の関連
でテロリズムも議題に上ったが、最大の成果は、アフリカ産品への米国市場開放を拡
大するアフリカ成長機会法(AGOA)がサミット後に採択されたことだった。
他方で、より密やかに1990年代中盤から徐々に進められたのが、整合的な軍事支援
システムの展開だった。1996年に、米国はアフリカ危機対応部隊(ACRF)を創設し、
間もなくこれがアフリカ危機対応イニシアティブ(ACRI)へと改組された(4)。ACRI
の公式任務は、「平和維持」と「人道支援」のための訓練実施であり、提供される機
材は「殺傷を目的としないもの」だった。しかし、ACRIの実際の目標は、アフリカで
のテロ勃興などに対処すべく現地軍を近代化し、米軍基準に適合させることにあっ
た。同時に、ソマリアで起きたような悲劇を回避することも目的とされた。
ACRIは国務省の発案によるものだが、実際の作戦の調整、とりわけ特殊部隊の展開
についてはEUCOMが責任を持つ。そこには、ノースロップ・グラマン・グループのロ
ジコン社や、ミリタリー・プロフェッショナル・リソース(MPRI)社といった民間軍
事企業が兵站支援、すなわち物資や「民間専門要員」を提供する形で関与している。
MPRI社は、米退役軍人が中心となって経営する保安コンサルタント会社で、イラクを
含む世界各国の政府と契約を交わしている。
ACRIは人道支援を目標として掲げているが、訓練プログラムの調整官を務めている
のは、ネスター・ピノ=マリナ大佐という人物であり、その軍歴は圧巻である。もと
もとキューバ難民であるこの人物は、1961年に失敗に終わったピッグス湾上陸作戦に
参加した後、ヴェトナムとラオスで特殊部隊に所属した。レーガン政権期には米州防
衛評議会(IADB)におり、90年代にはニカラグアのコントラ(反革命軍)に加担して
サンディニスタ革命政権に対する非合法活動に関与した。さらに、中米への武器提供
の資金源として麻薬密輸に関与したとの嫌疑もかけられている。
ACRIの訓練プログラムは、兵員の基本能力や戦闘隊形の展開能力、司令部の統率力
の向上を主眼としている。このプログラムは「最小の装備と最大の訓練」という理念
のもと、標準化、相互運用性、指導員の養成、透明性、支援、チームワークという6
つの「重点領域」に注力する。さらに、フランスや英国、ベルギーなどと協力し、こ
れらの国々が主導するプログラムにACRIの訓練基準を採用させる計画もある。
ACRIは1997年7月から2000年5月にかけて、セネガル、ウガンダ、マラウイ、マリ、
ガーナ、ベナン、コートジヴォワールの各国で、大隊すなわち800人から1000人規模
の部隊の訓練を行なった。国務省は8000人以上に軽装備品(発電機、車輌、地雷探知
機、暗視装置など)、そして通信機材を配給した。この計画には、2002年度予算で
3000万ドルが計上された。
ACRIは、米国が1990年代初頭から、国防総省の主導で断続的に展開してきた一連の
軍事、民間支援プログラムの延長上にある。これはマリのケースについてとりわけ当
てはまる。
同様に、2001年7月にはACRIのもとで400名のセネガル兵が「心理戦」の訓練を受け
ている。ピノ=マリナ大佐によれば「北大西洋条約機構(NATO)で運用されている指
針は完全に習得された」(5)。また「平和維持活動の準備作業」として、65人の将校
を対象とする政治・軍事セミナーも実施された。この演習の眼目は、人工衛星を利用
して、危機管理シミュレーションを体験することだった。演習の基本となった「ヤヌ
ス・プログラム」はロジコン社によって開発された。一貫して目指されていたのは、
ペンタゴン規格との統合性と相互運用性であり、米国製機器の長期にわたる利用であ
る。
拡大する軍事関与
しかしACRIは、米国のアフリカに対する拡大する軍事関与の一部分にすぎない。例
えば、1999年に米国防大学の附置機関として設立されたアフリカ戦略研究センター
(ACSS)がある。この研究所は高級将校だけでなく、文民のリーダー(政治家、市民
団体代表、企業経営者など)を対象とした教育を施している。内容は、軍民関係や国
家安全保障、国防経済などとなっている。2003年5月にはマリで、サヘル地域におけ
る対テロ活動に関するセミナーが開催され、これにアルジェリア、チャド、マリ、モ
ーリタニア、モロッコ、ニジェール、ナイジェリア、セネガルの各国が参加した。フ
ランスとドイツの代表もまた出席している。
9・11テロの後、米国はアフリカでの軍事関与の姿勢を強めた。「テロに対する戦
い」がその大義名分になっている。ブッシュ大統領は、2003年7月のアフリカ各国へ
の歴訪の際、「われわれはテロリストがアフリカの人々を脅威にさらすことを許さな
いし、アフリカの地を世界を脅かす拠点として利用することも許さない」と謳いあげ
た(6)。
2002年春に、ブッシュ政権はACRIを「アフリカ緊急作戦訓練支援(ACOTA)」へと
改組した(ペンタゴンは「再編成」と称している)。ACOTAは「平和維持と人道支
援」に加えて、攻撃訓練をも任務とするようになった。正規歩兵部隊や、特殊部隊方
式の小部隊向けの訓練、さらに「敵対的」状況に対応するための訓練などである。こ
うして、アフリカ諸国の軍隊には、標準仕様の攻撃用装備(突撃ライフル、機関銃、
迫撃砲など)が備えられることになった。そしてワシントンは、ACRIの時のように
「殺傷を目的としない」武器という言葉を用いるのをやめ、「攻撃」レベルの協力関
係を強調するようになった。「ACRIのもとで展開された部隊が安全を脅かされるよう
な状況におかれることがなかったのに対し、事態の沈静化を任務とするACOTAの部隊
は危険への対処を予定しなければならない」とするのである(7)。
ACOTAはまた、「統合共同武器訓練システム(JCATS)」の軍事訓練センターと連携
している。これらのセンターは、専門技能と軍事的準備という点から「不可欠」とさ
れる。最初の訓練センターは、ナイジェリアのアブジャに2003年11月25日に開所し
た。JCATSのセンターはMPRI社によって運営されており、訓練の中心は「実際の戦場
の環境を再現するような高度な戦争シミュレーション」におかれ、「JCATSのソフト
を保有するのはナイジェリアとカナダしかない」という(8)。パン・サヘル・イニシ
アティブの統括責任者で、ナイジェリア駐在経験のあるネルソン大佐は、「JCATSは
幹部養成のための安価な方法ゆえ、資金的に余裕のない国でも利用することができ
る。21世紀に入って米軍がすでに行っているように、二週間ほど集団で軍事演習を行
なうということだ」と説明している(9)。
ACOTAのほかにも、アフリカの44カ国も参加する「国際軍事教育訓練プログラム
(IMET)」というものがある。将校を対象とし、2002年には1500人以上が訓練を受け
ている。主要7カ国(ボツワナ、エチオピア、ガーナ、ケニヤ、ナイジェリア、セネ
ガル、南ア)のIMET総予算は2001年の800万ドルから、2003年には1100万ドルにまで
増額されている。さらに、「アフリカ地域平和維持プログラム(ARP)」があり、攻
撃戦術に関する訓練と軍事技術移転が行なわれている。2001年から2003年にかけて
ARPには推定1億ドル近くの予算が投じられた。
米国の対アフリカ戦略は、次の二つを主軸にしているといえる。まず、重要市場お
よびエネルギー資源その他の戦略的資源への無制限のアクセスを開き、次に、一次産
品の米国への搬送を主要目的として、輸送路の安全を軍事的に確保することである。
「湾岸戦争で米国人が学んだのは、米国の輸入石油への依存を制限するために犠牲を
払うよりも、中東の人々の尻を蹴り飛ばしに出兵するほうがよほど簡単ということ
だ」とは、カーター政権下で国務長官を務めたジェームズ・シュレシンジャーが、今
をさること1992年9月に第15回世界エネルギー会議で発した言葉である。
石油と戦略的位置と
米国の関心は、当然アフリカの石油にある(10)。2002年9月5日にパウエル国務長官
は、ヨハネスブルクの地球サミットに参加した帰路、産油国であるアンゴラのルアン
ダとガボンのリーブルヴィルに立ち寄っている。専門家たちは、10年後には中東に次
いでアフリカ大陸が第2の石油の輸出元になり、天然ガスについても同様となる可能
性があると断言している。「事態が沈静化する」のを期待はするが、ということであ
る。
米国の軍事筋は、西アフリカのチャド=カメルーン間のパイプラインと東アフリカ
のヘグリッツ=ポートスーダン間のパイプラインの2本を、戦略的ラインとみてい
る。さらには、チャド=スーダン間にもパイプライン建設計画があるといわれてい
る。
2003年7月に、ナイジェリアとの境界地帯に豊富な石油資源を有するサントメプリ
ンシペでクーデタ未遂が起こると、ワシントンの関与は加速した。そのわずか3カ月
後には、ナイジェリア、赤道ギニア、サントメプリンシペが領海権を有するギニア湾
の深海採掘に対して、主に米系石油会社から5億ドルが投資されている。これは、3
カ国が期待していた額の二倍に相当する。
勢い付いた米軍は、現地諸国の小規模な治安部隊に対する支援計画を発表した。軍
事基地の建設も検討されているという。米議会とブッシュ政権は、米国にとって同地
域には「死活的に重要な利益」があると公式に認めた。国務省と国防総省を中心に丹
念な地均しが進められた。EUCOMのフルフォード副司令官(当時)が2002年7月にサン
トメプリンシペに赴き、西アフリカ地域部隊の可能性を打診する一方で、MPRI社がギ
ニアとアンゴラの沿岸警備隊に訓練を施している。
米国はまた、あらゆることを口実としてアフリカ各国との協力の糸口を探ってい
る。例えば、南ア軍が大規模な作戦を展開するのは、兵士が「かなり」の割合でHIV
に感染していることから無理であり、その弱点を補強するためには米国からの大規模
な支援が必要だと主張した。その結果、南アはACOTAに参加する意向を示すようにな
った。興味深いことに、南アの兵士全員が感染者であるとは思いがたい。そのうち数
千人が、民間企業によってイラクに展開する「民間補充兵」として雇われているから
だ。
米国が南アに関心を持っている理由は実のところ、その戦略的位置にある。冷戦
中、南アが自国基地を提供した結果、米国はアフリカからディエゴガルシアの海軍基
地までのインド洋を支配下におくことができた。南アはそれと同時に、モスクワの息
がかかっていると思しきアフリカ諸国の解放勢力を撃退するために欠かせない拠点で
もあった。2001年にヒューム在カメルーン米大使は、南アと米国は「民主主義、市場
経済と万人にとってより良い未来という価値観を共有している」と喧伝している
(11)。
米国のアフリカへの軍事関与は、フランスのような旧宗主国の伝統的な勢力圏を当
然侵食することになる。世界の最貧国のひとつで、何の資源もない砂漠地帯のジブチ
が良い例である。見たところ何の価値もないが、戦略的には重要な位置を占める。同
国は、世界の25%の石油資源が通過する海域にせり出しており(スーダンの油田地帯
との距離については言うまでもない)、また、米国が「安全確保」に注力するサヘル
地域からアフリカの角にいたる戦略的ベルト地帯にも位置しているのである。フラン
スがここに主要な海外拠点であるルモニエ基地を保持する一方で、米国も恒久的な軍
事拠点を築きつつある(12)。
EUCOMのワルド副司令官は、アフリカに多くの時間を割いている。2004年3月には一
週間で11カ国(モロッコ、アルジェリア、ナイジェリア、アンゴラ、南ア、ナミビ
ア、ガボン、サントメプリンシペ、ガーナ、ニジェール、チュニジア)を回った後、
ワシントンでアフリカのジャーナリスト向けの記者会見を開き、米仏関係の重要性を
強調して、続けて次のように述べた。「アフリカには、フランスと歴史的に関係の深
いフランス語圏諸国がある。(・・・)フランスがそうした意味で関与する可能性は
ある」(13)。このあまり巧みとは言いがたい表現で示されたのは、アフリカに関して
負担は分担させた上で、米国の政治的プレゼンスを確立するということであった。
==参考資料目録省略==
(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2004年7月号)
All rights reserved, 2004, Le Monde diplomatique + Yoshida Toru + Okabayashi
Yuko + Saito Kagumi