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1.消えた『制服組』
募る不信漂う100万票
ずらり顔をそろえた自衛隊OBたちは、強烈な一言に息をのんだ。
「現職議員一人当選させられないで、防衛庁を『省』に昇格させたいというのか。組織力を見せてみろ」
五月中旬、東京・市谷の防衛庁に近いホテル。参院選で再選を目指す月原茂皓(69)の集会で、自民党参院幹事長の青木幹雄(70)は言い放った。
「本末転倒じゃないのか」。会場の一角で、元自衛官は心の中で反論していた。「国民の命と財産を守るためにどんな組織が必要かを考え、それを実現するのは、本来、政治家の仕事なのに」
今回の参院比例代表には、自民党公認で防衛庁の元官僚が出馬する。元広報課長の月原と、防衛医大副校長だった元職鈴木正孝(63)、やはり防衛医大副校長の新人関肇(68)の三人。「われこそが防衛問題のスペシャリスト」と口々に訴える。
だが、制服組の自衛官はいない。政党を問わず制服組が一人も立たないのは極めて異例だ。
「誰も出馬を引き受けなかったということだ。防衛政策の問題点を指摘できるのはわれわれしかいないと自負はあるが、もう政治は見限ったという思いが強い」。自らも出馬要請を断った元将官はこう解説する。
日本最大の国家公務員組織である自衛隊。その数は約二十四万人に上る。OBや関連企業、それぞれの家族を加え防衛関連票は百万ともいわれている。
十八年前。比例代表は届け出時点で当選順が決まる拘束名簿方式だった。陸上幕僚長まで上りつめた永野茂門(81)に、自民党が割り当てた順位は二十五人中二十一位。「選対をやってくれていた元部下が『裏切られた』と泣いてねえ」と永野は当時を振り返る。
結果は、予想を超える自民大勝利。下から二番目に滑り込んだ。しかし、「われわれは軽視されている。自分たちで力をつけなきゃいかん」との悔しさが残った。
二年後、OBたちは政治連盟「防衛を支える会」を設立する。選挙運動ができない現役隊員や公益法人である隊友会に代わり、選挙の実動部隊を務めるのが目的だった。
しかし、やがて政界再編の嵐が吹き荒れる。OB議員は自民党を離党。支える会は政党を問わず、官僚、制服組ともOBすべてを推薦してきたが、六年前には自由党の月原(現在は自民)が当選し、自民党の元陸自学校長は落選。三年前には元防衛事務次官が落選し、参院自民党からOB議員は一時、一人もいなくなった。
支える会の関係者は「どの議員も安全保障を語るようになり、OBも一枚岩でなくなったことと、長年の政治不信から無関心になっているのが原因では」と集票力低下の原因を分析。今回は月原一人に推薦を絞り、選挙に臨む。
無理な憲法解釈を重ねた結果、自衛隊は手かせ足かせをはめられてインド洋へ、そして“戦地”であるイラクへ送り込まれた。多国籍軍参加もなし崩し的に決まった。「われわれは政治家が決めたことを淡々とやるだけ」。自衛官たちは口をそろえるが、思いは複雑だ。
日本から遠く離れたインド洋上。甲板で目玉焼きが焼けるほどの炎熱地獄で、米国のテロ掃討作戦を支援する海上自衛艦の給油活動が始まってもう三年近い。
三回目の派遣となった五十代の自衛官はこう漏らした。「政治家も国民も、騒ぐのは派遣を決めるときだけ。今もわれわれが活動していることを、どれだけの人が知っているんですかね」
(敬称略)
◇
参院選公示を目の前にして、自衛隊がイラクの多国籍軍に加わることが決まった。政治家は国会での論議よりも選挙に大忙し。自衛隊はまた一歩、国民合意のあいまいな世界に踏み進む。七月一日に発足五十年を迎える自衛隊。どのように選挙にかかわり、政治と向き合ってきたのか。自衛隊のもうひとつの“戦場”を探った。
<メモ>
制服組の参院比例代表議員 海軍の名パイロットとして知られ、戦後、自衛隊で航空幕僚長まで務めた源田実(故人)が1962年、OBとして初めて全国区(現比例代表)で当選、4期務める。77年には陸自の堀江正夫(89年引退)が当選。源田の後を永野茂門(98年引退)、堀江の後を田村秀昭(自由党などを経て現民主党)が継いだ。98年には元陸将が立ったが落選、今回は立候補ゼロになる見込み。
(2004年6月19日)
2.新安保議連
『軍』への脱皮掲げ拡大
「日本には、北朝鮮の工作員が二千人くらい入っているといわれます」
愛知県豊橋市内で、十五日夜に開かれた国政報告会。参院愛知選挙区で再選を目指す民主党の木俣佳丈(39)が壇上で語る。
「警察がマークしているだけで、三百七十人はいる。ロケット砲以上のモノを日本国内に隠し持っているというのです」
約千三百人の聴衆が「北の脅威論」に耳を傾けたその前日、参院本会議では有事関連七法案が自民、民主などの賛成多数で可決された。
「参院選がある。衆院は通過しても、参院では継続審議になるだろう」。防衛庁は当初、そう覚悟していた。だが、ふたを開けてみれば会期内に成立。イラクで展開する多国籍軍への参加も、論戦なく決まった。
「やはり、北朝鮮の拉致問題で、国会議員は大きく変わった」。ある自衛隊幹部は、今回の国会審議を見ながら実感した。「あの議連の存在は、小さくないなあ」
自衛隊が熱い視線を送るのは「新世紀の安全保障体制を確立する若手議員の会」(新安保確立議連)。その数、百六十七人。
かつて国会で自衛隊の「応援団」といえば、一握りの自民党国防族だった。陸上自衛隊OBの元参院議員、堀江正夫(89)は「自民の国防部会といっても、細かな予算の話を細々とやっていた。とても、安全保障を根本から考える雰囲気ではなかった」と悔しげに振り返る。
だが、冷戦の終結と、自社対立の五五年体制崩壊は、国防族をも変えた。
米中枢同時テロの二カ月後に、のちに防衛庁長官となる自民党の石破茂(47)らの呼び掛けで新安保確立議連が設立されると、八十九人の議員がはせ参じた。自民五十二人に対して、民主は半分の二十六人だった。
翌年九月には小泉首相が訪朝。北朝鮮による拉致問題が所属議員急増の起爆剤となった。
「隣人がさらわれてしまったという衝撃。そして、その国が弾道ミサイルを持っているという脅威。初めて国民の安全保障観がすそ野から変わった。当然、議会人も変わった」。議連の代表世話人を務める武見敬三(52)はこう指摘する。
昨秋の総選挙で初当選を果たした議員の三人に一人が入った。現在は自民八十五人に対して、民主は七十三人。民主は三倍近く増えた。その一人、民主党の一年生議員、長安豊(35)は「安全保障では、自民の若手議員とわれわれの基本姿勢は同じ」と言う。
民主党は今回の参院選の公約に「陸上自衛隊のイラク撤退」「多国籍軍参加反対」を掲げて、自民党との対決姿勢を鮮明にした。しかし、安全保障の総論では、自民党との間に大きな溝は見えない。
議連は設立時から、「有事法制の整備」「防衛庁の『省』への格上げ」「新しい脅威に対抗しうる防衛力の整備」−などを具体的な実現項目としてきた。このうち有事法制はもう実現した。
運動方針は「新しい憲法の創造をも視野に入れて、わが国の安全保障体制を根本的に見直す」とうたっている。武見は「いずれ憲法改正で、自民・民主の大連立となるとしたら、議連はその受け皿になりうる」と予測する。
自衛隊幹部と新安保議連の中枢メンバーは、勉強会などで積極的に接触を図っているという。自衛隊が「軍」になるための底流は、確実に太くなっている。 (敬称略)
<メモ>
新安保確立議連 メンバーの167人は衆参合わせた国会議員の23%。会派別内訳は自民85、民主73、公明4、改革3、無所属2。1960年以降生まれの118人に限れば、半数近い53人が加わっている。議連では定期的に総会を開き、識者らの講演を聴く。今年2月の講師は中曽根康弘元首相、演題は「安全保障の視点からの憲法改正」だった。
(2004年6月20日)
3.制服組
タブー冒し政治に介入
二〇〇一年九月二十一日夜。降り続く雨の中、制服を背広に着替えた陸上幕僚監部(陸幕)防衛部の佐官たちが、自民党や民主党の議員を宿舎や自宅に訪ねていた。
「隊員が死んで即撤退を命じられては、世界に恥をさらすだけです」
この日の朝、米海軍の空母キティホークが横須賀基地を出港。十日前に世界貿易センタービルを崩壊させた中枢同時テロに対する米国の報復攻撃は秒読みに入った。
永田町では自衛隊派遣をめぐる論議が始まっていた。十年前、日本が百三十億ドルも拠出しながら国際的に評価されなかった湾岸戦争。今度こそ人を出さねば…。そんな論理から陸自による難民の支援が浮かび、次いで地雷除去が候補になった。
「アフガンは内陸の奥深いところにある。部隊を派遣したら、どうやって食料や物資を補給するのか、計画の立てようがなかった」と当時、陸上幕僚長だった中谷正寛(60)は振り返る。
「難民キャンプを管理するには日本の武器使用基準が厳し過ぎて、自分の身さえ守れない。地雷の除去は非政府組織(NGO)の仕事なのに、自衛隊に『やれ』という。議論の方向性が違っていた」
困難な任務を与えられ、隊員に死傷者が出たら世論は撤退一色になる。陸幕では「派遣に国益がない」との声が大勢を占めた。「派遣で押し切られたら、首を差し出すしかない」。中谷は辞表を書いて机に納めた。
そんな中での政治家への直談判だった。だが、国会対策は防衛庁内局(背広組)の仕事。文民統制の観点からルール違反は明らかだった。
内局の幹部は「防衛庁として合意が得られていない案件を制服組の判断で国会議員に説明することはクーデターに通じる。断じて見逃せない」とけん制する。
防衛部は陸幕の中でもよりすぐりのエリート集団。結果、陸自派遣は見送りとなった。だが、どんな思いでタブーを冒したのか。それをたずねても、「お話しすることはない」。彼らは今なお固く口を閉ざしている。
今月十日、北九州市にある曽根訓練場。日本で初めて対テロ攻撃を想定して造られた施設だ。
歩兵に当たる普通科の七人に衛生隊員を含めた八人のグループが、敵に制圧されたとみなすビルに突入。大音響とともに強烈な光を発する手りゅう弾を投げ込み、五秒以内に敵を全員射殺する。
「敵が失神しているのが十秒間。正気に戻る前に勝負をつける」と部隊を率いる三佐の川上直人(53)。「対テロ作戦は一人の不注意が部隊の全滅につながるんだ」。隊員の目が光った。
北朝鮮を仮想敵国にしたとみられるテロやゲリラ対策は、年内に閣議決定される新しい「防衛計画の大綱」の目玉となる。この機会に、陸幕は常備自衛官十四万五千人を十五万人に増やす案を防衛庁内の会議で提示している。だが、増員は容易ではない。
追い風はイラク派遣。武力行使を禁じた憲法の制約から「参加できない」とされてきた多国籍軍への参加がすんなり決まった。陸幕は思いがけない好材料と受け止めている。
「何といってもテロ対策には頭数がいる。海外活動が本格化すれば別の部隊が必要になる」と陸幕幹部は主張する。
陸幕のエリートたちは、再び制服を背広に着替え、永田町周辺に出没することになるのだろうか。
(敬称略)
(2004年6月21日)
画像:ガラス窓をけ破り、建物に突入する隊員。テロ対策を想定し、陸自の訓練はますます厳しい内容になっている=10日、北九州市の曽根訓練場で(嶋邦夫撮影)
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4.『海軍』再建
『外圧』米軍と緊密関係
「軍隊を出したくないとか、あるいはそれは他の国で出してくれ、われわれは援助と便益を提供するくらいでごめんこうむりたいというようなことでは、世界の常識は決して許さぬと考えます」
衆院内閣委員会で、自民党議員が力説した。軍事的な国際貢献のため、憲法を改正して自衛隊を「軍」にすべきだ、と。最近のことではない。自衛隊が設立されて二年後の一九五六年のことだ。
発言の主は、五五年から四期十一年衆院議員を務め、九一年に百歳で死去した元海軍中将保科善四郎。同党の初代国防部会長で、草創期の自衛隊と政界のパイプ役だった。
四五年夏、終戦。保科は米内光政海軍大臣から密命を受けた。「海軍の再建」「新日本建設に海軍の技術を活用」「海軍伝統の美風を新海軍に承継」−。
焼け野原の東京で、保科ら旧海軍将校は再軍備のための準備を水面下で始めた。だが、旧軍部には厳しい目が注がれ、政府も「再軍備より経済復興が先決」との態度だった。そんな中、保科ら旧海軍将校が接近したのは米海軍だった。保科は、米の名門エール大学に留学した経験がある知米派。日米開戦時の駐米大使で、米海軍に知己が多い元海軍大将野村吉三郎を前面に押し立て、GHQ(連合国軍総司令部)の米海軍高官の説得工作に入った。
米海軍は当初、再軍備といっても「沿岸警備隊程度」と考えていた。それを「基礎は日米軍事同盟だ」「米軍が頼むに足る海防力が必要だ」「旧海軍士官の登用なしに、新海軍は機能しない」と説いていった。
五〇年に朝鮮戦争が起きる。鮮明になった東アジアの冷戦構造への米国の危機感。そして米国の「外圧」を期待しての旧海軍幹部の組織的な政治戦略。そうした糸がからみあって、海上自衛隊は誕生した。冷戦期のソ連封じ込め戦略をともにやりぬいたことで、海自と米海軍の間には、陸や空にはない、緊密な関係ができた。
「米軍は、実に自衛隊のことを把握している。内部の議論、対立まできっちり情報収集している」と元海幕長林崎千明(66)は説明する。「こちらのちょっとした発言に、敏感に反応することもある」。ならば、「海軍同士」で話したことが、米国からの「外圧」として日本の政策変更につながることもあるのではないか−。林崎は「それは、認める」と言った。
湾岸戦争後のペルシャ湾への掃海艇派遣、アフガニスタン攻撃時のインド洋での米海軍への洋上補給。国内に大きな議論を巻き起こしながら、海自は冷戦後の米軍の変化に付き添うように、「国際貢献」の先陣を切ってきた。
こうした米国との密接なつながりは、自衛隊のイラク派遣で、陸・空自衛隊にも及びつつある。
制服組と直接意見を交わす機会が多い民主党の「次の内閣」ネクスト外相、前原誠司(42)は「米軍との共同作戦をしていく上で、能力と情報力の差を真剣に考えざるをえなくなった。海は特にだが、陸も空もそうだ。改革の時だ」と指摘し、こう打ち明けた。
「制服組は、かなりの将来的なビジョンを持っている。改憲を前提とした作戦も研究していると聞いた」
海自設立のため奔走した保科が国会で仕掛けた「国際的な軍事貢献のための改憲」論は半世紀を経た今、参院選で問われようとしている。 (敬称略)
旧海軍の伝統 陸上自衛隊と海上自衛隊との組織的体質の違いの一つは、旧軍との関係だ。陸自が旧陸軍と決別し行進の仕方まで変えたのに対し、海自は「旧海軍の美風」を受け継いでいる。日露戦争でバルチック艦隊を破った東郷平八郎元帥の肖像画が庁内に飾られ、式典には行進曲「軍艦」(軍艦マーチ)は欠かせない。
(2004年6月22日)
画像:海上幕僚監部にある先任伍長室には東郷平八郎元帥の肖像画と日本海海戦図が掲げられている=東京都新宿区の防衛庁で
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5.失望の50年
安保置き去り政界再編
「組織を挙げて応援したのに、なぜ…」
一九九三年六月。自民党の比例代表で当選してきた制服組OBの永野茂門(81)と田村秀昭(71)は、小沢一郎(62)率いる新生党に加わった。自民党を唯一の理解者と考えてきた自衛隊関係者に衝撃を与えた。
「二大政党制になり、安全保障をめぐる議論が活発になることに賭けた」。すでに引退した永野は小沢に従った理由をこう説明する。自由党を経て今は民主党にいる田村は「自民には、国の行く末を本気で考える政治家がほとんどいない」と失望していた。
小沢は自民党幹事長だったころ、制服の中堅幹部を呼んで勉強会を開いていた。「改憲し『普通の国』へ」と唱える小沢。多くの自衛官が「何かを変えてくれるのでは」と期待も寄せていた。
七八年夏、統合幕僚会議議長だった栗栖弘臣(84)が週刊誌上で「今の法律では、奇襲攻撃に対して超法規的行動を取らざるを得ない」と発言、解任された。防衛庁長官だった金丸信(故人)は、真意を説明したいという栗栖に「何も聞く必要はない」と言い放った。
栗栖は発言の背景をこう語る。「ソ連機の領空侵犯が増えていた。何度も『長官に直接説明したい』と申し出たが、聞き入れてもらえなかった。専門家はちゃんと分かっているんだと、ソ連に示さなきゃいかんというつもりだった」
二年後に民社党から参院東京選挙区に出馬して次点だった。評論活動を続ける栗栖は言う。「(制服が)意見を言うことが違反だとは思わない。それをしてこなかったことが国民の思考停止を招いた、と今も思う」
九五年の阪神大震災。中部方面総監として救助活動を総指揮した松島悠佐(65)も政界再編が進む中で「政治理念がなくなった」と感じていた。九八年参院選に「意識改革を促したい」とミニ政党から挑んで敗れた。
自衛隊員が入隊時に読み上げる宣誓書。その中に「政治的活動に関与せず…」のくだりがある。
「これをたたき込まれるあまり、政治に無関心になってしまってね」と、あるOBは苦笑する。政界でなかなか力を発揮できないOB議員。有事法制をめぐるあいまいな論議。いら立つあまり、無関心を装うようになったようだ。
かつて自衛隊OBは九十万票を集めたことがある。三年前の参院選では比例代表に自民、民主、自由から三人が出馬。政党名での投票が七割を占めたので単純に比較できないが、候補者名での得票は三人合わせて二十万票に届かなかった。
「しばらく投票に行く気になれない時期があった」と、四十代の幹部自衛官は打ち明ける。自らも派遣の予備要員となったカンボジア国連平和維持活動がきっかけだった。非現実的な武器使用規定を決めて送り込もうとする政治家の無策にあきれ、「隊員が無視されている」と感じたからだ。
だが、今回は投票に行こうと思っている。比例代表で入れる政党は決めた。政策を全面的に評価するわけではない。その党がもっと強くなれば、国論が割れている段階でイラク派遣が強行されるような事態は防げる、と思うからだ。
今後、自衛隊はどこへ向かうのか。
「八割とは言わない。せめて七割近い国民の支持をもらって国策を決めてほしい」。そんな願いを、一票に込める。 (敬称略)
=おわり
この連載は半田滋(社会部)、星浩、池田千晶(名古屋社会部)、嶋邦夫(写真部)が担当しました。
(2004年6月23日)
画像:自衛隊員は1票に何を託すのか。参院選ポスター掲示板の横を出勤する防衛庁職員=東京都新宿区市谷本村町で
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