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(回答先: Re: 正論だなあ。読んでいると、この国の舵取りを任せたくなってくる。 投稿者 南青山 日時 2004 年 9 月 13 日 15:45:08)
明治維新は1万5千人ぐらいの志士が全国で動いたが、実際に国政に影響を与えたのは500人程度の各藩や朝廷や豪商や外国勢力などに影響力を持っていた僅かな勢力であった。だから、現在各党に巣食うユダヤ・シオニストや北朝鮮や創価学会や統一協会の手先の小泉や小沢や池太作などの売国奴を排除して、尊皇攘夷派を結集すれば日本革命は起こる。今、坂本竜馬とフリーメーソンのグラバーが薩長同盟の背後にいたと喧しいが、薩長同盟を差配出来たのは、その「産みの親の幕末の巨人の勝海舟」がいたからだ。下の写真は、勝海舟が西郷隆盛を通じて元治2年(慶応元年2月中旬ー3月18日)の間、薩長土肥の尊皇攘夷派をナガサキの上野彦馬のスタジオに45人の志士達を結集させて、後の明治政府の骨格を作らせた記念写真。この中の真ん中にフルベッキというオランダ系の宣教師が長男のウィリアムと共に座し、その斜め前方に後の明治天皇(力士隊隊士の大室寅之祐)がいる。この写真は、薩長同盟瀬率のほぼ1年前で、禁門の変(8・18政変)で薩摩・会津の連合軍が久坂玄瑞率いる長州軍を壊滅に追い込み京を大火で灰燼にした、元治元年7月19日の僅か半年後のことで、常識ではこの薩長が同席するなどとは考えられなかったが、それ以前の元治2年9月11日に大阪の宿で、勝海舟と西郷が会談しており、そこで両者の師弟関係が出来て、この勝の仕掛ける討幕派の集合となった。後の「薩長同盟」は勝の代理人坂本龍馬他の神戸操練所塾頭以下を薩摩藩が預かり、藩士扱いで給与も与えて長崎で海援隊・亀山社中をやらせて、武器や舟を薩摩藩を介して長州藩の横流しをしたのだが、薩長の秘密合意に伊藤博文隊長の第二奇兵隊(力士隊)隊士の大室寅之祐少年を睦仁親王にすり替えて、明治天皇として擁立するという「秘密合意」があった筈である。その討幕派の結集の
薩長土肥の45人(勝海舟を含む)の記念写真がこれである。ここに最後列中央に写真がないと言われている、西郷隆盛の実像がうた写っている。幕府の要人の中心人物の勝がここにいることに注目。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/ibd/01.html
こうして、北朝系列の孝明天皇と睦仁天皇は相次いで慶応2年12月25日と慶応3年
夏に岩倉具視・伊藤博文らによって暗殺されて、伊藤博文隊長の第二奇兵隊(力士隊)隊士の大室寅之祐少年にすり替えられた明治天皇は官軍という名の薩長足軽軍の東征軍に擁立せられたて、まだ顔の割れていない江戸へ「行幸」という遷都をしたことになっている。しかし、実際には「正統なる天皇ではない」のだから、ペリー来航150年目の今日、また京都に「行幸」としてお帰り戴き、日本の旧来の天皇制に戻して未来永劫、京都御所でお住み戴くのが本来あるべき天皇制のあり方と思う。関東地区は、今sにも第2関東大地震が差し迫っているのだから、皇室の安全性確保の観点からもそうあるべきである。また、現在の皇太子の後は、殺された孝明天皇やすり替えられた陸仁天皇以前の第119代光格天皇の直系の後裔を次代の天皇として擁立するのが良い。それが、ユダヤ・フリーメーソンに誑かされ、やがては昭和・平成の第1次軍事敗戦と第2次金融敗戦に落とし込まれた近代日本へと導く幕末・明治時代を清算する唯一の道である。