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特報
2004.08.02
戦前と同じ空気に危機感
元日本兵恩給拒否のワケ
「被害者はわしではない」−。軍人恩給の受給を拒み続けている元日本兵がいる。岐阜県飛騨市の尾下大造さん(82)だ。尾下さんには恩給は「口止め料」と映る。戦禍の記憶は薄れ、「国際貢献」の名の下、再び“戦場”に兵士たちを送り込む時代が来た。飛騨の山村で、恩給と「沈黙すること」を拒んできた元日本兵の目に、五十九回目の戦後の夏はどう映っているのか。 (中山洋子)
敗戦の翌年、一九四六年初夏のことだ。田で草むしりをしていた尾下さんに、兵隊仲間の一人が「ハンコ持って役場に来い」と声をかけた。男は「恩給あたるで」と言った。
実際に軍人恩給制度が復活したのは五三年からで、戦後すぐの恩給運動は実らなかったが、尾下さんの「反発」はこのときから始まっている。「深いこと考えとったんでなしに、ただムカムカっとした」
「東京は焼け野原で、豊橋(愛知県)の工場も焼け、名古屋もやられた。広島や長崎では何十万人も(原爆の)後遺症に苦しんでいる。日本中がひどい目に遭って、まだ何の手当てもできんときに、生きて帰ったもんが恩給とろうという根性にものすごい腹立った」
尾下さんは敗戦後、材木会社で働いていた。林業が衰退していく中で、暮らしが楽なはずはない。だが、尾下さんは地元出身の元将校らに支給申請を促されるたびに拒んだ。業を煮やした県の担当者が当時、商工会に勤めていた妻に「あんたんとこはまだ改心せんか」と迫ったこともあった。
七〇年に脅迫とも感じていた支給申請を促す連絡や通知を止めてほしいと、県の人権擁護委員会に手紙で訴えた。手紙には、恩給を受給することは「私のなにかが許さないのであります」と記した。が、その後も通知は続いた。
■連隊の記念誌『うそばかり』
有形無形の圧力をはねのけ「わしはもらいとない」とかたくなに拒み続けた「なにか」は、軍国少年だった尾下さんを変えた自らの戦争体験につながる。
「恩を売られとない。ものを言えんようになる。子どもや孫を戦争にやりたきゃ(恩給を)もらやいい。だけど、わしはやりとないで、もらわん」
材木商の二男として生まれた尾下さんは四〇年十二月、十八歳で陸軍に志願する。「ニッポンはロシア相手に勝ったきっつい(強い)国だと。そういうことばかり聞かされ育った」
志願も戦前の「皇紀(元年は神武天皇即位の年)」で紀元二千六百年の区切りの年にした。一方で「早いこと行って、早いこと帰ってきた方がいい」という気持ちもあった。
富山東部四八部隊に入隊し、中国北部、フィリピンと転戦、ベトナムで終戦を迎えた。所属した連隊が制作した記念誌を開きながら「いいこといっぱいした、と書いて残して。うそばっかりや」と憤る。
戦場ではレイプも強盗も日常茶飯事だったという。「わしはせなんだ」と話しながら、声を絞った。「でも、ツメ跡は残した」
四一年のことだ。「川があって、堤防の外側にヨシがあって。中国の女の人が逃げ込んでおったので、上等兵が軽機関銃で撃ちました。タタタタタンと出るやつ。中国の嫁さんたちが撃ち抜かれて結局、死ななあかんのな。地獄の光景や」
尾下さんは、思わず上等兵に「何でこんなことするの」と怒鳴った。当時、尾下さんは十九歳、上等兵は三つ年長の二十代前半の若者だった。「ムカムカしたでや」と言い放った。
「戦争しとればそんなことばっかりやがいや。人間は性悪説やな。普通やったら、孫子の代まで恥になると思うから、悪いこともこらえとんのな。それが戦争になったら、悪いことするんやで。善良な人でもそうなってまう」
「大きい戦(いくさ)のときはそんなことしとれん。小さい村に敵の兵隊の情報があって、十人ほどで討伐に行くときや。敵がおれば追っかけるが、おらんわな。帰りしなに村ん中探(さが)いて歩いて、荒らして盗んで、若いおなごが隠れとると、レイプして殺(ころ)いてまう」
四二年、フィリピンのネグロス島で、住民を殺すように命じられた。上官の命令は絶対だ。虐待に加担するのが嫌だった尾下さんはとっさに「おまえやれ」と部下に押しつけた。部下は男の胸を突きそこない、尾下さんは川に落ちた男の頭を撃った。男は「おれは死にたくない」と現地の言葉で叫んだという。
将校は手を汚さない。「後ろの方におって、ただ(戦場に)行っとったものもいっぱいおる」と吐き捨てるように言う。
総務省によると、本年度予算で恩給受給者数は旧文官も含めて百二十八万人。97%が旧軍人とその遺族で、支給総額は一兆六百六十億円に上る。最低支給額が保障されており現在、短期でも一人当たり年に五十六万八千四百円、遺族もほぼ同額が支給される。
軍人恩給の支給対象は原則、十二年以上軍に在職した者だが、三七年の日中戦争以降は特例規定があり、戦地に赴任した場合は、時期や地域によって最大で一カ月が四カ月分に計算される。つまり、激戦地での赴任が続くと最短で三年の勤務で支払い対象になる。
尾下さんの場合、五年五カ月の在籍期間のうち、中国などの戦地で約四年半を過ごしたため、十四年以上勤務したとみなされる。
■『選挙のためでは』と憤り
軍恩連盟や日本遺族会など受給者団体は、言わずと知れた自民党の有力支持団体だ。首相による靖国神社公式参拝を訴えており、小泉首相が自民党内で基盤を強めたのも、両団体に「首相になれば公式参拝する」と公約したため、といわれる。同首相は首相就任後、二〇〇一年八月から〇四年一月にかけ計四回、靖国神社に参拝。拝殿で「内閣総理大臣」と記帳した。
尾下さんは「票のためだけに、心にもないようなもんに、参られたのでは死者は浮かばれん」と憤る。
「わしに抱かれて死んだ仲間もおるの。わしが靖国に祭られるつもりがないからといって、この人たちもそうやとは言えん」と前置きしつつ、こう繰り返す。
「遺族も(公式参拝で)うれしいばっかでない。戦死者を本当に参る気持ちがあるなら、内々に一人で参ればいい」
この夏、自衛隊はイラクで多国籍軍に加わった。政権を揺るがすような反対運動はなかった。それが尾下さんの目には「きっつい(強い)国」と教えられて育った状況と重なる。
「(戦前、戦中)日本は悪いことせなんだんや、という空気が広がっている。(最近では)政治家も選挙民も、自衛隊に鉄砲ようけ持たせて外国へやるのを、いいことやという」と嘆きながら、つぶやいた。
「わしのようなもんがようけおってもいいはずなのになぜ、誰もしゃべらん」
http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20040802/mng_____tokuho__000.shtml