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(回答先: 「国境を越えた家族再会・愛の感動ドラマ」と711、小泉内閣官房の数字結果 投稿者 愚民党 日時 2004 年 7 月 10 日 23:40:02)
【別 称】
男大迹王,乎富等王(『古事記』『日本書紀』)。
【肩書き・職業】
26代目の天皇
【出自・系譜関係】
父は応神天皇7世系にあたる彦主人王。母は振媛。彦杵王(ひこきねのおう)の実弟。
尾張連草香の娘・目子媛との間に安閑天皇,宣化天皇を、
手白香皇女との間に欽明天皇を、
三尾角折君の妹・稚子媛との間に大郎皇子,出雲皇女を、
坂田大跨王の娘・広媛との間に神前皇女,茨田皇女,馬来田皇女を、
息長真手王の娘・麻績娘子との間に荳角皇女を、
茨田連小望の娘・関媛との間に茨田大郎皇女,白坂活日姫皇女,小野稚郎皇女を、
三尾君堅ひの娘・倭媛との間に大娘子皇女,椀子皇子,耳皇子,赤姫皇女を、
和珥臣河内の娘・蠅媛との間に稚綾媛皇女,円娘皇女,厚皇子を、
根王の娘・広媛との間に兎皇子,中皇子をそれぞれ儲ける。
【履歴・事績】
生誕推定年は西暦485〜490年の間で、近江国高島郡を出生地とするが、父の死後は母・振媛の故郷である越國高向で育てられる。越前時代の経歴としては現地の伝説から領地の治水事業をおこなうなど、その経営に率先して関わったとする学説があるが、真相ははっきりしない。西暦507年1月6日頃、大和朝廷の大伴金村らより皇位継承を乞われるが動かなかった。この理由については「朝廷内において継体即位を反対する勢力への牽制」や「継体自身の朝廷重臣らへの不信感」など諸説あるが、この点で最も有力視できるのは、交易などの諸問題をめぐって対立していたと思われる、西方の脅威に注意を払っていた為ではなかったか。
同年2月4日にようやく即位したとあるが、既に1月12日頃に河内国交野郡の葛葉宮に居を移しているところからみて、むしろ皇位継承問題には積極的だったとみるべきであろう。511年10月、山城筒城に居を移す。
512年、金村と穂積押山より上奏された百済への任那四県割譲に同意したが、諸皇子や群臣たちの反発が強かったという。以後、百済をはじめとする朝鮮諸国から国使が次々と来訪、その招請に応えるべく穂積押山や物部至至、近江毛野らの人材を派遣するなど、晩年に至るまで終始、朝鮮半島情勢に介入を繰り返すこととなった。518年、山城国乙訓(弟国)に遷った末、526年9月、初めて大和入りを果たし、磐余の玉穂宮におちついた。527年6月3日、筑紫磐井国造が近江毛野臣の軍を襲って反逆すると、討伐の勅を発して金村と物部麁鹿火を派遣してこれを鎮圧させている。531年2月7日に崩御。12月5日、藍野陵(摂津国三島郡藍野)に葬られた。没年時の齢は40代前半かと思われるが確証はない