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沖縄返還祖国復帰の短絡民族主義は世界全体への裏切りだった。
「沖縄を返せ!」ではなく、安保条約廃棄、日本の真の独立への正道の戦いが、今、問われているのである。
イラクを云々する前に、自分の住む国が、「実は独立していない」、「アメリカの属州でしかない」、「アメリカの世界最大の軍事基地でしかない」という厳然たる事実に気付くべきなのである。
私は、1961年に入社した日本テレビで1972年の3月に出勤停止処分、9月27日に解雇され、16年半の争議を経験した。
学生時代の1960年安保闘争では国会突入、しかし、日本共産党除名組のブント系、共産主義同盟の暴力体質を知り、そちらの誘いには乗らなかった。
日本テレビで組合役員になり、先輩の日本共産党員の誘いを受けて入党したが、地域共闘では社会党との共闘に努めた。ブント系は終始一貫、厄介な妨害分子だった。
1961年から1972年の「沖縄返還」の時期は、わが労組幹部、争議団幹部時代のことだから、下部の状況を熟知している。
沖縄の現状は、世界、日本、日本の自称反体制の未熟、傲慢、裏切りの矛盾の象徴である。
実に下らない権力主義の諸党派の自称指導者を、すべて、引きずり降ろせ!
土下座して謝らせろ!
以下の鍵言葉検索結果は、結構、問題点を突いている。
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http://www.h7.dion.ne.jp/~bir/okinawa/re.html
沖縄闘争、全軍労、安保闘争
終 章
沖縄労働運動の特質は実力闘争主義的体質その根底には政治党派の路線の鋳型にはめられていない,素朴な反米ナショナリズムが存在したことにある。
「教公二法」実力阻止,コザ暴動,「5.19ゼネスト」「11.10ゼネスト」,全軍労ストライキ,キセンバル闘争などに代表される実力闘争は,労働運動の幹部の議会主義的体質としばしば対立し,全軍労無期限ストライキのように,議会主義的指導部によって圧殺された。また,コザ暴動は,「左翼」勢力幹部が選挙に埋没し,実力闘争を放棄している中で爆発した人民の自然発生的決起であった。
こうした,人民の中に根強かった実力闘争主義的体質を,組織化された運動に高めていったのが革マル派であった。そのプロセスにおいて,琉球大学学生会の執行部を民青から奪取し,県労協青年協,県労協に入っていなかった沖教組,高教組の青年部のヘゲモニーを掌握し,キセンバル闘争を領導したのである。
学生運動における革マル派と民青の勢力逆転時に起ったのが,1971年6月の民青による革マル派系学生殺害事件であった。この虐殺に対する革マル派の弾劾行動の進展,様々な実力闘争の領導によって,民青,人民(共産)党は大打撃を受けた。
そのことは,2000年現在の共産党系全労連のローカルセンターである沖労連の加盟組合が医労連,国公労から分裂した国公労連などの小組織に限られ,沖労連傘下には,教育,自治体,郵政,NTT,軍事基地関係の組合が全く存在しないという事実につながっている。
沖縄人民の中の素朴な反米ナショナリズムは,初期の「復帰運動」が「日の丸」をかかげて進められたことに表現されていた。そして,そのような心情は,「祖国」を美化し,「沖縄県民としては現実の政治の善悪にかかわらず,祖国に復帰することが一切の施策の指向すべき政治目標でなければならない」という「復帰至上主義」(社大党),日本共産党の二段階革命戦略に基づいて「ヤンキー,ゴーホーム」を叫び,沖縄の自民党の一部とも共闘すべきだとする反米民族主義路線(人民党)の共鳴盤となった。
「B52撤去・原潜寄港反対県民共闘」が結成されると,人民党幹部瀬長亀次郎は,1968年12月22日琉球大学における民青系集会で「共闘会議」に「自民党も参加した方がよい」「共闘会議に自民党を入れることはできても,トロツキストは絶対に排除しなければならない」と発言した(『解放』第130号,1969年1月15日)。
こうした「反米民族主義的大同団結主義」は,保守層への迎合,ミリタントな労働者,学生に対する闘争抑圧を結果した。特に戦闘的労学のケルンたる「革マル・トロツキスト」に対する敵対に直結した。
社会党は,以上のような社大党,人民党の反米ナショナリズムに追随していた。
こうした政党に指導された復帰協の反米ナショナリズムを批判し,沖縄人民の解放は,世界革命の一環としての日本プロレタリア革命によってしか完遂されえないと訴え,「日の丸」と「星条旗」の同時焼却を大衆の面前でくり返したのが革マル派であった。
「復帰」を「祝賀」の日として祝おうとする「保守勢力」に対して,「真の返還」「完全復帰」「反戦復帰」を対置した「革新」三党を批判して,革マル派は「沖縄返還絶対反対」のスローガンをかかげたのである。
県労協青年協や,それに加盟していなかった沖教組,高教組の青年部のヘゲモニーを革マル派は掌握した。しかし,各単組青年部役員が,年を経るに従って,「親組合」の執行部をも掌握することを通じて,沖縄労働運動の主流派となることはなかった。
そこが,本土の動労との相違点であった。「運動は作るが組織は作らない」沖縄の革マル派の「左翼組合主義的体質」が,その根拠であった。
キセンバル闘争も,革マル派の前進を恐れた社会党系幹部による県労協解体,反動的再建,本土における労働戦線の右翼的再編の波が沖縄にも及ぶ中で,圧殺されていった。
しかし,そうでありながら,沖縄では,革マル派は1994年まで,社会(社民)党に次ぐ第2の勢力,最大の反主流派であり続けた。その後,沖縄の組織は,大きな打撃を受けるが,それは「左翼組合主義」的体質と不可分だったと考えられる。組織作りにおける欠陥は,外部の者からは明白に「革マル派」だと見える者も,「革命的フラクション」「左翼的フラクション」の構成員でしかなく,革共同革マル派同盟員が,一貫して,沖縄革マル派の「父」山里章と全軍労内革マル派系活動家・ナンバーワンの仲原忠義など約3名しか存在しなかった(久高政治証言,2000年11月28日)という事実と深く関わっていると考えられる。
1960年代後半から1970年代の沖縄階級闘争は,県民の素朴な反米民族主義,および,それに立脚した社大党,社会党,人民党の反米ナショナリズム的政治路線あるいは議会主義,および,ナショナリズムと議会主義を利用して,闘いを懐柔しようとする日米権力者の政策と,沖縄人民の体質として存在してきた実力闘争主義に立脚して運動の議会主義的,反米ナショナリズム的歪曲に抗しつつ,実力闘争を領導してきた革マル派の路線の拮抗の中で進められたのである。
1970年代沖縄の階級闘争は,映画『キセンバルに反戦の火は燃えて』の中に感動的に描かれている。
また,1972年5月15日の返還が当時の米日権力者によって,「核ぬき」とされながらも,その当時から,それが「核かくし」であることが明白であった上に,その後1976年10月6日の「ラロック証言」に代表されるように,アメリカの権力者の側からも,その「核かくし」の事実が明らかにされているのである。
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