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この件で、日本人側は被害者を無償で治療している善意の人たち、という誤解があるが。元を辿れば、攻撃した軍を真っ先に支持した国民でもある。それを思えば、あの虐殺による被害者全員を受け入れる位が当然ではないか。
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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040615-00000002-mai-l22
イラク日本人銃撃 橋田幸子さん、モハマド君と対面 /静岡
◆2人の会見要旨
◇「橋田、小川の目の代わりに」
「橋田(信介さん)ら2人の目の代わりになってイラクや世界を見てほしい」――。沼津市内のホテルでの対面後、橋田幸子さん(50)とモハマド・ハイサム・サレハ君(10)、父ハイサムさん(33)らは14日午後、同市内で会見し、お互いの印象などについて率直に語った。
――今日の感想は
橋田幸子さん 実は一杉真城さんに黙って朝早く病院に会いに行ってしまった。ごめんなさい。アンマンやバグダッド、東京と多くの方からご協力いただき、会うことができました。少しでもモハマド君の目が見えるようになったことがうれしい。皆様に感謝しています。
モハマド君 非常にうれしく思った。
ハイサムさん 今朝病院に訪ねてきてくれて本当にうれしかった。日本の皆さんに「ありがとう」と言いたい。
――橋田さんの遺志が実現したが
幸子さん 事件に巻き込まれてしまったが、今回のイラク訪問の主目的はモハマド君を日本に連れて来ることだった。イラクに向かう途中、私も「なんとか来日を実現したい」と思っていた。親子が見つかったと聞き、「支援を続けたい」と伝えた。実現できて良かった。
――感謝の気持ちをどう伝えたいか
モハマド君 橋田さんの墓参りに行き、花をささげて天国に行ってくれるよう祈りたい。
ハイサムさん 橋田さんはすばらしい人だった。感謝の意を表わす言葉も見つからないくらいだ。橋田さんの訃報を聞き、今も悲しい気持ちでいっぱいだ。
◇モハマド君「将来は目医者に」−−幸子さんと今後も交流
――初対面時の言葉は
幸子さん 言葉はなく、ただ抱きしめた。モハマド君が私の両ほほにキスしてくれた。その後「良かったね。具合はどう」と聞いた。
ハイサムさん 「息子の目が治りうれしい」と感謝の気持ちを述べた。会えてうれしかった。
――どんな大人になってほしい
幸子さん イラクは治安が大変だが、ああいう土地ですから、なんとか生き延びてほしい。一生懸命勉強をして、橋田や小川(功太郎さん)の目の代わりになってイラクや世界を見て、イラクのためになる人間になってくれたらうれしい。
――将来の夢は
モハマド君 多くの患者を治すために医者になりたい。特に目医者になりたい。
――対面の時に持っていた黄色い箱は
幸子さん 私が渡した日本の焼き菓子。おなかがすいたときに食べてもらえればと思って渡しました。
――左目も見えるようになったら何をしたい
モハマド君 今はまだ良く見えないので、幸子さんの顔をしっかり見たい。
――目の具合は
モハマド君 痛みはなくなり、手術の前よりも良くなっている。
――今後、モハマド君とどうかかわっていくか
幸子さん ここのところ毎日いろいろな新しいことが起き、いろいろな問題で対処してきた。少し休んでから考えたい。
――午後はどうしていたか
幸子さん モハマド君は疲れているようだったので休んでもらった。イラクの方が沼津に来ているので、橋田ら2人が襲撃された事件の真相が分からないと伝えた。これから、原因や捜査内容が少しでも分かったら教えてほしいとお願いしました。
――橋田さんからどんな子だと聞いていた
幸子さん 「ファルージャに住んでいて、目にガラスが入って24時間痛がっている子だ。うーんとかわいい、うーんと頭の良さそうな子だ」と聞いていた。会ってみてその通りだと思った。目がきれいでかわいい。
――モハマド君滞在中の幸子さんの予定は
幸子さん 夫が亡くなった後の整理がまだ全然できていないので、それとのバランスをとりながらモハマド君との交流を進めたい。
◇支援の気持ち一貫−−幸子さん、常に冷静に会見
夫とおいを同時に亡くす悲しみを味わいながら、橋田幸子さんは会見などで常に冷静に思いや考えを語ってきた。「夫の遺志を引き継ぎたい」。遺体確認のため現地に向かう前から、モハマド君を支援する気持ちは一貫し、まったく揺るぎがなかった。
戦場ばかり回る人と結婚したのですから、ある程度覚悟はあります。小川(功太郎)さんのご両親と落ち合いこれからの話をします。できるだけ早い飛行機でアンマンかバグダッドに向かいたい。
5月28日午前、襲撃事件の連絡を受けて、東京に向かう際に。
夫はジャーナリストが天職みたいで。尊敬する人です。戦場に住む普通の人々に対してとても優しい人でした。
28日夕に東京都内のホテルであった会見で。
外を飛び回る夫には「何かあったら迎えに行くから、心配しないで」と言い続けてきた。遺体と対面した時、「約束通り迎えに来たからね」と心の中で言葉をかけた。(弾痕が残る緑色の帽子を手に)この1発で、後は苦しまなかったと思う。
3日午前(日本時間同日午後)、遺体確認後のクウェートでの会見で
夫は司法解剖を嫌がったと思うので、ほめてくれると思う。東南アジアの人々と社会の寛容さが大好きだったので、ここで火葬できて本当に良かった。
7日、信介さんの火葬を終えてバンコクで。
家族は疲労困ぱいしている。母は一度に息子と孫を亡くし、特にひどい。橋田は本望だった。せめて功太郎だけは助かってほしいと思ったが、残念な結果になった。
9日、遺骨を胸に帰国した山口県の宇部空港で。(毎日新聞)
[6月15日19時52分更新]