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1964年、大和市上草柳に米軍機が墜落、8人が死傷。
この事件の被害者は、かなり長期にわたって戦った。
私は、日本テレビ相手の不当解雇撤回を求める争議中に、生き残りの鉄工所社長の舘野氏と協力関係にあった。
この他にも、米軍基地の被害者の運動は数多く、「基地公害訴訟」の連携、自称「キチガイ」は、今も、「平和と権利を守る懇談会」(略称「平権懇」)を継続している。
http://www.city.yamato.kanagawa.jp/koucho/virtual/kiti2/atsugibase.htm
厚木基地の現在
〜国際情勢の影響を受ける厚木基地〜
昭和20年の終戦後、連合国軍を構成する米軍に接収された厚木基地は、朝鮮戦争やベトナム戦争など、その後の国際情勢の影響を強く受け、常にその運用形態を変化させてきた。
朝鮮戦争が勃発した昭和25年には、米陸軍から米海軍に移管、昭和46年には、基地の一部が海上自衛隊に移管され、日米共同管理体制が採られるようになった。これにより米海軍は「厚木航空施設」として、また、海上自衛隊は「厚木航空基地」として、日米共同使用の基地となっている。
この間、米海軍の戦闘機のジェット化推進や、米空母ミッドウェーが横須賀を事実上の母港としたことなどにより、厚木基地周辺は甚大な騒音被害を受けるようになった。
米第7艦隊の後方支援基地として現在に至る厚木基地は、航空機事故の発生や、NLPをはじめとする航空機騒音など諸問題を抱えたまま、現在もなお、国際情勢の影響を強く受ける「軍事基地」として存在している。
●1950年(昭和25年) 朝鮮戦争勃発
昭和25年に勃発した朝鮮戦争は、米海軍機のジェット化を急速に促進した。こうしたジェット化の進行に伴い、航空機騒音は質的に変化し、基地周辺住民の生活に大きく関与することとなった。
厚木基地にジェット機が配備された昭和30年代に入ると、航空機の大型化などに対処するため、滑走路の延長工事や嵩上げ工事が行われ、より高性能な大型ジェット機が配備されることとなり、基地周辺上空では昼夜を分かたず訓練が行われるようになった。
●1964年(昭和39年) 大和市上草柳に米軍機が墜落、8人が死傷。
昭和39年9月8日、米軍のF−8Cクルセイダー戦闘機が、離陸直後、エンジン故障のため、滑走路北側約1000m程の大和市上草柳の舘野鉄工所に激突、広範囲にわたり機体などが飛散する大惨事が発生した。
この事故で同鉄工所の工場、住居が全焼し工場関係者ら5名が死亡、3名が負傷した。