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<訃報>鈴木善幸元首相が死去
元首相の鈴木善幸(すずき・ぜんこう)さんが19日午後9時15分、東京都内の病院で死去した。93歳だった。自宅は世田谷区経堂3の10の6。葬儀の日取りと喪主は未定。
1911年1月11日、岩手県山田町生まれ。35年、農水省水産講習所を卒業した。32年、三陸海岸一帯を襲った大津波を目のあたりにしたことが政治家を志した。47年4月の総選挙に社会党公認で出馬し初当選。次回総選挙から民自党(当時)に転じて以後、連続16回当選を果たした。
その間、52年に自治政務次官、50年には第1次池田内閣に初入閣して郵政相。64年、第3次池田内閣の官房長官に就任。病気退陣した池田氏から佐藤栄作氏へのバトンタッチに裏方の一人として尽力した。
その後も佐藤内閣で厚相(第2、3次)を務め、68年から9期、自民党総務会長。官僚出身者の多い「宏池会」にあって、党人派として他派とのパイプ役を積極的に果たし、大平内閣の実現に力を注いだ。
80年6月、大平元首相急死のあと、宏池会を引き継ぎ、従来から太いパイプのあった田中角栄元首相の後押しで、7月、首相に就任。「和の政治」を掲げ、内政では「84年度までの赤字国債脱却」を看板にマイナス・シーリングによる予算編成を行う一方、土光敏夫経団連名誉会長(当時)を会長とする「第2臨調」を設置、行財政改革に取り組んだ。
しかし、81年5月の鈴木訪米の際の日米共同声明に盛り込まれた「同盟関係」の表現をめぐって「軍事的意味合いはない」とする首相と外務省が対立、伊東正義外相(当時)が辞任。文部省の歴史教科書の検定に対して中国、韓国が日本に抗議、決着まで1カ月以上もかかった。
総裁再選が確実視されていたにもかかわらず、82年10月12日に突然、総裁選への不出馬を表明、退陣した。内政、外交面での行き詰まりが首相退陣の引き金になったと言われた。
その後、84年秋の総裁選で中曽根康弘氏の再選を阻止するため、竹入義勝・公明、佐々木良作・民社両委員長らとともに“二階堂(進氏)擁立劇“を画策。衆参同日選後の86年9月、派閥は宮沢喜一氏(当時蔵相)にゆだねた。89年10月、田中角栄元首相の政界引退から2週間後、突然「世代交代の大きな波は着実に進んでいると肌で感じている」と引退を表明、90年2月の総裁選に出馬せず、後任に長男俊一氏を充てた。(毎日新聞)
[7月19日22時4分更新]
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040720-00000106-mai-peo