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(回答先: 強制連行、西松建設に賠償命じる逆転判決 広島高裁(朝日新聞) 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 7 月 09 日 15:39:48)
http://hb5.seikyou.ne.jp/home/ykkwhr/yasunani.htm
これが安野だ!当時と今、安野発電所の写真集
http://hb5.seikyou.ne.jp/home/ykkwhr/syasin1.htm
本文
安野発電所への中国人強制連行
T 中国人強制連行
中国への侵略戦争のなかで行われた中国人強制連行。1938年の「国家総動員法」で根こそぎ動員しても不足する労働力確保のため、日本政府と企業は朝鮮人、中国人の強制連行を行いました。中国人強制連行は企業の執拗な働きかけにより1942年、中国人の「移入」が閣議決定されたものです。1944年から本格的な「移入」が始まり、約4万人の中国人が全国135ヵ所の事業場に連行され、鉱山、港湾荷役、飛行場や発電所やダム建設などの危険な重労働に従事させられました。虐待や過酷な強制労働のため、約7千人が生きて祖国に帰ることができませんでした。
U 安野発電所への中国人強制連行
太田川の上流、広島県山県郡加計町にある中国電力安野発電所は、1944年に建設工事が始まり途中、敗戦で工事は一時中断しましたが、1946年12月に完成しました。安野発電所建設は「時局下電力生産拡充に基づく緊急計画」の一環として計画され、西松組(現在の西松建設)が工事を請け負いました。
西松組は1944年4月「華人労務者移入計画」を厚生省に申請し、300人が認められました。西松組は社員を中国に派遣、日本軍に護衛されるなか、認可数より多い、360人の中国人を安野へ連行しました。
1、半世紀を経て明らかになった事実
中国人強制連行は国策として遂行されましたが、日本政府は戦後一貫して「契約労働者」であったとして、強制連行であることを否認してきました。1993年5月になって『外務省報告書』(1946年外務省が作成)と、各事業場の『事業場報告書』(1946年各企業が作成)が公表され、中国人を強制連行し強制労働に従事させた責任が、政府と企業にあることが明白になりました。
私たちは、中国河北省の河北大学の協力を得て、1992年から安野へ強制連行された生存者・遣族の消息捜しを行ってきました。これまでに生存者69人、遺族96人の消息を確認できました。被害者自身の証言によって、戦後はじめて強制連行、強制労働の実態が明らかになりました。
2、安野への強制連行
1944年7月中国・青島港から出港した360人は、途中3人が船中で死亡。下関に上陸し、安野に着いたのは357人でした。大部分は、日本軍に捕まえられた国民党軍将兵や八路軍の将兵、ゲリラや農民でした。なかには、儲け話があると騙された人や日本軍の傀儡部隊である保安隊員も含まれていました。山東省済南市にあった強制俘虜収容所「新華院」に収容さていた300人は、列車で青島に運ばれましたが、乗船までに3人が逃げました。このとき300人は3つの中隊に分けられ、中隊ごとに班が編成されました。西松組が厚生省に申請し認められた人員は300人でしたが、西松組は青島で、申請外の63人を新たに加えました。
安野に到着した357人は、中隊毎に4つの収容所に分けられ、8kmに及ぶ導水トンネル掘りなどの作業に従事させられました。
乏しい食糧で過酷な労働を強いられ、多くの中国人が病気やケガにたおれました。『外務省報告書』によっても、負傷者112人、罹病者269人、死亡者は29人にのぼっていましす。病気やケガで働けなくなった13人は、治療を受けることなく1945年3月、一足先に中国へ送り帰されました。
1年にわたって強制労働に従事させられ、日本の敗戦によって解放された317人は1945年ll月、集団で帰国しました。
3、「収容所は監獄そのもの」
中国人が連行されてくる直前、憲兵が安野を訪れ、収容所を建てるための土地を強制的に収用、西松組の手で4ヵ所にバラック小屋が建てられました。
党振三さんは「収容所は、木の皮がついたままの板を使って建てたバラックでしたから、壁の板はすき間だらけで、風が吹きこんでとても寒かった」と、収容所が暖をとることもできない粗末な造りであったことを証言していています。
中国人の監視、警備には、地元で採用した西松組監視員と警察官があたりました。
閻官朝さんは、次のように証言しています。
「安野の木製の大宿舎は、実際のところ監獄そのものでした。あんな大きな建物に扉がlつしかなく、扉の両側は警察が見張る看守所になっていました。食堂もこの中にあり、労働者が寝起きする場所と便所は続いていて、夏になると、部屋中が臭くてたまりませんでした。死体がそのまま寝床に放置されたままのこともあって、空気を吸うことさえ苦しく、蚊やダニに咬まれるにまかせていました。仕事がどんなにきつく体が疲れていても、なかなか寝つけるものではありませんでした」。
4、「いつも飢えていた」
食糧に関する生存者の証言は、「質の悪いものが少ししか支給されず、いつも飢えていた」というものばかりです。
紀尚喜さん(第一中隊)は「山を開いた私たちに何を食べさせたかというと、こんな小さな碗に入るどんぐりの粉で作ったマントウが、1回に1個でした。ほんとうは一口に入ってしまう大きさですが、惜しくて少しずつ7口に分げてかじりました。1日に21ロかじったら、1日の食事は終わりでした。すぐに終わってしまうので、おかゆにするみたいにマントウを水でふやかして、初めは水を飲んで、最後にふくらんだマントウを食べました」と、当時をふり返っています。
鄭光遠さん(第三中隊)は「食べ物は米ぬかで作ったウオトウでした。ウオトウというのはとうもろこし粉と大豆粉をまぜて円錐形にして蒸した粗末な食べ物ですが、安野ではとうもろこし粉も大豆粉もなく、米ぬかだけで作ったものでした。副食は自分たちで野生の芹をつんで食べました」と語っています。
5.「セメント袋を着た」
済南の強制俘慮収容所「新華院」を出るとき、布団といえないほど薄い布団2枚、靴1足、上着とズボン1着、くつ下、タオル、コップが支給されました。しかし、靴はすぐ破れてしまい、中国人の多くは裸足で働きました。
着る物について、山東省青島市の楊希桂さんはこう話しています。「服は中国から着て行った単衣の服しかなく、冬は寒いので、セメント袋を首と手の部分をくりぬいて着ました。セメント袋は洗うと柔らかくなるので、着たり上にかけたりしました。冬はあんなに寒かったのに、よく生きていられたと思います」。
6、偽造された死亡診断書
1946年に西松組が外務省に提出した『事業場報告書』には、病気で死んだとされる17人の死亡診断書があります。このなかには、当時中国に出征し不在だった、林盛夫医師名の死亡診断書が3通あります。死亡診断書が偽造されているのです。ほんとうの死因は何だったのでしょうか。他の医師名で書かれた残り14人の死亡診断書も、本物かどうか疑わしいものです。
『事業場報告書』には、ケガをした中国人が林医院で治療をうけ、引き続き医師に往診してもらって治療したという記述もあります。林医師はすでに他界していますが、夫人は「ありえないこと」と断言しています。
トロッコがひっくり返って土砂をかぶった宋継堯さんは、治療してもらえず、はれあがった目を自分の手でつぶさなければなりませんでした。宋さんの両目は失明しました。
西松組が外務省に報告した負傷者の数は112人。生存者の証言を聞くと、治療らしい治療を受けた人はいません。
7、過酷な労働と分断支配
中国人たちは、取水口から放水口まで8kmに及ぶ発電用の導水トンネルを掘り、土砂をトロッコで連び出す作業を、昼夜二交代で行いました。坪野では、山を切開き発電所の基礎を作る仕事もしました。
西松組は1944年春、安野の上流約lkmのところにある吉ケ瀬発電所建設工事完了後、ただちに安野発電所の工事にとりかかりました。吉ケ瀬で工事に従事した西松組職員、朝鮮人労働者がそのまま安野の工事に移っていきました。朝鮮人労働者は経験をつみ技術を身につけた者が多く、工事遂行に不可欠な存在でした。
各工事現場では、1人の西松組監督が7〜8人の朝鮮人を使い、1人の朝鮮人がl0人から20人の中国人を使いました。中国の収容所を出るときに編成された大隊がそのまま労務組織として使われ、中国人が中国人を見張り虐待することになりました。朝鮮人による暴行も少なくありませんでした。中国人の反感、抵抗のほこ先が日本人に向けられないように、巧妙な分断支配が貫かれたのです。
8、脱走と制裁
飢餓状態で、夜明けから日が暮れるまできつい労働を強いられる毎日。西松組の『事業場報告書』は4件、21人が脱走したことを記しています。逃げた中国人は、地元の日本人の山狩りなどで全員が捕まり、警察による拷問、収容所に連れ戻されてからは見せしめの制裁が行われました。
郭克明さんから話を聞きました。「安野に着いて2ヵ月位して、飢えに耐えかねて王金貴と2人で逃げました。捕まって加計の警察署に連行され、18日問拘留され、丸太の上に座らせる、竹の棒を指の間にはさんで握る、火のついたタバコをえりから中に入れるなどの拷問を受けました。釈放後第一中隊に連れて行かれ、そこの広場には2つの中隊が集められていて、日本人の見張る中、大隊長の命令で気絶するまで殴られました。仲間にも殴らせました。第二中隊に戻ってからも中隊長に殴られました」。
9、村人との交流
逃げることもできない絶望的な日々のなかで、地元の村人から受けたささやかな親切を、中国人たちは50年たった今も鮮明に記憶し、感謝の気持ちをこめて語ります。
呂学文さんは、こっそり塩をもらいに行った家で、徴兵された息子に似ているといって親切にしてもらったことを忘れず、来日の際、お世話になった「日本のお母さん」のお墓に参りました。
陳立棟さんはトロッコが転倒した事故で足にケガをしましたが、赤チンとぬり薬をぬってもらっただけでした。山に柴を取りに行かされたとき、おばあさんに出会いました。おぱあさんはおにぎりをくれ、傷の手当をし、わらぞうりをはいていた陳さんに地下夕ビを2足くれました。陳さんは1足を持ち帰り、今も大事にしています。陳さんはおばあさんの名前をきかなかったことを、今も悔やんでいます。
10、帰国
1945年8月6日、工事現場のトンネルの中にいた楊希恩さんは、ブーっと風が吹きこんでくるのを感じました。カーバイドのランプが消え、石が落ちてきました。道路をリヤカーで材木を運んでいた郭克明さんは、西南の空が光るのを見ました。紙きれや木ぎれが広島の方から飛んできました。
翌日、収容所警備の警察官や看守は救援活動のために広島市内に動員され、監督も厳しくいわなくなりました。敗戦後、西松組の監督たちは当分のあいだ姿を隠すように西松組から指示を受け、中国人の前から姿を消しました。
幸い生き残った317人の中国人は、11月、GHQの手で掃国の途につきました。1年間の労働に見合う報酬をもらうことなく、何の補償も受けないまま中国へ送還され、天津で放り出されたのです。
国民党と共産党の内戦のなかで、天津でそのまま国民党軍の兵士にされた人もいました。やっとの思いでたどりついた家は、一家の働き手を奪われて食べて行くこともできない状態に追いこまれていました。栄養失調、病気、ケガのために満足に働くことができず、戦後も苦しい生活が続きました。
文化大革命の時代には、「日本に行ったことがある」ということが原因で、スパイ扱いされ、反革命分子とみなされ迫害を受けました。
V 被爆した人々
1、冤罪――「国防保安法事件」
鄭光遠さんは空腹と厳しい労働に耐えきれず、1人で脱走しました。翌日捕まり、警察の取調べで八路軍であると名乗ったところ拷問が始まり、「国防保安法事件(スパイ事件)」がでっちあげられました。新潟から張文彬さん、北海道から賈登春さん、佐保貴さんが「事件」にまきこまれて加計署に連行されました。当時重い病気にかかっていた左さんの消息はわかりませんが、鄭、張、賈の3人はその後広島刑務所に収監され、1945年8月6日被爆しました。刑務所の高く厚い外壁に守られて生き残った3人は、日本敗戦後釈放され、自力で朝鮮半島を経て帰国しました。
2、「大隊長・三班長撲殺事件」
「事件」は、坪野の第一中隊の収容所で起きました。生存者たちは大隊長が同じ中国人でありながら、日本人の手先となって自分たちを虐待した売国奴であったと、異口同音に証言しています。
牛馬以下の扱いを受け、過酷な労働にかりたてられるだけの毎日。ケガをしても病気になっても治療らしい治療を受けられないまま死んでいく同胞もいました。このままではいつか死んでしまうという追いつめられた思いが、牛肉の分配をきっかけに、大隊長と大隊長に近かった三班長に向けて爆発し、2人を殺害するに至りました。日本敗戦のlヵ月前、1945年7月のことです。
「事件」後、自ら名乗り出た11人(事件とは無関係の人も多い)が逮捕され、広島刑務所に収監されました。8月6日、11人は被爆しましたが、全員生き残りました。9月になって釈放された11人は安野に戻り、他の仲間とともに帰国しました。
11人が逮捕された後、2度目の逮捕があり、班長たち5人が首謀者として逮捕されました。5人は広島市内の爆心地近くで取調べを受けていて、被爆し死亡したとされていますが、被爆地点は今も不明です。
3、中国人被爆者の戦後
被爆して帰国した14人は、原爆の後遺症を背負って病苦と闘い続けてきました。
1992年に出会った徐立伝さんは、その時すでにアゴのガンに冒されていて
3ヵ月もしないうちに亡くなりました。94年に消息が確認された于瑞雪さんは、
95年6月、肝硬変で亡くなりました。
当時は自由に話をすることも許されなかったので、互いの名前や出身も知らず、帰国後も連絡をとることができませんでした。文化大革命の時代には、日本に行っていたというだけでスパイ扱いされたので、医師にも被爆したことを話せない人もいます。何の援護も受けることなく、病気や辛い思いを抱えて孤独に生きてきたのです。
W 戦後補償を求める闘い
90年代になって、かつて日本が侵略したアジアの各地から日本の戦争責任を問い、戦後補償を求める被害者の声がわきあがってきました。
中国でも90年代に入って、戦争被害を国家レベルと民間レベルに分け、日中共同声明が放棄したのは国家レベルの賠償請求権であり、民間レベルのそれは留保されているという、「民間賠償」の考え方が広がってきました。中国政府も対日民間賠償を求める動きを追認し、中国外務省の報道局長は花岡事件提訴に関して発言し、花岡裁判を支援する立場を表明しました。
1993年8月、半世紀ぷりに広島を訪れた安野の生存者・呂学文さんと孟昭恩さんは、西松建設中国支店(広島市)を訪ね、謝罪と補償を求めて交渉しました。しかし、西松建設は「強制連行は国策であり、企業には責任がない」と、2人の要求を拒否しました。その後、生存者4人と遣族1組も同じ要求を提出しました。1995年5月にはトロッコ事故で両目を失明した宋継堯さん、8月には被爆死した遺族が来日し、西松建設と交渉しましたが、西松建設は国に責任を転嫁して企業責任を認めず、かたくなに要求を拒否し続けました。
日本の敗戦からちょうど50年にあたる1995年8月15日、河北省保定市に集まった安野の生存者・遺族は「安野受難者労工聯誼会」を結成し、強制連行と原爆披害の真相究明、公式謝罪、賠償などの要求を日本政府と西松建設につきつけました。「安野受難者労工聯誼会」はこの闘いを、名誉を回復し、民族の尊厳をとり戻す闘いであると位置づけています。
X 西松建設を提訴へ
呂学文さんたちは、西松建設と繰り返し交渉を重ねてきましたが、西松建設の無責任極まりない姿勢に、交渉で問題を解決することはできないと判断し、
1998年1月16日、広島地方裁判所に提訴しました。