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1347 だまされることの責任 --「使い捨てられる人生」の絶望と悲惨 ベルナール
2004/08/26 14:16
みなさん、こんにちは。
今週号の『アエラ』(8/30号)には「W杯や五輪で日の丸を振るような『ぷちナショ』をはるかに超えた本気の『ガチガチ』ナショナリズムを求める若者が増えている」という --「20代の『ガチ』ナショナリズム」と題する -- 記事がありますが、実にどうしようもない特集です [1]。
まず、「小泉首相の靖国神社への参拝は良いことだ」「今の憲法は改正する必要があると思う」「イラクへの自衛隊派遣に賛成する」「今の日本は、自分にとってよい国だと思う」「今秋のアメリカの大統領選挙でブッシュ大統領の再選を望む」「沖縄のアメリカ軍基地はいままで通りでよい」「世界の安全のために、アメリカが中心的な役割を果たしていると思う」などの設問がならび、すべての質問に関して、30代・40代・50代の人々が低い数値を示しているのに対して、20代だけが高い数値を示しているというのです。
この記事のなかには、こうあります。
> 東京大学大学院情報環の北田暁大助教授(32)は驚く。「何となく気配としては感じてていたけれど、20代と30代ではこれほどの差が出ているとは」(…)前出の北田さんはいう。「イデオロギー的な対立が見られなくなった今、若者の間では、現実主義の一人勝ち状態。議論をしていても、現実と合わないものは『それは理想』で片づけられてしまう」。(…)北田さんが分析を続けている、ネットの巨大掲示板『2ちゃんねる』。世間の誰もが「たたかれる」対象になりうる中で、なぜか「政府」や「官僚」が俎上にあがることは少ない。これも現実主義のあらわれではないかとみる。
この「グラフはすべて朝日新聞世論調査結果(2004年4月)」には、まず母集団の性質が明示されておらず、設問も「良い/悪い」「正しい/間違い」など紋切り型で、問いかけ自体が問題含みでしょう。例えば、憲法に限らず、「改正」つまり「正しく改める」と称せば、反対する人は勢い少なくなってくるでしょう。また、内的権威が不在の日本的精神風土において「寄らば大樹の陰」「長い物には巻かれろ」の事大主義は恒常的に存在しているものであり、《お上》に従順な「現実主義」の蔓延は、「2ちゃんねる」言説を若者の意見に短絡させる発想も問題でしょう。社会で何か事件や問題が起こった場合意見を求められる人は少ないので、活字メディアには一定のセレクションがあります。しかし、誰でも書き込める -- つまり、機会平等であると同時にポピュリズムの温床になりがちな -- ネット上の議論でに、「批判」と「悪口」の区別が出来ない人が多いのは当然であり、「悪口」が単純な二項対立的な白黒議論になりやすく、また「せりあげ」効果から、極端な意見が噴出するのは当然です。以前なら居酒屋の与太話でしかなかったものが、情報ツールの発展により、堂々と活字になってしまうのが現代社会です。
この記事には、「ミニスカ右翼」として知られている雨宮処凛氏(29)に関して、以下のように述べられています。
> 10代から自分と世間や社会の間をすごく遠く感じていた。まるで自分が取り残されていて、生きている意味が見いだせない。「そんな『くすぶり』を抱えた若者は多いんじゃないですか。そこには、明確な『敵』が出てくると、急に充実するんですよ」(…)雨宮さんが、当時出会った敵はアメリカだった。今、日本人の多くが北朝鮮を「敵」にして、充実感を味わっているように感じる雨宮さんは、北朝鮮を数度訪ね、よど号メンバーの子どもとの交流を続けてきた。金正日総書記が拉致を認めた2002年9月から、ネット上で急に個人攻撃を受けるようになり。トークイベントでいきなり「北朝鮮へ帰れ」と言われることもあった。「そういうとき、『この人って今、充実してめんだろうなー』って、思う。自分が何か世の中のためになることをしているというようなことをしているような気になっている。私も昔はそうだった。そのエネルギーが生産的というか、本当に世の中の役に立つ方向に、向けられればいいんですが」。
これに対する記者のコメントは、以下のようなものです。
> 日本を愛する気持ちや大国への憧れをあまりにもストレートに表現する彼らは、裏返せば「自分」という存在への不安感があるのかもしれない。だからこそ、せめて国=日本には強烈な存在感を示してほしいと思うのだろうか。
こんなことは、カントの昔からわかりきったことなのです。カントの『判断力批判』の「崇高」論において、〈崇高〉は形式を持たない対象(無限定性)においても見出されるとし、<崇高> の感情の快は、「生の諸力の瞬間的障害の感情」[2] にもとづき、阻止された感情は、その後一層強力に迸り出ると説明しています。《障害》の産出は、無限定性を整序し、偶発的な無意味なつらなりに区切りを与える機能を果し、無限定に流動するエネルギーは、《障害》の産出によって、認知可能な意味単位と転換され、自分自身についての統一の感覚を保全するというわけです。つまり、内面の混乱とアナーキーは、一対一にも似たコンフリクトの設定によって、その不安が回避されるということです。
しかし、アエラ記者のように、それを「存在への不安」と指摘しただけでは、矮小な個人の極私的ドラマになってしまい、『心のノート』の心理主義的道徳論にからめとられてしまいます。問題は、その「存在への不安」が何によってもたらされているかを問うことでしょう。昨年の日本の自殺者は、ついに三万四千人を超え、その内九千人以上が生活苦によるものです。先のイラク邦人人質事件の際、小泉首相が「自己責任」という、本来経済の分野で用いられる用語を使ったのは、われわれがどんな時代に生きているかを雄弁に物語っています。バブルが崩壊してから経済リスクに関して個人が担える範囲を超え、貧富の差の拡大を積極的に助長する新自由主義経済は、多国籍企業グループの利益のために大多数の人間に「使い捨てにされる人生」を強いるものです。例えば、小泉政権が郵政民営化に応用しようとしている「トヨタ方式」とはどういうものでしょうか?新聞の求人欄を読めばよくわかります。それは、あたかもヨーロッパのブドウ採り入れの「季節労働者」のように組み立て工程の職工の雇用期間を局限し、その短期労働の成果によって、さらなる短期の雇用期間を延長するという、恐るべき労働状況を現出することなのです。
読売巨人の渡辺オーナーは、「たかが選手」という発言で顰蹙を買いましたが、これは新自由主義のみもふたもない弱肉強食の原理を推進しようとしている企業トップの本音なのです。「たかが選手」、それは「使い捨てされる人生」(ジグムント・バウマン)[3] を社員に強いることを当然視する企業トップの本音なのです。「市場」という社会を考える上での一つのモデルに過ぎないものを地球大に拡大しようという新自由主義のイデオロギーと決別しないかぎり、ワンワード・ポリティクスのごまかしで、「気がつけば戦時」ということになりかねないでしょう。
本来は「小さな政府」を目指し、政府機能など道具に過ぎないネオリベがなぜネオコンと連動するかといえば、それは大企業の利益に合致するからです。例えば、ホメイニ革命に遭遇した日本の石油企業は、石油プラントの使用が不可能になりました。発展途上国は政情不安定なことが少なくないので、こうした企業リスクはつきものです。しかし、資源に富み、安価な労働力を確保できる発展途上国への日本企業の進出は続き、企業側はその工場やプラントを自衛隊に守ってもらいたいのです。ですから、ネオコン的発想は、実はナショナル・プライドなどとは関係なく、大企業の要請なのです。
先のアエラ記事は、こうした政治と経済のつながりがわからない20代を特集しているわけですが、採り上げられている学生たちのおバカな発言は、形容の仕様がないほどひどいものです。
> 同じ東大の男子大学院生(30)は3年前、特攻隊を描いた映画「ホタル」に感動し、翌週、鹿児島・知覧にある資料館も訪れた。「日本はもっとポテンシャルがあるはず。ひきこもりや働いていない人たちも含めて一丸となってやれる『日本を強くしよう』という目標があれば、もっとすごい力が発揮されるんじゃないか」。
この学生が、政治学や社会学専攻でないことを願わざるを得ないダメダメ説でしょう。こういう企業利益の手駒になって鉄砲玉の役割を果たしてくれる若者 -- というか石油利権などの企業論理のために死んでくれるバカ者 -- がたくさん出てくれることを、小泉政権と大企業は期待しているわけです。「戦争は政治の継続」なる戦史家クラウゼヴィッツの有名な言葉がありますが、そもそも戦争とは、政治や外交の失敗から起こるのです。政治と外交がしっかり機能していれば、戦争は起こりません。政治家と外交官が無能だから戦争がおこるのです。
このおバカな学生たちにとって、特攻隊は精神の高揚のための契機に過ぎませんが、実際の特攻隊員たちがどんな気持ちで戦地におもむいたか生き残りの隊員から聞いてみるとよいと思います。私の父は、実際に予科練航空隊で敗戦を迎えました。父は、皇族がテレビ画面に映ると、黙ってチャンネルを変えます。「裏切られた」という気持ちが強いからだそうです。さんざん少年たちの理想主義を利用し尽くし、その人生を使い捨てにした旧軍の罪科は、単に中国や朝鮮半島の人々に対してだけのことでははありません。帝国主義的利欲をナショナル・プライドなどと言いくるめて来た欺瞞に、性懲りもなく、まただまされようとしている若者たちは、一体何を考えているのでしょう。先の大戦に関して、巨大な国家ぐるみの欺瞞によって日本人は大きな犠牲を払いました。苦い教訓があるのに、また「だまされ」るなら、それは「だまされ」る方が愚かなのでしょう。
● だまされることの責任
魚住昭・佐高信=著
四六判・168ページ
2004年8月発行
本体価格1500円
ISBN4-87498-329-4
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★ 内容紹介
>1945年、日本敗戦。日本人の多くは「だまされた」と言った。そして60年後の今、再び「だまされた」と人々は言うのか…。敗戦の翌年、映画監督の伊丹万作は「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」と言い、「あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己のいっさいをゆだね……『だまされていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう」と書いた。この言葉を受け、今日の状況について熱く語り合う!
上掲の新刊書の冒頭には、敗戦後まもなく映画監督の伊丹万作氏が書いた「戦争責任者の問題」という記事が掲げられ、そこには、「だまされたものが必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで『だまされること自体がすでに一つの悪である』ことを主張したいのである」とあります。「だまされること自体がすでに一つの悪である」… まさに、その通りでしょう。
共同通信が石場茂・防衛庁長官よる自衛隊「制服組」の権限強化の方針を伝えています [4]。新自由主義という名の新利権主義の本質を、「衣の下の鎧」(ネオリベ)と「鎧の下の衣」(ネオコン)がいかに連動しているかを見極め、小泉政権の「構造改革」などという耳障りのよいごまかしに、若者たちがかくも易々と「だまされ」ることがないようにしなくてはならないでしょう。学生の「学力低下」が言われてから久しいものですが、こうした愚かな若者たちを作ってしたまった教える側 -- 親と教師の側 -- の「学力低下」も併せて考られなくてはならないでしょう。
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[1] cf.
http://www3.asahi.com/opendoors/zasshi/aera/
[2] Philosophische Bibliothek, Meiner, 1990, S.88.
[3] cf.
http://en.wikipedia.org/wiki/Zygmunt_Bauman
[4] cf.
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__243765/detail