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平和新党と平和政権への期待と実践は深まり、進行しています。この動きは、必ず、高まってゆきます。
創造は難しく見えますが、案外と簡単なものでもあります。「言うは易し、行ないは難し」ではなくて、「案ずるより、行うが易し」なのです。
今回は近代日本の出発点となった明治維新を振り返って考えます。
明治維新が大日本帝国の体制として固まり、出発したことは残念なことで、もっとよい選択と可能性はあったと考えています。
「公武合体論」と「大政奉還」により、天皇を奉り、諸侯が協力し、会議を持つことにより、我が国は、プロシャの統一以前のドイツとか、統一以前のイタリアのようになり、
諸侯のリーダーシップから始まって、政治参加を広げて行くことにより、英国型の議会政治国家に移行してゆく可能性は大きかったと思います。
具体的には、小さな藩は合併を進める、侍は政治指導者と職業軍人と警察官に分ける、大衆の政治参加を進める為、各藩と中央で議会を持つ、等のことを進めれば軌道に乗ったであろうと思います。大藩の徳川氏は卒先してそれらを行い得たでしょう。
これにより、伝統を護り、実践を革めることが出来た筈です。
諸侯は政治のリーダーとして、重要な決定に発言権を持って、政治の暴走を抑える役目を果たしえた筈です。諸侯への民衆の信頼が存在した故にこれは出来た筈です。
地方政治の衰退は今では悩みの種で、道州制も主張されています。地方単位での活力が大切なのです。例えば、インドやチャイナでの人口増加の問題も地方単位での政治が独立性が高ければ、各地方で責任を持って考えて行動しますから、解決するのです。
孝明天皇は専制君主を全く望んでは居られなかったでしょう。明治天皇だって望まれなかったはずです。
このように、公武合体論を基礎にして政治を進めてゆけば、天皇はヨーロッパのローマ法皇のような立場(これが本来の天皇に近い)に立たれて専制君主の真似をさせられる事もなかったのです。
そして、地方レベルでの活性力も保たれたでしょう。
民衆の政治参加も進んだでしょう。
「政治への責任感と政治の権威」は諸侯(知事と名が変わってもよい)がしばらく引き継いで保持させることも出来ました。
しかし、残念なことに、我が国は中央集権国家となり、ドイツ帝国やブルボン王朝下のフランスのようになりました。
戦前の共産主義運動で天皇制を絶対王政と看做したことがあったのも無理からぬことであります。
ヨーロッパの帝国主義体制を真似ることとなりました。古代から武家政治が始まるまで、中華帝国の体制を真似て、天皇もそれに押し込めていたので、また、同じこと、似たことをやってしまったのです。
動機として、関が原以来の恨みとか、南北朝以来の恨みもあったかも知れません。
ですから、政治の動機に「恨み」を持ち込んではいけないのです。子孫も回りも苦しむことになります。残念でした、真に。
本日はここで終えます。
護られて在ることを感謝します。