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9月4日にスタートしたそうです。
関西では一般封切と違ってホールでの自主上映らしく映画センターでの上映だとのこと。
早くても11月中旬の大阪・京都らしい。神戸は12月とのこと。待ち遠しい限りです。
東京では大盛況だそうです。上映期間は1ヶ月。
若い人も見にきて最初はよくわからなかったらしいけど、特に農民がなぜ世界情勢に詳しいのか疑問に思っていたけど、見た翌日あたりから、この映画の言いたいことがわかったということだそうです。それで本を買って勉強をはじめた、とういう状況らしいです。
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「草の乱」公式ページ
http://www.kusanoran.com/
解説
1884年11月1日、秩父郡吉田村椋神社に刀、槍、猟銃で武装した人々3千余が集まった。“天朝さまに敵対するから加勢しろ”――明治政府に対する真っ向からの挑戦であった。困民党を名乗る人々によるこの蜂起は9日後に軍隊と警察により壊滅させられた。
“自由自治元年”の幟(のぼり)にこめられた願いはかなわず、明治政府は12名の死刑、3千余名の科刑、科罰を持ってこれに報いた。世に言う“秩父事件”である。
当時、明治政府は中央集権、軍備増強を急ぎ、デフレ、増税策を推進した。世界的な不況による生糸価格の暴落と相まって養蚕農民たちは困窮していた。そこに付け込み極端な高利をむさぼる高利貸によって多くの農民が身代限り(現代で言う破産)となり田畑を取り上げられた。農民たちは各地で闘いを起こした。中でもこの秩父の闘いは自由民権運動と結び合い、政府打倒を視野に入れた点においても江戸時代に繰り広げられた一揆と明らかに一線を画していた。「圧制を変じて良政に改め、自由の世界として人民を安楽ならしむべし」(田中千弥「秩父暴動雑録」より)彼らは、家族たちのために、苛政に痛みつけられる仲間たちのために、巨大な権力に対し自らの命をかけて立ち上がった。
あまりにも悲惨な敗北にもかかわらず、秩父事件は今も光を放つ。勝ち負けを超えて人は闘わねばならぬ時がある。家族のために、仲間たちのために、そして自分たちの未来のために。凄いやつら−そのことを信じ立ち上がった無数の無名の男たち女たちの壮大な闘いがいまよみがえる。デフレ、不況、海外派兵―あまりにも重なり合う現代の日本に闘いのバトンをわたすために――。
監督は、前作「郡上一揆」で江戸時代の農民の一揆を通してその誇り高い気概を謳いあげた神山征二郎。 映画「草の乱」は、70年代初期神山監督が秩父事件に出会って以来いつかはと暖めてきた企画である。そしてついに映画化実現の時を迎え、長年の監督人生をこの一作にかける。
独立プロとしては破格の4億5千万円という製作費は秩父を中核とし埼玉県、関東、日本中に広がる数百万円から数千円にいたる市民出資がほとんどをまかなった。“許せない、我慢ならないという今の世の中に対する人々の怒りと苛立ちの反映”と指摘されるこの現象こそすでに“現代の草の乱”とも言われている。
あらすじ
1918年(大正7年)、北海道野付牛町。
病床に臥すひとりの老人が、妻と長男を呼び寄せ、紙に筆を走らせる。
「井上伝蔵、わしの本当の名だ」。
死刑判決を受け、逮捕を逃れ北海道へ。以来33年、伊藤房次郎として生きてきた。唐突な告白に息をのむ2人を前に、隠してきた半生を静かに語り始める…。
1883年(明治16年)秋、秩父郡下吉田村。
山間にあるこの一帯の人々は、蚕を飼い生糸を売って暮らしを立てていた。
しかし松方デフレによる生糸価格の暴落、軍備拡張の増税、さらに世界的な不況で生糸輸出の激減が追い討ちをかける。人々は借金に頼らざるを得ない暮らしを余儀なくされ、高利の取り立てに身代限りとなる農家が続出する。
生糸商家「丸井」を営む井上伝蔵は、そんな人々の窮状に心を痛める。高岸善吉、落合寅市、坂本宗作の3人もまた困窮にあえぎ、不当な高利貸しの取り締まりを役所に請願するも全く取り合ってはもらえない。
そんな折、自由民権運動が秩父でも盛り上がりをみせ、「自由党」の演説大会が開かれる。困窮、不平等の元凶は政府にあるという発言に拍手喝采、賛同する人々が続々と入党する。善吉らは、高利貸し取り締まり、借金年賦返済の請願運動を始め、伝蔵もこれに賛同。山中各地で集会を開き賛同者を募り、さらに加藤織平を副総理、大宮郷の顔役で代言人の田代栄助を総理として迎え入れ「困民党」を組織。警察署、高利貸しへ請願・交渉をねばり強く行なうが、ことごとくはねつけられる。さらに高利貸しと裁判所の贈収賄の事実も明るみとなる。
丸井の土蔵に集った困民党幹部たちは、もはや願いを叶えるには政府を打倒するしかないと、命を懸けた武装蜂起を決意する。
1884年(明治17年)11月1日、秩父郡下吉田村の椋神社。陽が落ちてかがり火が焚かれた境内に、竹槍・刀・鉄砲などで武装した民衆3千余が結集。境内に上がった田代栄助が困民党の役割を読み上げ出陣を命じる。
鬨の声が上がり半鐘が鳴り、竹ボラが吹かれる中、ついに武装蜂起が開始された。
神山監督コメント
監督 神山征二郎
「草の乱」の道のりは実に永かった。が、映画づくりをしてこれほどの幸福感にひたれたのは初めてである。
三月十一日、東京五反田の現像所「イマジカ」の第一試写室は製作関係者と緒形直人、林隆三氏など出演者、それに一刻も早く「草の乱」を観るぞ、という配給関係者や映画ジャーナリスト、ロケ隊が本拠を張った秩父郡吉田町の猪野町長ら町関係者で立錐の余地なく埋めつくされた。
「1時間58分の映画になりました」と監督でありプロダクション代表でもある私が開演前の挨拶。職業柄挨拶なれしているのでお一人お一人の顔、その表情までが手にとるように見えている。映画の仕上りに対する期待がどの顔にもありありである。
音声なしの画面に「製作・映画『草の乱』製作委員会」と映写が始まった。
1時間58分10秒でENDマーク。
私は上映中立場も忘れて、三度、四度、涙腺をゆるめていた。だいたいが涙もろい。場内が明るくなる前にとハンカチで目尻をぬぐい、席を立って、なにかフラフラっとスクリーンの前に進み出た。
「このあと、地下のサロンにて、粗宴を」と客席を見渡せば、誰ひとりとして立ち上がらず、終幕の時にも増しての拍手が湧き起こった。
映画づくりで「これで満足」ということは絶対にないのだが、いや、この「草の乱」も「ああしておけば良かった。失敗している。進歩がない」など反省することが後を絶たずではあったが、なぜか
「悔いなし」
と、私の心は思った。作品だから出来栄えは問われなければならない。描いた方向に間違いはなかったろうか、とも思う。
「秩父事件を映画にしよう」
と思い立った人々による、四億三千万円余の製作出資金。自主製作の歴史を変えたといっても過言ではないだろう。いつか映画化を現実のものとしたいと思つづけていたから、製作の期間中、私はこのご出資の大きな恩に感謝の気持ちをずっと抱き続けていた。
2003年の秋から冬へ、三ヶ月のロケの間中、私の宿舎は上吉田の「元気村」のロッジの一棟があてがわれた。一人で住むには広すぎるほどの空間だった。窓の下を吉田川の瀬。撮影が終ると、私はいつもこの流れを見ていた。音楽を依頼したディープ・フォレストのアルバムを毎日、くりかえし聴いていた。どの曲も暗記するほどだ。
眼下の、今は町のグランドになっているあたりに信州に進出しようとした坂本宗作、菊池貫平らが夜営をした。夜が明ければ、藤倉の集落をぬけ、矢久峠越えをして上州中里村、日航機事故、あの坂本九さん(私と同年)等が非業の最後をとげた御巣鷹山の上野村、十石峠から佐久へと彼等は進軍していったのだ――。そんなことを毎日思いつないでは、ただ「恩に報いるのみ」と、私は何か宗教的な気分の中で生きていたようである。
プロフィール
1941年、岐阜県出身。
日大芸術学部映画学科中退。65年、新藤兼人監督の主宰する近代映画協会に参加、同氏や吉村公三郎、今井正らの助監督を経て、71年「鯉のいる村」で監督デビュー。76年『二つのハーモニカ』で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。独立後、83年『ふるさと』では文化庁優秀映画奨励賞など多数の賞を得る。 87年『ハチ公物語』では山路ふみ子映画賞を受賞、同作品は年間興収ベストワンとなる。90年『白い手』では日刊スポーツ映画大賞監督賞、毎日映画コンクール優秀賞を受賞。以降、『遠き落日』(92)、『月光の夏』(93)、『ひめゆりの塔』(95)、『郡上一揆』(00)、『大河の一滴』(01)等、数々の大作・話題作を生み出し、日本映画界屈指の本格派監督として活躍する名匠である。その着実な実績により、第54回中日文化賞、岐阜市民栄誉賞、岐阜新聞大賞、他内外で多数の賞を受賞している。
秩父事件とは
明治17年(1884年)11月1日、埼玉県秩父郡下吉田村(現吉田町)の椋神社に、鉄砲、刀、竹槍などで武装した民衆約3千名が結集し、債務の10ヵ年据え置きなどをはじめとした要求4ヶ条と軍律五ヶ条を定め出陣した。田代栄助、加藤織平、菊池貫平、井上伝蔵らに率いられた困民軍は3日間にわたって、小鹿野町、大宮郷(現秩父市)、皆野町を席巻した。
この報に接した明治政府は内務卿山縣有朋の指揮の下、東京から憲兵隊、鎮台兵を次々と送り出し鎮圧をはかった。近代兵器で武装した鎮台兵(正規軍)の前に困民軍は各地で敗退、菊池貫平に率いられた一隊は群馬を抜け信州佐久平へと転戦するが、11月9日高崎から派遣された鎮台兵により壊滅した。
田代栄助、加藤織平ら指導者をはじめ蜂起参加者たちは徹底して追及され、死刑12名(内執行8名)をはじめ3800余の人々が何らかの処罰を受けることとなった。事件参加者とその子孫は、火付け、強盗の類、"暴徒"と呼ばれ歴史の暗部へと追いやられていった。
富国強兵と中央集権化を急ぐ明治政府は松方デフレと呼ばれる強引なデフレ政策と税収増大策をとり、国民生活は窮乏していた。おりからのヨーロッパの不況とあいまって絹の交易で生計をたてていた養蚕農民たちの打撃はとりわけ大きかった。
各地で湧き起こる自由民権運動に対し、明治政府は徹底して弾圧をすすめた。秩父事件以後日本は朝鮮出兵に始まり、日清戦争、日露戦争、日中戦争、第一次大戦、日中戦争、第二次大戦と矢継ぎ早に戦争を繰り返すこととなった。それは徹底的に民権が蹂躙された歴史でもあった。
沖縄地上戦と占領、東京大空襲、1945年8月広島・長崎への原爆投下、そして15日の敗戦。
日本の敗戦は同時に民主主義回復の出発点ともなった。秩父困民党が求めた"自由の世界"の可能性がここに切り開かれることとなった。1960年、安保条約に反対する国民的運動が高揚するなかで、秩父事件再評価の動きがいっそう強まっていった。事件研究者の動きは顕彰の運動と結びながら広がりを見せ今日に至っている。
なぜいま秩父事件なのか−秩父事件が日本の近現代史の中で持つ意味は重い。民衆が国に対し異議申し立てを行い、政策変更を求めるだけでなくその政府自体の打倒と自らの政府樹立を求め立ち上がったのである。デフレ、長引く不況、高利貸の跋扈、そして戦争−明治のその時代とあまりにも重なり合う今日の日本。年間3万人が自殺する社会、子供たちが、若者が未来を夢見ることができない社会−この行き詰まりにいま私たちが求められていることは何か。
120年前、愛する家族のために、仲間たちのために自らの命をかけて立ち上がったすごいやつらはいま私たちに何を語りかけるのであろうか―
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リンク
「秩父事件〜“獅子の時代”と“草の乱”〜」
http://kurau4gms.at.infoseek.co.jp/chichibu.htm
秩父事件のホームページ(2000年以来更新されてないが内容はしっかりしている)
http://www.kumagaya.or.jp/~yasutani/ccbziken/
JR東労組 エキストラ協力の記事
http://www.jreu.or.jp/