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特攻隊長に59年後の返歌…妻、歌集ささげる
旧陸軍の特攻隊長として戦死した夫の面影を、2年で終わった結婚生活の追憶を、香川県大野原町の石川ふさ江さん(83)は、短歌に詠み続けてきた。女手一つで2人の子を育てた戦後には、悲嘆も絶望もあったけれど、夫との日々を三十一文字に刻むことで乗り越え、59回目の夏が巡ってきた。
「神さまみたいに優しい人」。そんな夫の誕生日にあたる来年1月9日、集大成の歌集を出すという。同じ沖縄戦で散った陸軍特攻隊員1036人のうち、妻がいたのは十数人にすぎない。その妻の多くもすでに亡い。
石川さんは1943年3月、同郷の石川一彦中尉(出撃時)と見合い結婚した。21歳の時。7つ上の夫は飛行教官として各地の飛行学校を転々とした。
赴任する夫のマントにくるまれて 生み月の身をシートに臥(ふ)しゐつ
赴任の列車。公務の夫は2等、石川さんは3等車と分かれたが、夫は駅に着くたびホームに降り、窓越しに妻の体調を気遣った。泊まり込みの週番勤務の時は、忘れ物にかこつけて従卒に様子を見に来させた。つましくも、幸せな暮らし。
45年1月、夫は宮崎から千葉・銚子飛行場へ転勤した。「落ち着いたら呼び寄せるから」と、単身で行ったのは、2人目を身ごもっていた妻への思いやりだったろう。これが別れとなった。夫の新任務は、特攻だった。
死を避け得ない特攻隊員には、妻子があるものや長男は外されることが多かったとされる。しかし、夫は教官としての立場から、教え子ら11人で編成された「第62振武(しんぶ)隊」の隊長に志願したという。
4月3日、夫は、沖縄の米軍艦船攻撃のため特攻機で福岡・大刀洗基地へ移動中、山口県内で濃霧の山中に激突した。この日、石川さんは大刀洗近くの甘木駅まで来て駅舎で夜を明かしていた。出撃を上司から知らされ、2月に生まれた二男の顔をひと目見せようと。
死を知り、香川の夫の実家に帰り着くまで、汽車の中、声を殺し、泣き続けた。「体じゅうがとけ出したかと思うほど涙がだらだらあふれ出て、着物のひざがびしょびしょになった」
滂沱(ぼうだ)そはかの目のなみだ 夫の訃(ふ)にとめどなかりき海渡るまで
母の悲しみが伝わったのか、背中の二男はぐずり声ひとつたてなかった。
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破れたる国の遺族に戦犯と 等しく降りいず視線冷たき
戦後は一変、特攻隊やその家族は白眼視さえされた。故郷の役場に職を得たが、幼子2人を抱え、生活に追われた。赤痢を病み、死線をさまよう不運にも遭った。
「夫が生きた証し、夫との日々をかたちにとどめておきたい」と、歌を詠み始めた。普通の文章ではまとまりがつかず、俳句には苦しみやいとおしみは収まりきらないと思った。
ひそと受くる公務扶助料(恩給)は 戦に果てたる夫の血のしたたりか
子供2人が独立し、独り暮らしを始めてからも、もう35年。再婚など、考えたこともない。細々ではあっても、今ある穏やかな生活は夫のおかげなのだとこのごろよけいに強く思う。
夫の姿が浮かぶのは、ふと目が覚めた明け方が多い。枕元のノートに書き込んで詠んだ歌は約700首に。これまでに2冊の歌集を編んだ。
集大成となる今度の歌集には、特に好きな300余首を収めるつもりだ。夫の教え子らも生前の記憶をつづった文を寄せてくれる。
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夫は出撃前、石川さんにあて遺詠を残していた。
ゆかしき心もて 銃後に備えよ 大和なでしこ
59年たって、石川さんは最近、返歌をつくってみた。
なでしこよとわれに遺(のこ)して出で征きし 夫の心に添はむとおもふ
(2004/8/11/16:31 読売新聞 無断転載禁止)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20040811i407.htm
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ついに特攻隊の美化まで始めた読売新聞.
以前からやってた?