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原爆許すまじ−ノーモアヒロシマ・ノーモアナガサキ(森田実の時代を斬る)
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C0782.HTML
2004.8.5
Q君への手紙(PART3[18])
原爆許すまじ−ノーモアヒロシマ・ノーモアナガサキ
「私はいつも心配するのですが、人間は最後に何か秘密を発見してずっと手軽に人間を殺し、人民や国民全体を滅ぼしてしまうのではないでしょうか」
(モンテスキュー『法の精神』の著者、1689−1755)
Q君。今日は少し長い手紙を書きます。寛容と忍耐をお願いします。
いまから59年前の1945年8月6日、米軍は広島に原子爆弾を落としました。人類史上最大の悲劇が起こりました。日本政府は、最初は原子爆弾のことを「新型爆弾」と発表しました。この新型爆弾のことが日本国民に知らされたのは翌8月7日のことでした。7日15時30分、大本営が次のように発表しました。
「昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり。敵は右攻撃に新型爆弾を使用するものの如きも詳細目下調査中なり」
私は当時小田原市の相洋中学の一年生でした。静岡県伊東市に住んでいました。このときどこにいたのか正確には憶えていませんが、湯河原の農家に学徒動員されていたのではないかと記憶しています。「新型爆弾」のことは口コミで伝わってきました。当時、私たちは毎日毎日米軍機の空襲下でやっと生きていました。米軍機から機銃掃射をやられたこともありました。近くに爆弾を落とされたこともありました。 1945年8月のことは、なぜかよく憶えています。8月9日には長崎に二発目の原爆が落とされました。このときも「新型爆弾」として発表されました。私は長崎新型爆弾のことも口コミで知りました。口コミの伝達力はすごいものです。
いまでは戦時中の日本政府の声明などほとんど注目されませんが、日本政府は二つの新型爆弾への抗議声明を発表しました。8月10日のことでした。一部を引用します。
〈米国政府は今次世界の戦乱勃発以来再三にわたり毒ガスないしその他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の與論により不法とせられりとし、相手国側において、まずこれを使用せざるかぎり、これを使用することなかるべき旨声明したが、米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別かつ惨虐性において從来かゝる性能を有するが故に使用を禁止せられるを毒ガスその他の兵器を遙かに凌駕しておれり、米国の国際法および人道の根本原則を無視して…(中略)…無差別性惨虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪悪なり。〉
Q君。戦時中の大日本帝国政府の言い分は、1945年8月15日の敗戦以後、顧みられることはありません。45年8月15日以後は、すべてアメリカが正しく、日本側はすべて間違っていることにされてしまいました。この世の中、残念なことですが、勝てば官軍、負ければ賊軍です。この日本政府の新型爆弾に対する抗議声明は歴史の記録から抹殺されてしまいましたが、しかし、正しいことは正しいと言わなければなりません。
米国による原爆の使用は、国際法違反の非人道的行為であり人類文化に対する罪悪です。許すべからざる罪悪なのです。米国政府は原爆使用を正当な行為だと言いつづけていますが、これほど非人道的なことはありません。 われわれ日本人は米軍の非人道的行為があったことを永久に叫びつづけなければならないのです。これは8月6日広島、8月9日長崎において一瞬にして生命を奪われた数十万人のわが同胞に対する日本国民の責任です。
Q君。1952(昭和27)年夏、大学生のときです。私は郷里・伊東の松川の淵で「原爆展」を開きました。丸木夫妻が描いた「原爆の図」です。米軍による日本の占領が終わったのは1952年4月28日でした。それまで広島・長崎に関する報道は米占領軍によって禁止されていました。独立とともに解禁されたのです。各地で大学生が原爆展を行いました。私もその一人でした。原水爆禁止の原則は私の原点です。あれから52年経ちましたが、私の気持ちは少しも変わっていません。
Q君。君は第五福竜丸の悲劇のことは知っていると思います。ビキニ環礁での水爆実験で生じた「死の灰」を第五福竜丸が浴びたのです。このため久保山愛吉さんが死去しました。この事件が起きると、東京・杉並の一角から署名運動が始まりました。リーダーは安井郁法政大学教授でした。私も学生運動家の一人として安井教授の署名運動を手伝いました。1954(昭和29)年のことでした。このとき私は工学部の学生でした。 この運動は全国に拡大しました。世界各国にも広がりました。そして1955年8月、広島において原水爆禁止世界大会が開かれました。翌年8月には長崎で第2回原水爆禁止世界大会が行われました。このとき私は大会の実行委員・運営委員をつとめるとともに、大会のスポークスマンの役目を担いました。われわれは全世界に向かって原水爆禁止を訴えました。
Q君。1960年以後私はジャーナリズムのなかで生きることになり、平和運動、反体制運動から離れました。ジャーナリストとしての仕事と運動家としての仕事は両立できないし、また両方を同時にしてはいけないと考えたからでした。また、ジャーナリズムの分野の仕事はあまりに忙しく、他のことは何もできなかったというのが真相です。そのまま今日に到りました。運動ができなかったことは申し訳なかったと思っています。
Q君。夏が来ると8月15日の玉音放送を思い出します。広島と長崎の「新型爆弾」を知ったときのことを思い出します。短い間でしたが学徒動員の体験も記憶から消えません。1946年3月15日に、それまで2年以上行方不明だった兄の戦死がわが家に知らされたときの悲しい体験は決して忘れることができません。ビキニ環礁水爆実験やクリスマス島水爆実験に対しても激しい抗議行動を行ったこと、広島、長崎、東京の原水爆禁止世界大会のこと……すべて忘れることのできない体験です。当時は大多数の日本人が平和を本心から望んでいました。最近、平和を守ろうという世論が弱まったことは残念なことです。
Q君。このごろ、戦争が好きと感じられるような人々が政界、マスコミ、財界のなかに増えていることは本当に困ったことです。テレビで自分があたかも戦中派であるように言いながら戦争を煽っている人を見ると、人類はいつになったら平和に生きることができるのか、心配になります。戦争を知らない人々には戦争の恐ろしさがわからないのかもしれません。悲しいことです。戦争の好きな人は何回戦争をすれば気が済むのでしょうか。
Q君。最近、自民党だけでなく、共産党、社民党以外の全政党が憲法改正に向かって走り始めています。「アーミテージ憲法」といわれるような米国政府の対日政策に従った憲法改正に、政治家、経済界、マスコミが興奮して走り出しています。おそろしいことです。米国政府が求めている憲法改正によって、徴兵制が導入され、集団的自衛権の行使が可能となれば、日本の若者が米国の世界軍事侵略の先兵として使われることになります。少なくともそのおそれがあります。第2次大戦のときは日本の若者は「天皇陛下万歳!」と言って死地に赴かされました。今度は「ブッシュ大統領万歳」「アメリカ万歳」と言わされるのでしょうか。考えるだけでやりきれなくなります。こんなことを許してはなりません。
Q君。1945年8月から59年経った今年の夏。決して原爆の悲劇を繰り返さないこと、再び戦争をしないことを日本国民の生き方として、再確認したい、と切に思います。
Q君。民主党の岡田代表まで、米国へ行って憲法改正発言をするというのは、あまりにも軽率だと思います。憲法問題はもう少し慎重に扱ってほしいと思います。いま、日本国民全体で決意すべきことは、「アーミテージ憲法」といわれるような憲法は絶対につくってはいけないということです。アーミテージ憲法」だけは絶対にやってはいけません。政界は頭を冷やして、憲法改正議論を、日本の政治が米国の従属化から抜け出るまで冷凍するべきです。ではまた。