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http://ch.kitaguni.tv/u/2148/%bb%b6%ca%b8/0000131076.html
チェブラーシカ、君は故郷のことを忘れてしまった? それとも、心深く想っている?
チェブラーシカ、君の故郷はパレスチナ? それとも、もっと遠くの国?
でも、パレスチナの人々とパレスチナのオレンジのことを忘れないでほしい。
(「やや黒猫的主張」 2004/9/28 チェブラーシカ、君はどこから来たの?より)
http://geocities.yahoo.co.jp/dr/view?member=odessa_istanbul
俺の好きな「ネコのヤン」の作者である町田純さんのウエブサイトで公開されている、「やや黒猫的主張」のページに、「チェブラーシュカがオレンジの木箱に埋もれてきた」、それが何故オレンジだったのか、に対する考察が載っていた。
それについては上記のリンクからたどって読んでもらいたい。
オレンジにまつわる悲しい物語は、俺にもう一つのオレンジの話を想起させた。
天木直人9月19日 メディア裏読み
http://amaki.cocolog-nifty.com/amaki/2004/09/919.html
私はレバノン大使の頃、レバノンのオレンジを日本に輸出しようと努力をした。周知のようにオレンジはその昔米国の政治的圧力で解禁をして以来、いくつかの国が日本に輸出するようになった。レバノンの隣国イスラエルもかなり前から日本にオレンジを輸出している。
しかしイスラエルのオレンジよりもレバノンのオレンジのほうが甘く美味い。何よりも安い。もしレバノンのオレンジが日本に輸出できるようになれば間違いなく米国やイスラエルのオレンジより人気が出る。軍事力ではイスラエルにいじめられているレバノンが経済競争でイスラエルに勝つ。何とすばらしい事だろう。そう思って私はレバノンの地中海ミバエの駆除技術の向上に協力しようとした。ところがわが農水省は、そもそも日本の果実業者を保護するという基本方針があるので、敵に塩は送れないといわんばかりに技術協力をしようとしない。おまけに次から次へと煩瑣な調査をレバノン側に要求する。しかもたとえ技術的に要件を満たしても直ちに輸入の許可が下りるわけではない。なんだかんだで許可が下りるまで10年から20年かかるのである。
そのうち輸出国のほうでも嫌になって諦める。「それが狙いでわざとハードルを高くしているのだ」と本音を話してくれた農水省の職員がいたほどである。
ブラジルの場合も1998年からの地中海ミバエの殺虫技術の開発に着手して以来の懸案であったという。しかし小泉首相がブラジル訪問する。何とか間に合わせて花を持たせなければならない。公聴会を8月に開いたばかりで普通の手続きでは間に合わない。しかしそこはパフォーマンスの小泉首相である。認めろと総理が要求すれば官僚は無理を通してこれを認めざるを得ない。そうであれば少しでも小泉首相のパフォーマンスに貢献しようと豹変したのであろう、あたかも小泉首相の決断一つで決めたという形をつくったのである。あるいは多国籍軍の派遣約束と同じように、小泉首相が国内手続きを無視して農水省の頭越しに即決したのか。いずれにしても「9月解禁」という思わぬ輸出許可の取り付けについて、ルラ大統領は驚き、感激した様子であったという。
俺がオレンジの生産地に抱くイメージは、ありきたりだが、温暖で穏やかな気候、そしてすごしやすい豊かな土地だ。しかし、そんな甘いイメージにこの二つのテキストは酸味と苦味を教えてくれる。
そしてその酸味は胸のうちで、身近に起こったことを思い起こさせた。
みなさんは肉牛の生産地というとどんなイメージを思い浮かべるだろうか。俺が思い浮かべるのは小学校のスクールバスの通り道にあった、同級生のAのうちの農場だ。一面に広がるなだらかな草原と、点在する牛、立ち並ぶ巨大なサイロ、時折牛がトラックに「モー!モー!」と悲痛な叫びを訴えながら乗せられるのを見て、無邪気に「ドナドナ」を歌った。そんな思い出。
Aと俺とはさして仲良くはなかったが、Aが東京の大学にいたときちょうど俺は阿佐ヶ谷にいたので、帰省したときに今度向こうでも遊ぼう、ということになり、いっしょに飲んだりした。Aの大学のコンパというものにも混ぜてもらったことがある。芸術大学ということで面白い人がたくさんいたが、みんながAのことを「才能がある」と言っていた。あるとき、Aの先輩が酔っ払って大泣きした。Aのことを「こいつはさ、かわいそうなんだよ、いくら才能があっても、卒業したら帰って農業を、継がなきゃいけないんだよ・・・・」
しかしAのオヤジは生き物を扱う仕事だから地元を一歩も離れずに休まず働いて、酪農とは全然関係のない大学にAをやっている。そういうことができる余裕がある。俺はAのことがうらやましかった。
それから数年後、3年前のことだ。俺が地元に戻ってしばらくして、Aのおやじさんが自殺した。その前々年におじさんは新しい機械を農協に薦められて導入したのだが、その借金が返せなくなったらしい。
何十年も酪農を続けた親父さんは返済計画も充分したはずだったが、ひとつ予想外の事態が起こったのだ。
狂牛病だ。
狂牛病の牛が日本で見つかってから何ヶ月もたった自殺。すでに大騒ぎは沈静化していたが、牛肉の市場は元に戻ったとは言えない状況だった。特にノーブランドの農場では。おじさんは徐々に貯蓄を減らし、段々に苦しさを増していったのだろう、生きていくのがつらいほどに。
東京の会社に勤めていて、葬式に帰ってきたAは「俺が帰ってきて後を継ぐとき楽をさせたいと言って機械を入れたんだ」と泣いた。
その後、俺はAは東京に行くものだと思っていたが、「親父が残してくれたものだから」と酪農を継いだ。借金は親父さんの保険金で半分消えたから、まだ親父の苦労を考えたら楽なんだ、と言った。「自殺でも半分は出るんだよ」Aはそういった。
慣れない農業の苦労話をいろいろするAだったが、俺はまだ借金の苦労が続いているなんて思いもしてなかった。親父さんの死から半年くらい経った頃、ガソリンスタンドで偶然会って立ち話をした。そのころ作っているサイレージの話や、「生き物だから、難しい、でも面白いよ」そんなことを言っていたのだ。だが、その立ち話をした一週間後、突然Aは自殺した。
彼の身に何が起こったのか、どういう状況だったのかはよくわからない。
とにかく俺はAの葬式に行った。
東京で付き合っていたらしい彼女がきて、棺の上にかぶさって泣いていた。Aの母親が借金はAの保険金で全部終わるから、Aの妹と女手二人で酪農をやっていくのは無理だから、ここを引き払うと言った。
最初からここは諦めて、Aに好きなことをさせてやればよかった、とAの母はしぼるような声で言っていた。
俺は葬式が終わった後、表に出て、牛舎を眺めて、ああ、これが二人の命で一つ分だ、と思った。Aが「自殺でも半分は出るんだよ」と言っていたのを思い出しながら。
先日、アルゼンチンからきた就労者をナビシートに乗せて、職場に向かうとき、Aの農場の前を通った。牛は一匹もいない、牛舎は廃屋と化して、サイロは数週間前の台風のせいか、屋根が一部破損していた。
同乗者は「こんなにいい土地なのに何故何もいないのか」といぶかしった。
「日本じゃ酪農は割りに合わないんだよ、輸入のほうが安いし、ここも狂牛病やいろいろあって最近潰れたんだ。」俺はそう説明した。
彼はアルゼンチンでは農場を持っている人が偉くて金持ちで、そこで働く人がほとんどで、みんな貧乏なのだ、と言った。こんないい土地を誰も使わないのは勿体無い、勿体無い、自分がこんないい土地を持っていたら・・・・・と悔しそうに言った。
俺は彼にここの農場主が自殺したこと、そしてそれが自分の友人であったことは言わなかった。でも、その「勿体無い」という言葉がAの命に向けられているような気がして、ほとんど泣き出しそうな気持になる。
二人の命をついやして残ったものがこれなのか。
生産性の高い豊かな土地を持ちながら、
飢餓に瀕する国から食物を輸入し、
糞と藁にまみれた生産者を蔑み、
大量に消費するものをあがめる社会。
Aの命も自殺した数万の命の一つで、ニュースにもなりはしない。
コンビニでハルウララバージョンのキティグッズが投げ売りされている。
あれだけ騒いでたくさんの人が詰め寄った吉野家の前にはもう一台も車がない。
そして、「狂牛病の感染源は問題ではない」と言っていた大臣が、何事もなかったかのように自民党幹事長の座についていた。
この国では、人の命やけなげさや懸命さなどから美談や悲劇を作り上げ、たちまちのうちに消費して、忘れてしまう。
でも、俺はAのことを忘れない。
投稿者:DoX at 00:46